どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワードは?
・重要な人物は、だれ?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
② フランク王国による統一
③ ノルマン人の移動
④ ローマ=カトリック教会の発展
⑤ ビザンツ帝国の盛衰
⑥ 十字軍の遠征
⑦ 百年戦争の勃発
⑧ スペイン&ドイツの動向
・トゥール・ポワティエの戦い
・ビビンの寄進
・カールの戴冠
・ノルマンディー
・叙任権闘争
・十字軍遠征
・百年戦争
・国土回復運動
・大空位時代
・カール大帝
・グレゴリウス7世/ハインリヒ4世
・ウルバヌス2世
・エドワード3世
・ジャンヌ・ダルク
・イザベル&フェルナンド
…
この記事では、つぎの本を参考にしました。
以下、目次にそって、みていきます。
中世ヨーロッパの歴史① ─ ゲルマン民族の移動

アジア系・遊牧民「フン人」におされるかたちで、ゲルマン民族が、ローマ帝国の国境をこえて、侵入します。
期間は、4世紀〜6世紀 ─ 約200年におよびます。
古代ローマでも、北アルプスを越えた場所で暮らす「ゲルマン人」は知られていました。
侵入・侵略にも、悩まされていました。
しかし、この期間の大移動は、その比ではありません。
ローマに、決定的な影響をあたえます。
ゲルマン部族による建国
ローマ領に、移動・侵入したゲルマン人は、ローマ人(=ラテン人)をはねのけ、居住先をもとめます。
部族ごとに、ヨーロッパ各地に、自分たち国を建てていきます。
ざっくりまとめると、こんなかんじ。
・西ゴート族 → イベリア半島
・フランク族 → 北西フランス
・アングロ=サクソン族 → ブリテン島
発音からもわかるように、
アングロ=サクソン族 → イングランド
といったかんじで、いまのフランス&イングランドの〝ご先祖さま〟です。
西ローマ帝国の滅亡
ゲルマン人の侵入&建国によって、西ヨーロッパ一帯をおさめていた「西ローマ帝国」は滅亡します。
いっぽう、ギリシャ地域に位置する「東ローマ帝国」は、1000年以上、存続します。
中世ヨーロッパの歴史② ─ フランク王国による統一

西ヨーロッパに進出し、それぞれの部族が国を建てていきます。
なかでも繁栄したのが「フランク王国」でした。
立役者は、メロヴィング家「クローヴィス」─ 。
かれは、まわりの部族を征服しながら、勢力を一気にひろげます。
トゥール・ポワティエの戦い
つぎに、フランクの実権をにぎったのが、メロヴィング朝の宰相「カール・マルテル」です。
「トゥール・ポワティエの戦い」で、イベリア半島を支配していた「イスラム勢力」を追い払います。
その後も、ひきつづき領土を拡大していきます。
ピピンの寄進
つづいて、むすこの「小ピピン」が、「カロリング朝」をひらきます。
かれは、ローマ教皇から「王位の承認」を得るため、教会の要請に応えます。
当時、民族移動の影響で、ローマの都は、ランゴバルド王国に占領されていました。
都市奪還のため、教会は、軍事支援を求めます。
要求どおり、ピピンは、軍を率いて、ローマに侵攻 ─ 。
みごと勝利をおさめ、イタリア中部&北部の征服に成功します。
そのさい、土地の一部を、教皇に献上します。
これを「ピピンの寄進」とよびます。
ピピンは、教皇から「王位承認」をもらうことに。
以後、フランク王国は、教会の保護国となります。
また、寄進した土地は「ローマ教皇領」となっていきます。
カールの戴冠
さらに、小ピピンのむすこ「カール大帝」は、勢力をのばし、
・西方の「イスラム勢力」
・北イタリアの「ランゴバルド王国」
を相手に、勝利をおさめます。
結果、いまの「ドイツ」「フランス」「北イタリア」をふくむ領土をおさめることになります。
さらに、ローマ教皇は、300年以上まえに滅んだ「西ローマ帝国の冠」を、カール大帝に授けます。
背景には「ローマ帝国」を復活させる意図がありました。
このできごとを「カールの戴冠」とよびます。
フランク王国の分割
カール大帝の死後、領地は3人の孫に引きつがれます。
しかし、かれらは「領土争い」をくりかえします。
結果、二度と統一されることなく、領土は3分割されます。
「東フランク王国」「西フランク王国」「イタリア」 ─ 。
そしてこれがいまの「フランス」「ドイツ」「イタリア」につながります。
・東フランク王国 → 神聖ローマ帝国 → ドイツ
・イタリア → 都市国家に分裂 → イタリア

(出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』)
中世ヨーロッパの歴史③ ─ ノルマン人&スラブ人の移動

フランク王国が分裂したころ、ノルマン人の大移動が起こります。
ゲルマン人につづき、第2の民族移動といわれています。
それまで、ノルマン人は、海賊&海洋交易によって、生計を立てていました。
ゲルマン人と同じく、ヨーロッパ各地に、自分たち国を建てていきます。
地域と王朝(王国)は、つぎのとおり。
・ロシア → ノブゴロド国
・フランス北西部 → ノルマンディー公国
・イギリス → ノルマン朝
発音からわかるとおり、イギリス地域の「ノルマン朝」は、ノルマンディー公国の公爵「ウィリアム1世」が、海を渡り、建てたもの。
いまのイギリス王家も、ノルマン朝がもとになっています。
…
西ヨーロッパでノルマン人が移動していたころ、東ヨーロッパでも民族移動が起こります。
「スラブ人」の大移動です。
ゲルマン人の移動をもたらした「フン族」の勢力が衰えたあと、空いたスペースを埋めるように、スラブ人が入ってきます。
ゲルマン人&ノルマン人と同じく、各部族が、国を建てていきます。
現在の
・ポーランド人
・チェコ(チェック)人
・セルビア人
・クロアチア人
の原型は、このときにつくられていきます。
中世ヨーロッパの歴史④ ─ ローマ=カトリック教会の発展

ローマ帝国が東西に分裂してから、教会は、
東側 → コンスタンティノープル教会
に、分かれました。
はじめは足並みをそろえていました。
けれど、「聖像崇拝」など、教義をめぐり、2つの教会は、対立を深めていきます。
ローマ教会は、普遍で、万人に開かれてことをアピールするために「カトリック」と名のります。
いっぽう、コンスタンティノープル教会は、正しさをアピールするために、「ギリシャ正教」と名のります。
東側 → ギリシャ正教
ローマ=カトリックの策
東側のギリシャ正教は、東ローマ帝国が存続していたので、政治も経済も安定してしました。
いっぽう、西ローマ帝国が崩壊した「ローマ=カトリック」は、政治情勢は不安定でした。
そのため、軍事面・経済面でのサポートを求めていました。
そこで、
・カール大帝に「冠」を授ける
といった策に出ます。
「権威づけ」の見返りに、軍事&資本での支援を受けることに成功します。
「叙任権闘争」の勃発
教会は、キリスト教徒から、独自の「税金=寄付」を徴収することで、組織を維持します。
じょじょに豊かになり、ほかの王国よりも「政治力」をつけるほど、発展します。
そのために、
・教皇 vs 皇帝
のあいだで、対立が起きてしまいます。
とくに有名な争いが、「叙任権闘争」です。
具体的には、
vs
神聖ローマ帝国皇帝「ハインリヒ4世」
の争いでした。
きっかけは、皇帝にたいする、ローマ教皇の「破門」です。
当時、破門は、キリスト教世界から追放を意味します。
治めていた諸侯との関係悪化を恐れた皇帝は、許してもらうために、教皇のもとを訪れます。
その場所が、カノッサ城でした。
けれど、教皇は、皇帝に会おうとせず、城の中に入れようとしませんでした。
それでも皇帝は、寒空のもと、許しを請うために、何度も城を訪問します。
城の入口で〝ひれ伏した〟ことから、このできごとは「カノッサの屈辱」とよばれます。
中世ヨーロッパの歴史⑤ ─ ビザンツ帝国の盛衰

うえでみたとおり、ローマ帝国は、
・東ローマ帝国
に分裂します。
年月をへて、東ローマ帝国は「ビザンツ帝国」とよばれるようになります。
「ビザンツ」は、首都・ビザンティウム(=コンスタンティノープル)に由来します。
西ローマ帝国は、ゲルマン民族の侵入により滅亡しました。
けれど、東ローマは、分裂して以降、1000年ちかく存続します。
帝国の発展
西ヨーロッパは、たびたび民族移動の影響を受けます。
そのため、政治・経済が疲弊します。
いっぽう、東ヨーロッパは、民族移動の影響を受けませんでした。
そのため、首都「コンスタンティノープル」を中心に、商業・経済が発展 ─ 。
貨幣まで導入されるほどでした。
6世紀、東ローマ皇帝「ユスティニアヌス」のころには、
・イタリアの一部
の一部をおさめ、ローマ帝国期と同じくらいの領土を手にします。
帝国の衰退
しかし、6世紀・後半ごろから、じょじょに衰退していきます。
東方 → ササン朝ペルシアに侵略
北方 → スラヴ人による進出
こんなかんじ、各地の領土が、奪われていきます。
さらに7世紀以降は、たびたび「イスラム勢力」の侵略を受けるように。
つねに、緊張状態を強いられるようになります。
「十字軍」の要請
その後、ビザンツ帝国は、トルコ系イスラーム勢力「セルジューク朝」に侵攻されます。(11世紀頃)
領土も、どんどん失っていきます。
トルコ人が移り住んでくるなか、セルジューク朝は、キリスト教の聖地「イェルサレム」を占領します。
アタマを悩ました、皇帝「アレクシオス1世」は、対立していた「ローマ=カトリック教会」に軍事支援を求めます。
これが「十字軍遠征」につながります。
さいしょのうちは、うまくいきました。
しかし、遠征をくりかえすたびに、失敗に終わります。
それでも、しぶとく生き残ったビザンツ帝国は、オスマン帝国に首都「コンスタンティノープル」を陥落させられるまで、存続することになります。(〜1453年)
中世ヨーロッパの歴史⑥ ─ 十字軍の遠征

述べたとおり、十字軍遠征のきっかけは、西ヨーロッパ諸国にたいする、東ローマ帝国からの要請です。
目的は、イスラム勢に奪われた「イェルサレム」をとりかえすこと ─ 。
西ヨーロッパの王国が協力して、遠征軍を送りこむ〝一大イベント〟でした。
遠征の経緯
ローマ教皇「ウルバヌス2世」による指導のもと、1096年にスタートします。
期間は約200年 ─ 。
計7回、実施されました。
まとめると、こんなかんじ。
第2回(1147年〜) → 失敗
第3回(1189年〜) → 失敗
第4回(1202年〜) → 失敗
第4回(1228年〜) → 交渉による成功
第6回(1248年〜) → 失敗
第7回(1270年〜) → 失敗
とはいえ、まともに戦って、聖地を奪還できたのは、「第1回」のみです。
あとは、大敗したり、本来の目的から外れて「べつの都」を占領したり……。
毎回、プレイヤー(=国王)も変わり、軍の統制も、とれていませんでした。
西ヨーロッパが一体となって遠征したのは、さいしょの1回だけです。

(出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』)
遠征による影響
聖地奪還は、失敗に終わりました。
けれど「十字軍遠征」は、西ヨーロッパに2つの影響をあたえました。
・教会権威の低下
十字軍遠征により、道路が整備されていきます。
それにともない、[ヨーロッパ圏 ⇄ イスラム圏]のあいだで、モノ・ヒト・情報の行き来が、活発になります。
結果、中継地となった「都市」が、発展します。
たとえば、
・ジェノヴァ
・ミラノ
・フィレンツェ
・リューベック(ドイツ)
・ハンブルグ(ドイツ)
などなど。
これらの都市では、商業が発展します。
おもしろいのは、どの都市も、その後の資本主義社会の中核を担っている点 ─ 。
その意味で、十字軍の遠征が、資本主義経済をもたらした、といえるのかもしれません。
…
いっぽうで、教会の権威は、低下しました。
そもそも「十字軍遠征」は、教皇のかけ声で始まったもの。
失敗したとなれば、「ローマ=カトリック教会」の権威は、ガタ落ちです。
反対に、遠征軍を提供した、各王国の権威は高まっていきます。
エルサレムでの「武勇」を耳にする民衆は、教皇よりも、自分たちの王様を敬うようになるからです。
中世ヨーロッパの歴史⑦ ─ 百年戦争の勃発

ローマ教会に代わり、各地域の国王は、チカラをつけていきます。
それにともない、王国のあいだでの〝領土争い〟も、活発になっていきます。
戦争の要因 ─ 王位継承&領土権
その代表例が、「百年戦争」です。
百年戦争は、
の戦いです。
1339年〜1453年にかけて、断続的におこなわれました。
戦争の要因は2つあります。
1つは、王位継承の問題です。
当時、カペー家が「フランク王国」をおさめていました。
けれど王位が断絶し、かわりに、ヴァロワ家の「フィリップ」が引き継ぐことになります。
これに反対したのが、イギリス王「エドワード3世」でした。
母親が、カペー家の出身ということで、
と、主張 ─ 。
これにより、イギリス vs フランスの対立が、はげしくなります。
…
もう1つは、領有権の問題です。
フランク王国は、
・ワインの産地「ギエンヌ地方」
を保有していました。
イギリスは、以前から2つの土地を狙っていました。
利益獲得のため、フランスに戦争をしかけます。
戦争の展開 ─ ジャンヌ・ダルクの登場
戦争の前半では、「クレシーの戦い」「ポワティエの戦い」で勝利したイギリスが、フランスを圧倒します。
国内では内乱も起こり、フランスは劣勢に立たされます。
しかし後半では、「ジャンヌ・ダルク」の活躍もあり、形勢は逆転します。
「神のお告げ」をうけた彼女は、フランス王「シャルル7世」を支援・救済 ─ 。
イギリスが包囲する町「オルレアン」を解放することに成功します。
これをきっかけに、イギリス軍は撤退し、領地を手ばします。
さいごは、フランスがイギリス勢を大陸から追いはらい、百年戦争が終結しました。
戦争の影響 ─ 封建領主の没落
「百年戦争」をふくめ、王国のあいだの争いは、その土地の「領主」に大きな打撃をあたえます。
中世ヨーロッパは、封建制度(=領主と農民の主従関係)で成り立っていました。
けれど、戦争で土地が荒らされることで「農民一揆」が、たびたび起こります。
結果、領主の経済状況も悪くなり、じょじょに没落していきます。
いっぽうで、国王には富が集まり、権力が集中していきます。
これがのちの「絶対王政」へとつながっていきます。
中世ヨーロッパの歴史⑧ ─ スペイン&ドイツの動向

のべたとおり、「十字軍の遠征」以降、教会にかわり、王国がチカラをつけていきます。
このころ、スペインとドイツも、頭角をあらわしてきます。
それぞれの動きを、みていきます。
スペイン王国 ─ 国土回復運動(レコンキスタ)
それまで、イベリア半島は、イスラム勢力が統治していました。
中世の後半になると、もともと治めていたキリスト教徒の手によって、領土を取り戻そう、という運動が起きます。
これが、国土回復運動(レコンキスタ)です。
イスラム勢力と争いのなかで、
・アラゴン王国
が台頭 ─ 。
&
・アラゴン王子「フェルナンド」
の結婚により、スペイン王国が誕生します。
スペイン王国は、「ナスル朝」を打倒 ─ 。
これにより、イスラム勢力をイベリア半島から追い出すことに、成功します。
神聖ローマ帝国 ─ 大空位時代
フランス王国が分裂したあと、[東フランク王国 → 神聖ローマ帝国]の流れで、領土を治めていました。
ドイツ王「オットー1世」の即位をきっかけにして、国のかたちが、できあがっていきます。
その後、
・ローマ=カトリック教会のキリスト教世界を守る
という理念(=名目)から、「神聖ローマ帝国」とよばれるようになります。
とはいえ、内実は、各地の諸侯たちがバラバラに存在する〝寄り合い国家〟でした。
そのため、「だれを皇帝にするか」を決められず、皇帝不在の期間が長くつづきます。
この時期を、大空位時代とよびます。
また、神聖〝ローマ〟帝国という国名でも、治めている土地は、いまのドイツ地域でした。
そのため、ローマ=カトリック教会の保護国になるため、イタリアに攻め込みます。
しかし、何度もトライしてみるものの、成果は出ません。
結果、フランスをはじめ、教皇に代わり、国王がチカラをつけるなかでも、まとまりのないドイツでは、目立った君主が、生まれません。
以後、ドイツは、各地域の諸侯が、小競り合いをつづける状況が、つづいていきます。
まとめ
② フランク王国による統一
③ ノルマン人の移動
④ ローマ=カトリック教会の発展
⑤ ビザンツ帝国の盛衰
⑥ 十字軍の遠征
⑦ 百年戦争の勃発
⑧ スペイン&ドイツの動向
・トゥール・ポワティエの戦い
・ビビンの寄進
・カールの戴冠
・ノルマンディー
・叙任権闘争
・十字軍遠征
・百年戦争
・国土回復運動
・大空位時代
・カール大帝
・グレゴリウス7世/ハインリヒ4世
・ウルバヌス2世
・エドワード3世
・ジャンヌ・ダルク
・イザベル&フェルナンド
この記事が、「中世ヨーロッパの歴史&流れを知りたい人」の参考になれば、うれしいです。
ではまた〜。