どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・ザマの戦い
・「パンとサーカス」
・ラディフンディア
・大スキピオ
・グラックス兄弟
・地中海支配は、富裕層の増大&中小農民の没落をもたらし、重装歩兵を基盤とした市民軍団の崩壊をまねいた
この記事では、つぎの本を参考にしました。
以下、目次に沿って、みていきます。
目次
共和政ローマとイタリア半島統一

身分闘争が終わり、貴族と平民の立場が対等になったのち、ローマは地中海にむけて征服活動を開始します。
まず、イタリア半島から手をつけ、ギリシャ植民地タレントゥムの陥落をもって、半島の統一を完了させます。
そのさいの原動力が、中小農民から成る重装歩兵部隊でした。
征服した土地は、各都市として分割し、それぞれが同盟を組んでローマ本国に反乱をおこさないよう、工夫しました。
共和政ローマとポエニ戦争

イタリア半島を統一したローマは、本格的に海に乗りだします。
さいしょの争いが、シチリア島をめぐるカルタゴとの戦いでした。カルタゴは、フェニキア人による植民都市で、古くから海洋交易で繁栄をきずいていました。
地中海にむけて征服活動をおこなうローマにとって、避けられない相手でした。
カルタゴとの戦いは計3回おこなれ、総称してポエニ戦争とよばれます。
第1回の戦いでは、ローマはカルタゴに勝利して、ねらいどおりシチリア島を獲得します。このシチリア島は、ローマにとってさいしょの属州となりました。
第2回の戦いは、ポエニ戦争のなかで、もっとも劇的でした。
カルタゴ軍のリーダーであるハンニバルは、正面の海からではなく、イベリア半島からピレネー山脈&アルプス山脈をこえ、ぐるっと迂回して、ローマの北方から攻めこみます。
2つの山脈をこえ、内陸側からやってくると思っていないローマは、カンネーの戦いでやぶれ、一時は都ローマが陥落しそうになりました。
しかし、ローマ側に名将大スキピオがあらわれると逆襲に転じ、ザマの戦いではカルタゴ軍に勝利をおさめます。
それによりカルタゴは、地中海沿岸をふくむ、すべての海外領土を譲り渡し、さらに賠償金の支払い&軍隊保有の禁止を約束されます。
第3回の戦いは、締結の約50年後におこなわれました。
すでにこのときは、ローマの軍事力は相当なもので、もはやカルタゴは帝国の敵ではありませんでした。
ローマは、カルタゴの町を徹底的に壊滅し、滅亡させるにいたります。
こうして、全3回の戦いをつうじてローマは、西地中海の世界を支配下におさめ、帝国としての地位をきずくことになります(B.C.146年)。
共和政ローマとマケドニア征服

ポエニ戦争のかたわら、まわりの国々をおさめ帝国となったローマは、ギリシャ世界に目をむけます。
ここは、ヘレニズム時代をつうじて、アンティゴノス朝マケドニアが盟主となっておさめていました。
とはいえ、長年の統治から力を失っていたマケドニアもまた、ローマの敵ではありませんでした。
あっさりと侵攻をゆるし、アンティゴノス王朝は滅亡をむかえます。
さらに進路を南にとり、ローマ軍は、ギリシャ民主政のおもかげが残るコリントを破壊します。他国と同じく、ここを属州化することで、東地中海の世界も、勢力下におさめます(146年)。
共和政ローマ社会の変容

みたとおり、征服活動をつづけるローマは、国外でその影響力を高めていきます。
いっぽうで、海外で勢力をのばすローマは、国内のようすも変わっていきます。
おもな変化は、つぎの3つです。
・経済格差の拡大
・大植民地経営の普及
それぞれ、かんたんにみていきます。
中小農民の没落
海外で領地を獲得するいっぽう、ローマには属州から価格の安い穀物が大量に流れこんできます。
それにより、もともとローマ国内で農業を営んでいた人びとは打撃をうけ、中小農民は没落していきます。
また、ローマでは軍の参加費は、すべて自前だったので、その負担もまた農民の没落を後押ししました。
おちぶれた農民は、都市ローマに流れこみ、無産市民と化します。かれらは政治家たちに「パンとサーカス」を要求し、この費用負担が、ローマ政治の運営に、深刻な問題をあたえるようになっていきます。
経済格差の拡大
中小農民は没落していくいっぽう、元老院議員や騎士階級の人たちは、属州での税徴収の権利をえたことで、よりいっそうお金もちになっていきます。
ここでいう騎士とは、公共の土木事業や、属州地での税請負により、富をたくわえた新しい社会階層の人たちです。
いわゆる〝成り上がり〟で、なかには元老院議員よりも資産をもつ者まで、あらわれました。
両者がふところをあたためることで、ローマ国内の経済格差は、ますます広がってゆくことになります。
ラティフンディア(大植民地経営)の普及
ラティフンディアとは、大規模な農業経営のことです。
さきにみた元老院議員や騎士階層を中心に、戦争捕虜を奴隷としてあつかい、オリーブやブトウなど、商品となる作物を栽培させました。
もちろん全員が全員、お金を稼げたわけではありませんが、資本金があれば、わりとかんたんに儲けが出たため、ラティフンディアは富裕層のあいだに広まっていきました。
これによりローマ国内の経済格差は、よりいっそう拡大したのは、言うまでもありません。
また、あまりに奴隷を酷使させたすぎた結果、農業経営をおこなう属州地では、たびたび反乱がおこります。
なかでもシチリアでの奴隷反乱は、規模が大きく、元老院や平民会でも、問題となりました。
グラックス兄弟による共和政ローマ改革

以上のような、ローマ国内の問題を解決するために立ち上がったのが、グラックス兄弟でした。
ふたりとも、ポエニ戦争で活躍した大スキピオの親族ということで、社会正義にかられ、なんとか格差を解消しようとしました。
護民官の座についたあと、約200年まえにつくられたリキニウス法を復活し、富裕層の大土地所有を制限します。
そのうえで無産市民へ土地の分配をおこない、国内農業の底上げをはかります。
くわえて、古き良き重装歩兵の市民軍団をととのえ、ローマへの愛国心を高めようとします。
しかしどちらも、元老院や富裕層の意向を無視して、むりやりおしすすめたため、かれらの恨みを買ってしまいます。
結果、兄は暗殺、弟は自殺といったかたちで、理想に燃えたふたりは、たいへん不幸な最後をむかえます。
けっきょく、ローマの経済格差は、よりすすんでしまい、以降は実力だけがものをいう「内乱の1世紀」へと突入していきます。
おわりに
共和政ローマにおけるポエニ戦争の流れをみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・ザマの戦い
・「パンとサーカス」
・ラディフンディア
・大スキピオ
・グラックス兄弟
・地中海支配は、富裕層の増大&中小農民の没落をもたらし、重装歩兵を基盤とした市民軍団の崩壊をまねいた
この記事が、共和政ローマにおけるポエニ戦争を理解するさいの参考になれば、うれしいです。
では、また。




