どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・クレルモン宗教会議
・イェルサレム王国
・ラテン帝国
・少年十字軍
・宗教騎士団
・アレクシオス1世
・十字軍遠征は、教皇権の衰退、王権の強化、貨幣経済の広まりをもたらした
この記事では、つぎの本を参考にしました。
以下、目次に沿って、みていきます。
目次
十字軍の背景

十字軍遠征は、イスラーム勢力のセルジューク朝がイェルサレムを占領したことから始まります。
隣国のビザンツ帝国は、イスラーム勢力が小アジアにまで進出することを恐れ、同じキリスト教を掲げる西ヨーロッパのローマ教会にたいして支援をもとめます。
ときのビザンツ皇帝アクレシオス1世は、ローマ教皇ウルバヌス2世にむけて、イェルサレム奪還を理由に軍事遠征を要求します。
このときの軍隊が十字軍です。
要請をうけた教皇ウルバヌス2世は、クレルモン宗教会議をひらき、ヨーロッパ諸国の君主にむけて十字軍派遣を提唱します。
それぞれの王国は、教皇の求めに応じて、十字軍を送ることを決めます。
十字軍遠征をもたらした要因
とはいえ、それぞれの国は、どうして十字軍派遣をおこなうことができたのでしょうか。
それには、ふたつの要因がありました。
ひとつは、ヨーロッパ全体の経済発展がなされていたことです。
この当時、
・気候の温暖化
・農業技術の革新
により、ヨーロッパ経済は大いに発展していました。
具体的には、三圃制や鉄製重量有輪棃の普及により大開墾運動がすすみ、農業生産高はかなり向上していました。
そのために、人口は増え、都市も発達し、人びとのあいだでは領土拡大の機運が高まっていました。
じしつ、このころの西ヨーロッパ世界は、領土拡張運動がもりあがり、
・東方植民(東ヨーロッパ)
・ネーデルランド干拓事業(オランダ)
などの事業が積極的になされています。
十字軍遠征もまた、その一環でした。
もうひとつの要因は、宗教熱の高揚です。
うえにあげた国土回復運動(レコンキスタ)では、イスラーム勢力を相手に、キリスト教徒が領土を奪いかえす動きが加速しました。
またこの当時、聖地巡礼が流行り、ローマ、イェルサレムなど、キリストゆかりの土地をめぐるのが、人びとのあこがれとなっていました。
なかでも、スペイン北西部の都市サンチャゴ=デ=コンポステラは、12使徒のひとりヤコブの骨が見つかった場所ということで、ヨーロッパ各地から巡礼者が、たくさん押し寄せました。
このような宗教熱の高まりもあって、十字軍遠征も積極的におしすすめられていきました。
各階層の思わく
しかし、十字軍遠征とひとくちにいっても、各層の担い手(アクター)には、それぞれ思わくがありました。
まとめると、つぎのようになります。
→ 叙任権闘争の有利にすすめ、東西の教会を統一したのち、主導権をにぎる
・諸侯&騎士
→ 戦利品を獲得し、領土を広げる
・一般民衆
→ 免罪と債務を取り消してもらう
・北イタリア商人
→ ムスリム商人をおさえ、東方貿易を広げる
これだけみても十字軍遠征は、信仰上の理由からなされたものではない、とわかりますね。
クレルモン教会会議では、それに興奮した群衆に、武器をとって、異教徒から聖地を奪取するよう訴えた。ウルバヌス2世のよびかけは、教皇権に新しい軍事的役割をあたえ、人びとは男女・貧富・老若をとわず、真摯な信仰心から、富への渇望まで、さまざまな理由から十字軍に参加した。(p.171)
─ 『詳説 世界史研究』
十字軍の展開

十字軍遠征は、約150年にわたり、計7回実行されました。
主要なできごとをまとめると、つぎのようになります。
イェルサレムを占領したのち、イスラーム教徒を虐殺し、イェルサレム王国を建国
第2回(1147年〜49年):
シリアでイスラーム勢に敗退
第3回(1189年〜92年):
神聖ローマ皇帝バルバロッサ、フランス王フィリップ2世、イギリス王リチャード1世が参加するものの、お互いの協調がとらず敗北。その後、アイユーブ朝の君主サラディンがイェルサレム占領し、彼の寛容な精神からキリスト教徒の巡礼が認められる。
第4回(1202年〜1204年):
教皇イノケンティウス3世により提唱されるものの、ヴェネツィア商人にそそのかされた十字軍兵士が、支援を求めたビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国を樹立。ビザンツ帝国の支配者層は亡命を余儀なくされ、ニケーア帝国などの臨時政権をたてる。
第5回(1128年〜29年):
歴史上、最初の啓蒙君主とされる神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が活躍する。彼は武力をつかわず交渉によって、イスラームとの共同統治によってイェルサレムを管理すると決める。
第6回(1248年〜1254年):
フランス王ルイ9世が、(イェルサレムではなく)エジプトを攻撃し、敗北。本人は捕虜としてつかまる。
第7回(1270年):
フランス王ルイ9世が(イェルサレムではなく)チュニスを攻撃し、敗北。本人は病死し、遠征は失敗におわる。
グズグスな展開はさておいて、注目しておきたいのは、第1回と第4回です。
第1回では、当初の目的どおり、イェルサレムを攻略して、聖地奪還をはたしています。
しかし、十字軍遠征が成功したのは、この1回のみです。
あとは、散々な結果に終わっています。
とくに第4回がひどく、当初の大義名分を忘れた十字軍は、救援を求めたはずのビザンツ帝国に侵攻し、首都コンスタンティノープルから皇帝を追い出しています。
もちろん、かれら十字軍が〝おっちょこちょい〟だったわけではなく、遠征のウラで、
・ビザンツ帝国
・ヴェネツィア商人
のあいだで、海洋交易をめぐるかけひきがおこなわれていました。
利権争いの果てに、奇妙ともいえるラテン帝国の樹立がなされます。
少年十字軍
また、各遠征の合間に「少年十字軍」とよばれる一団が送られています。名まえのとおり、フランスとドイツの少年少女から構成されます。
かれらは商人にダマされるかたちで、遠征の途中で奴隷として売られてたり、敵兵につかまり捕虜とあつかわれます。
数ある十字軍の悲劇のなかでも、もっとも悲しい事件です。
十字軍遠征そのものは、シリアのアッコンが陥落することで、完全に終結をむかえます(1291年)。
十字軍の特徴
さいごに、十字軍の特徴をかんたんにあげていきます。
かれらは教皇直属の部隊で、騎士と修道士から構成されていました。
目的は、
・巡礼者保護
・傷病者の看護
の3つです。
なかでも「宗教騎士団」とよばれる遠征軍が、ひろく活躍しました。具体的には、つぎの三部隊です。
・テンプル騎士団
・ドイツ騎士団
ヨハネ騎士団は、いまのマルタ騎士団の起源とされます。
ドイツ系のテンプル騎士団は、フランス王フィリップ4世の弾圧をうけ、100年経たのち、解散しています。
ドイツ騎士団は、十字軍から帰還したのち、ドイツ民衆による東方植民を積極的に指導していきます。
十字軍遠征の影響

約150年にわたる遠征は、さまざまな面で影響をあたえました。
以下、
- 宗教
- 政治
- 経済
- 文化
の側面から、遠征の影響をみていきましょう。
宗教
まず宗教面では、十字軍を提唱した教皇の権威が衰退します。
その反動から、異端排除の運動がひろまり、このときにはユダヤ人への迫害もおきています。
政治
十字軍兵士の中心にいた諸侯や騎士は没落します。
反対に、王権の力は伸びて、各国で中央集権化の動きがすすみます。
みたとおり、十字軍遠征をつうじて、ビザンツ帝国の衰退は決定的となります。
経済
十字軍が東に向かった結果、それに合わせるかたちで、東方貿易がさかんなります。
さきにみたヴェネツィアをはじめ、北イタリアの商業都市が繁栄し、市民階層も成長をとげます。
さらに商業と都市の発展により、貨幣経済も広まります。それにより、荘園制はじょじょに崩れていくことになります。
文化
ヨーロッパの人たちが、ビザンツ帝国とイスラーム勢力の土地にふみこんだことにより、ふたつの文化が、ヨーロッパに流入してきます。
その結果、西欧は、芸術や学問の分野で刺激をうけ、ルネサンスの遠因になったとされます。
おわりに
十字軍遠征についてみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・クレルモン宗教会議
・イェルサレム王国
・ラテン帝国
・少年十字軍
・宗教騎士団
・アレクシオス1世
・十字軍遠征は、教皇権の衰退、王権の強化、貨幣経済の広まりをもたらした
この記事が、十字軍遠征を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。




