スラブ人の歴史 ─ 特徴・ゲルマン人・ノルマン人・ロシア【世界史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・スラブ人の歴史について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・ヤゲウォ朝
・チェック人
・セルビア人
・ノヴゴロド国
・キエフ公国
・キプチャク=ハン国
・モスクワ大公国
・マジャール人
・ブルガール人
・ルーマニア人
重要人物
・イヴァン3世
・イヴァン4世
ポイント
・西スラブはカトリックを、東スラブはギリシャ正教を受け入れた
・ロシアのイヴァン3世は、ビザンツ皇帝の後継者を自称し、ツァーリ(皇帝)を名のった

この記事では、つぎの本を参考にしました。

以下、目次に沿って、みていきます。

スラブ人の起源

西スラブの寺院(出典:wiki

インド=ヨーロッパ語系のスラブ人は、もともとカルパティア山脈の北側で暮らしいました。

農耕・牧畜・狩猟・漁労により生活していたそうです。

ゲルマン人が大移動したのち、かれらに合わせるように、東ヨーロッパへ拡大します(6世紀〜7世紀ごろ)。

その後、スラブ人は、

  • 西スラブ
  • 南スラブ
  • 東スラブ

へと分かれていきます。

以下、それぞれの動きみていきます。

西スラブ人の特徴&民族

バルカンの土地を奪うアヴァール人(出典:wiki

西スラブ人は、

  • ポーランド人
  • チェック人
  • スロヴァキア人

から構成されます。

すべてカトリックなのが特徴です。

以下、それぞれが建てた国や、たどってきた歴史をみていきましょう。

ポーランド人

ポーランド人によってたてられたのが、ポーランド王国(10世紀ごろ)です。

その後、カトリックに改宗しています。

13世紀中ごろには、モンゴル帝国を相手にワールシュタットの戦いで敗れるものの、カジミェシュ大王が盛りかえします。

いっぱんに、彼のころがポーランド王国の最盛期とされています(14世紀前半)。

その後、リトアニア大公国と同君連合をくみ、リトアニア=ポーランド王国を成立させます。

両君主が協力したのは、ドイツ騎士団による東方植民に対抗するのがねらいでした。

リトアニア=ポーランド王国は、別名で「ヤゲウォ朝」ともよばれています。

しかし、しばらくすると選挙王政に代わり、王権は弱体化していきます。200年すぎると王朝は断絶し、ポーランド人全体が衰退していきます。

近代以降は、ポーランド分割などの憂き目に合い、王朝も滅亡します。

チェック人

チェック人は、モラヴィア王国をたて、つぎにベーメン王国を建国します(10世紀)。このときにカトリック化がすすみました。

その後、神聖ローマ帝国に編入され、のちにカレル1世が皇帝カール4世として即位しています。

彼は、東ヨーロッパ最古の大学とされるプラハ大学を創設します。また「金印勅書」を発布し、これ以降、ベーメンの国王は「選帝侯」として認められます。

しかし近世以降は、周辺の大国にほんろうされる立場にまわり、16世紀に入ると、ハプスブルク家に支配されてしまいます。

スロヴァキア人

スロヴァキア人もまた、いくか小国をきずいたあと、カトリックを受け入れます、

しかし、なかなか強力な王朝があらわれず、長い期間にわたり、ハンガリー王国の支配下に入ります。

南スラブ人の特徴&民族

ビザンツを追い立てるブルガール人(出典:wiki

南スラブ人は、

  • スロヴァキア人
  • クロアティア人
  • セルビア人
  • ブルガリア人

から構成されます。

同じく、各王朝と歴史をたどっていきましょう。

スロヴァキア人

スロヴァキア人は、部族ごとに小国をきずいたあと、フランク王国の支配下に入ります。

フランク王国はローマ教会とつながりがつよかったため、スロヴァキア人もまたカトリックに改宗します。

その後、かれらもまた周辺の大国にふりまわされ、さいごはハプスブルク家の領土に編入されてしまいます。

クロアティア人

クロアティア人もまた、小国乱立後にフランク王国の支配下に入ります。スロヴァキア人と同じく、ここでカトリックに改宗します。

ただし、アドリア海に面し、海洋交易がさかんなことから、大国の利権争いにふりまわされ、統治者がころころかわります。

・ハンガリー王国

・オスマン帝国

・オーストリア帝国

と移りかわり、近現代に入り、ようやく独立をはたすことになります。

セルビア人

セルビア人は、ビザンツ帝国の支配下に入ったことで、ギリシャ正教に改宗します。

その後、ビザンツ帝国が衰退するのを見計らって独立をはたします。すぐさまセルビア王国をたてて、14世紀前半にはバルカン北部の勢力をまとめあげ、最盛期をむかえます。

しかし、14世紀後半におきたコソヴォの戦いで、台頭したオスマン帝国に敗れます。この敗北をきっかけに、400年以上にわたり、オスマンの統治下に入ります。

とはいえ、オスマン帝国は寛容な宗教政策で知られており、セルビア人は古くから信仰していたギリシャ正教を、そのまま守りづけることができました。

ブルガリア人

ブルガリア人は、うえにあげた人たちとは異なり、もともとのルーツは、トルコ系遊牧民のブルガール人でした。

かれら民族は、7世紀ころに移動を開始し、今後住む場所にブルガリア王国をたてました。

その地ではスラブ人が多数をしめ、混血するうちにトルコ人はスラブ化していきました。

南方のビザンツ帝国と争い、かけひきしながらギリシャ正教をうけいれ、なんとかブルガリア帝国(第1次)を樹立します(9世紀〜11世紀)。

しばらくしてのち滅ぼされてしまいますが、ふたたびブルガリア帝国(第2次)を建国します(12世紀〜14世紀)。

その後、オスマン帝国の統治下に入るものの、セルビアと同じく寛容な宗教政策をうけて、ギリシャ正教の信仰を守ることができました。

東スラブ人の特徴&民族

東スラブの少女(出典:wiki

東スラブ人は、いまのロシア人に直接つながる民族です。

そのため、かれらの歴史は、初期ロシア史といってもいいでしょう。

以下、成立した王国順に、

  • ノヴゴロド国
  • キエフ公国
  • キプチャク=ハン国
  • モスクワ大公国

の流れでみていきましょう。

ノヴゴロド国

ノヴゴロド国は、ルーシー族の君主リューリクが建国しました。

ルーシー族は、スウェーデン系のノルマン人です。東スラブ人は、このルーシー族に従い、兵士や農民として働きます。

ノヴゴロド国は、東スラブ人の国ではなく、ノルマン人によって建国された点がポイントです。

ちなみに「ロシア」の語源は、この「ルーシー族」からきています。

キエフ公国

キエフ公国は、リューリクの一族オレーグが建国しました。

彼はスラブ人で、ここから東スラブ人による国がつくられていきます。また地域一帯には、いわゆる「スラブ化」がすすんでいきます。

その後、ときの国王ウラディミル1世は、ビザンツ皇帝の妹と結婚し、ギリシャ正教に改宗します(998年)。

これが、いまのロシア正教につながる起源となります。

いっぽう国内では、12世紀ごろから、農民の農奴化がすすみ、各地で諸侯が幅をきかすようになり、キエフ公国の統治はむずかしくなっていきます。

キプチャク=ハン国

どうにか存続していたキエフ公国でしたが、モンゴル帝国の侵攻に合うと、一気に崩壊の危機をむかえます。

けっきょくは抵抗むなしく、モンゴル帝国の武将バトゥの西征に合うと、そのままキエフ公国は滅亡するにいたります。

バトゥはそのまま、モンゴル高原には帰還せず、スラブの地に国をたてることになります。

これがキプチャク=ハン国です。

以後240年間、東スラブ人はモンゴル帝国の支配下に入ります。この事態を近代以降のロシアでは「タタールのくびき」とよんでいます。

モスクワ大公国

モンゴル支配のあと、キプチャク=ハン国から独立をはたしたのがイヴァン3世でした。

自立したのち、モスクワ大公国を樹立します。

さらに、ビザンツ皇帝の姪であるソフィアと結婚し、ローマ帝国の継承者とギリシャ正教の保護者を自任します。

ソフィアの叔父は、最後のビザンツ皇帝でした。滅びるビザンツ帝国からしても、これまでの教義をひきついでくれる王朝がいることは好都合でした。

イヴァン3世は、(ビザンツの)皇帝を意味する「ツァー」を名のります。

さらに、ローマ帝国の理念を継ぐ者として、法典を整備し、農奴制を強化します。

こうしてイヴァン3世は、帝国づくりを着々とすすめ、ロシア帝国の基盤をきずきました。

イヴァン3世のあとを継いだのが、むすこのイヴァン4世でした。

彼の治世から周辺各国にむけて「ツァーリー」の称号をつかうようになり、首都モスクワは「第2のコンスタンティノープル」「第3のローマ」とよばれていきます。

いっぽう国内では、彼のあだ名が「雷帝」というだけあって、さまざまな施策をすすめていきます。

帝国の強化をジャマする大貴族を弾圧し、農奴制をよりいっそうすすめていきます。

国外では、イェルマークたちをシベリアにむけて派遣し、領土を広げていきます。

非スラブ系民族

マジャール人(出典:wiki

さいごに、まわりに住む非スラブ系の人たちをみていきましょう。

  • ルーマニア人
  • マジャール人

とよばれる人びとです。

ルーマニア人

「ルーマニア」の名まえは、ローマ(ローマニア)に由来します。

ときのローマ帝国皇帝トラヤヌスが、黒海西岸に植民のためにローマ人をおくり、そこに住んでいた人たちと混血し、ルーマニア人になったとされます。

とはいえ中世以降は、ルーマニア人としての民族意識はなく、少数の集団に分かれていたため、大国ハンガリーの支配下におかれました。

そのさいにギリシャ正教もいっしょにうけいれました。

マジャール人

マジャール人はもともとアジア系で、古くから東欧の地に住んでいたとされます。

ただし、ほかのアジア系民族とは異なり、独自の文化を保ったまま、いまのハンガリー盆地に移動してきました。

かれらはさらに西へ進もうとしますが、神聖ローマ帝国皇帝オットー1世に敗れ、そのままハンガリーの地に住みつきます。

ハンガリー王国をたてたのち、カトリックを受け入れました。

モンゴル帝国の侵攻に合って、打撃をうけるものの、勢力を盛りかえし、14世紀に繁栄をむかえます。

しかしその後に台頭したオスマン帝国と、モハーチの戦いで敗れ、併合されます。

その後、独立をはたそうしますが、今度はカルロヴィッツ条約で、オーストリア領に編入されてしまいます。

おわりに

スラブ人の歴史をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・ヤゲウォ朝
・チェック人
・セルビア人
・ノヴゴロド国
・キエフ公国
・キプチャク=ハン国
・モスクワ大公国
・マジャール人
・ブルガール人
・ルーマニア人
重要人物
・イヴァン3世
・イヴァン4世
ポイント
・西スラブはカトリックを、東スラブはギリシャ正教を受け入れた
・ロシアのイヴァン3世は、ビザンツ皇帝の後継者を自称し、ツァーリ(皇帝)を名のった

この記事が、スラブ人の歴史を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。