【世界史】帝国主義時代の歴史 まとめ

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・帝国主義時代の歴史を、ざっくり知りたい
・大事なキーワードは?
・重要な人物は、だれ?

きょうは、この問いに答えていきます。

先に結論をいえば、つぎのとおり。

りきぞう

・帝国主義時代は、[帝国主義の特徴 → アフリカ分割 → アメリカ&ロシアの動向 → 第一次世界大戦]の流れでおさえると、すっきり理解できる
・大事なキーワードは、「ベルリン会議」「3B政策」「三国協商 vs 三国同盟」「ヴェルサイユ条約」など
・重要な人物は、「ビスマルク」「フランツ・フェルディナント」など

ポイントは、つぎのとおり。

  1. ① 帝国主義の特徴&要因
  2. ② アフリカ分割
  3. ③ アメリカの動向
  4. ④ ロシアの動向
  5. ⑤ 第一次世界大戦の勃発

以下、目次にそって、くわしくみていきます。

帝国主義時代の歴史① ─ 帝国主義とは?

「帝国主義」の特徴&要因をみていきましょう。

帝国主義の特徴

「帝国主義」とは、

ヨーロッパ諸国が、アジア&アフリカに、植民地をふやす過程 or 時代

をさします。

正確にいえば、

国内資本が、国家権力とむすびついて、軍事と武力によって、ほかの国に植民地を拡大する段階

ということになります。

目的は、

交易ネットワークをおさえて、国内産業を保護&育成させること

です。

「大交易時代」以降、ヨーロッパ諸国は、海外貿易に積極的に参加しました。

1800年代の中ごろ、その勢いが、一気に増します。

アジア&アフリカに、貿易の拠点となる植民地を、急ピッチでつくっていきます。

積極的に植民地政策をおこなった国を「列強」「帝国」とよびます。

主な国々は、以下のとおりです。

・イギリス
・フランス
・アメリカ
・ロシア
・ドイツ
・イタリア
・ベルギー
・日本

この8国だけで、「世界総面積の半分以上」を治めました。

「全人口の約 1/3 」の人たちが住む場所を統治しました。

帝国主義の要因

では、列強各国は、なぜ「帝国主義」をおしすすめていったのでしょうか。

要因は、主に2つです。

  • ナショナリズムの高揚
  • 工業生産の発展

それぞれ、カンタンにみていきます。

ナショナリズムの高揚

近代化・民主化によって、ヨーロッパの国々は「国民国家」に変わりしました。

ざっくり言うと、国民(=民衆)の意志が、国を動かすわけです。

代表者である政治家は、民衆を気にしたり、コントロールしながら、国家運営にあたります。

その一環で、国家の威信をあげ、民族としてのプライドをもたせることもしました。

国民の自尊心を満たすために、拡張路線をとり、海外に植民地をつくっていきました。

これが1つ目の要因です。

工業生産の発展

もうひとつは、国民産業の保護&育成のためです。

1700年代の「産業革命」以降、国内の生産性は、飛躍的にアップし、豊かになりました。

大量にモノがつくれるいっぽう、今度は、たくさんの商品を売らなくていけません。

設備・工場をもつ資本家(=産業資本家)は、国内ではなく、海外にたいしても生産物を供給するようになります。

そちらのほうが、儲け(=利潤)が大きいからです。

さらに、設備 or 機械に投資している株主&銀行家も、自分たちにとって有利に働きます。

結果、金融資本と国家権力がむすびつくことで、植民地政策を積極的におこなうようになります。

産業資本家&金融資本家は、植民地を獲得するように、政府に要請 ─ 。

かれらの資金&投票がほしい政治家が、率先して、アジア&アフリカなどの弱小国に、軍隊を派遣するわけです。

これが2つ目の理由です。

帝国主義時代の歴史② ─ アフリカ分割

帝国列強が、激しく獲得競争をおこなった土地が、アフリカ地域でした。

一般に「アフリカ分割」とよばれます。

以下、

  1. ・コンゴ自由国
  2. ・ベルリン会議
  3. ・アフリカ横断政策

のポイントにそって、みていきます。

「コンゴ自由国」をめぐる争い

「大交易時代」以降、アフリカの植民地支配は、沿岸部だけでした。

しかし、1800年代の中ごろから、内陸部へ開発がすすんでいきます。

その過程で、ベルギーによる「コンゴ統治」をめぐり、ヨーロッパ諸国で対立がおこります。

きっかけは、ベルギーが〝勝手に〟コンゴ地域を「コンゴ自由国」と名付け、支配したことでした。

一方的なやり方に、ほかの国々が反発したわけです。

「ベルリン会議」での協定

ヨーロッパ諸国が、反発するなか、調整役についたのが、プロセイン首相「ビスマルク」でした。

かれは、「ベルリン会議」を開き、アフリカ統治のルールを定めます。

結果、

・占有権を認める
・実行支配もオーケー

と、なりました。

ざっくり言うと、

・早い者勝ち
・武力をつかってオーケー

ということ。

アフリカ住民からすれば、なんともヒドいはなしで、〝勝手に〟に決まりました。

その後、アフリカの植民地化が加速します。

ベルリン会議から10年後、「エチオピア」「リベリア」以外の土地は、ヨーロッパ諸国に支配・分割されました(1890年ごろ)

各国が治めた領土は、つぎのとおり。

イギリス

・エジプト
・スーダン
・南アフリカ
・トランスヴァール
・オレンジ
・ローデシア
・ナイジェリア
・ローデシア
・ゴールドコースト

フランス

・アルジェリア
・チュニジア
・モロッコ
・マダガスカル
・サハラ
・ギニア
・赤道アフリカ
・フランス領コンゴ

ドイツ

・ドイツ領東アフリカ
・カメルーン
・モロッコ
・トーゴ
・南西アフリカ

イタリア

・リビア
・ソマリランド
・エリトリア

ポルトガル

・アンゴラ
・モザンビーク
・ギニアビサウ

ベルギー

・ベルギー領コンゴ
出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

アフリカ横断政策

うえの支配地域&規模をみるとわかるとおり、イチバン領土を拡大したのは、イギリスでした。

さいしょに、アフリカ統治に乗りだしたのがベルギーですが、ベルリン会議のあと、勢力をのばしたのは、イギリスです。

なかでも、イギリス領のケープ植民地・首相「セシル=ローズ」による領土拡張が、際立っていました。

首相についたあと、かれは、まわりの国々に侵攻をはじめます。

オランダと植民地争いをくりかえしながら、もともと、プール人が統治する、

・トランスヴァール共和国
・オレンジ自由国

を併合していきます。

同じく「アフリカ横断政策」をとっていたフランスとも対立しながら、領土を拡大し、植民地化に成功します。

帝国主義時代の歴史③ ─ アメリカの動向

また、アメリカも植民地獲得競争に乗り出します。

背景には、1890年代になると、西部への開拓が終わり、経済発展の鈍化があります。

いわゆる「フロンティア消滅」です。

いっぽう、国内産業は「重工業化」がすすみ、生産量はイギリスを追い抜くことになります。

そのなかで、財閥があらわれ、政府と手をくみ、海外へ植民地政策をすすめていきます。

以下、アメリカの動向を、

  • 工業産業の発展
  • 財閥形成にともなう帝国主義化
  • カリブ諸島の植民地化
  • 太平洋諸国への進出

のポイントにそって、みていきます。

工業産業の発展

「フロンティアの消滅」で経済成長にストップがかかるアメリカ ─ 。

いっぽう、国内産業は「重工業」が、大きく発展します。

おもな分野は、つぎのとおり。

・石油
・鉄鋼
・自動車

どのジャンルも、アメリカ黄金時代を支えるものです。

財閥形成にともなう帝国主義化

重工業が発展することで、資本家が富をきずき、財閥が形成されます。

おもな財閥は、つぎのとおり。

・ロックフェラー
・カーネギー
・モーガン

いまでも影響力のある財団は、この頃につくられます。

「帝国主義」とは、富を独占する資本家と、軍事をになう政府が〝タッグを組み〟、海外遠征に乗りだし、植民地を築くことです。

イギリス&フランスなど、ヨーロッパ諸国と同じように、アメリカも「帝国主義化」していきます。

ほかの国々に出遅れたかたちで、植民地化をすすめていきます。

うえにあげた財閥を中心に、巨大な富をもつ資本家が、政治家にはたらきかけ、海外進出をうながしていきます。

カリブ諸島の植民地化

その代表例が、カリブ諸島の植民地化です。

もともとカリブの島々は、「大交易時代」以降、スペインがおさめていました。

そんなとき、キューバで、スペインから独立する気運が高まります。

事態を見抜いたアメリカは、キューバ側につき、独立運動をあと押しします。

それにより、スペインとのあいだで衝突がおこります。

この争いを「アメリカ=スペイン戦争」といいます。

結果、軍事面・生産面でまさるアメリカが、スペインに勝利 ─ 。

そして、(都合よく?)キューバの軍事&外交の権限をにぎって、保護国にする(=植民地化)に成功します。

その後、さらにアメリカは植民地政策をつづけていきます。

アメリカ大統領「セオドア=ローズヴェルト」は、強力な軍事&武力を〝後ろだて〟にして、カリブ諸国を従わせていきます。

このときおこなった外交は、「棍棒外交」とよばれます。

とくに、パナマから得た「パナマ運河」は、アメリカの海洋交易を広がる意味で、たいへん役に立ちました。

海外貿易による利益を、アメリカにもたらすことになります。

太平洋諸国への進出

「カリブ諸島」と同時に、「太平洋諸国」へも進出します。

まとめると、つぎのとおり。

グアム → 併合
ハワイ → 併合
フィリピン → 併合

フィリピンは「共和国」として成立していました。

しかし、うえにあげた「アメリカ=スペイン戦争」で、フィリピンをスペインから買い取ったアメリカは、国家として認めませんでした。

スペインとの条約を〝口実にして〟、植民地政策をすすめ、戦争をおこします。

この争いを「アメリカ=フィリピン戦争」といいます。

ゲリラ戦に苦しみながらも、圧倒的な軍事力をもつアメリカは勝利をはたし、フィリピンに植民地を築きます。

さらに、東南アジアを貿易拠点にして、アジア進出へと乗りだしていきます。

帝国主義時代の歴史④ ─ ロシアの動向

ヨーロッパ諸国&アメリカに、くわえて、あるていど近代化を果たしたロシアも、植民地獲得競争に乗り出します。

以下、

  • 東アジアへの進出
  • 日露戦争の勃発
  • 第一次ロシア革命

のポイントにそって、ロシアの動向をみていきます。

東アジアへの進出

さきにのべたとおり、「地中海 → ヨーロッパ → 大西洋」の海洋ルートを失ったロシアは、東アジア方面への貿易にチカラをいれます。

まず、中国地域をおさめる「清」から、領土を獲得します。

・アイグン条約
・北京条約

2つの条約を締結して、なかば強引に、「清」から領土をゲットします。

m−3−1

結果、「ウラジオストク」に貿易拠点をもうけ、太平洋貿易の足がかりを築きます。

日露戦争の勃発

さらに、「朝鮮 → 中国地域」の領土を握りたいロシア ─ 。

フランス&ドイツと協力して「三国干渉」をおこない、「日清戦争」で日本が獲得した「遼東半島」をおさめることに成功します。

半島には、アジアでの海外貿易の拠点である、「旅順」「大連」という都市がありました。

不公平な干渉で、2つの都市を失った日本も、反撃に出ます。

同じように、イギリスもまた、アジア&インド地域で、ロシア勢力の拡大をおそれていました。

そこで日本は、イギリスと軍事同盟をむすびます。

この同盟を「日英同盟」といいます。

イギリスから軍事的な支援を受けた日本は、領土奪還&海洋ルート獲得のために、ロシアと戦争をおこします。

とちゅう、アメリカが戦争の仲介に名のりをあげ、日本の勝利を認めます。

日本が「判定勝ち」して、「ポーツマス条約」をむすび、日露戦争は終結します。

それにより、ロシアはアジア方面での海外貿易を、あきらめることになりました。

第一次ロシア革命

海外で、侵略&戦争をおこすいっぽう、ロシア国内では混乱が生じていました。

日露戦争などで戦費がかさみ、経済が行きづまってきました。

物資の不足、給料の未払いもおこり、労働者の不満が高まっていきます。

皇帝のいる、ペテルブルグの王宮のまえでは、たびたび「デモ」もおこなわれます。

そんなとき、デモ隊を目にした、皇帝「ニコライ2世」が、軍隊に一斉射撃を命じます。

数千人の市民が亡くなり、大きな事件として取りあげられます。

この出来事を「血の日曜日事件」といいます。

残虐なふるまいは、市民に伝わり、皇帝への不信感につながります。

以前よりもまして、労働者の不満も高まります。

そして、農民たちと協力して、ロシア各地に、自発的に「団体グループ」を形成していきます。

政府に頼らない自治組織を「ソヴィエト」とよび、この団体が「ロシア革命」をおこすきっかけをつくります。

帝国主義時代の歴史⑤ ─ 第一次世界大戦

このように、西欧諸国&アメリカ合衆国が、植民地競争に乗り出したことで、〝ひずみ〟が生じます。

・第一次世界大戦の勃発

です。

ヨーロッパ本国では、激しい植民地競争をおこなうなかで、各国のカンケーが、一気に悪くなります。

結果、オーストリア皇太子の暗殺をきっかけに、ヨーロッパ全体をまきこむ「第一次世界大戦」が勃発します。

要因 ─ ドイツの「3B政策」

ビスマルクから、皇帝「ヴェルヘルム2世」に移ると、各国の関係性が変わっていきます。

この時期、ヨーロッパ諸国は「帝国主義」=「植民地政策」をおしすすめていました。

いっぽうドイツは、この流れに遅れをとっていました。

そこで、ヴェルヘルム2世は「世界政策」をとなえます。

イギリス・フランス・ロシアにつづき、植民地競争に乗りだします。

皇帝は「世界政策」を提唱し、海外へ軍を派遣していきます。

さっそく、ヴェルヘルム2世は、アジア方面にも進出します。

[ベルリン → ビサンチウム → バグダード]

を鉄道でむすび、交易路を確保しようとします。

都市の頭文字をとって、「3B政策」といいます。

この政策に反応したのが、イギリスでした。

もともとイギリスは、

[カイロ → ケープタウン → カルカッタ]

のルートで、海洋交易を展開していきました。

同じく都市の頭文字をとって、「3C政策」といいます。

もし、ドイツが「3B政策」をおこなえば、交易によるイギリスの利益は、半減します。

こうして、ドイツとイギリスの対立が、深まっていきます。

ドイツによる、[ベルリン → ビサンチウム → バグダード]の鉄道建設は、ロシアにとっても〝痛手〟です。

もしドイツが「3都市」をおさえれば、ロシアは「貿易拠点」を失い、海洋交易ができないからです。

結果、ドイツはロシアとも、対立を深めていきます。

三国協商 vs. 三国同盟

このように、フランス・イギリス・ロシアの各国は、ドイツと敵対状態となります。

そして、共通の敵をもつ3国は、協商&同盟をむすんでいきます。

まとめると、こんなかんじ。

イギリス&フランス → 英仏協商
イギリス&ロシア → 英露協商
ロシア&フランス → 露仏同盟

さらに、3つの協定を足し合わせるかたちで、

イギリス&フランス&ロシアによる「三国協商」

をむすびます。

こうして、ドイツを共通の敵として、3国がタッグを組みます。

いっぽう、イギリス&フランス&ロシアの協力をみたドイツも、手を打ちます。

もともと、ビスマルクのころから、オーストリア&イタリアとむすんでいた「三国同盟」を見直しします。

そして、2国とのカンケーを深め、イギリス・フランス・ロシアのつながりに対抗していきます。

こうして、

三国協商 vs 三国同盟

の構図が、できあがり、対立を深めていきます。

2つのグループを軸に、「第一次世界大戦」がおこり、まわりの国々も参入していきます。

展開 ─ サラエボ事件

交易ルートの要所である「バルカン半島」では、いつ争いがおきても、おかしくない状態でした。

ルーマニアやブルガリアなど、フクスウの小国が、バルカン半島をおさめていました。

いっぽう、ドイツとロシアの中間に位置するため、国 or 民族によって、どちらを支持するか、立場が分かれていました。

そこをねらい、ドイツ&ロシアは、〝自国への囲いこみ〟にかかります。

それぞれの統合の動きを、つぎのようによびます。

ドイツへの統合 → パン=ゲルマン主義
ロシアへの統合 → パン=スラブ主義

「ゲルマン」「スラブ」とは、民族の名まえをさします。

まず手を出したのは、ドイツ側のオーストリアでした。

バルカン半島の小国「ボスニア・ヘルツェゴビナ」を併合します。

この動きに反応したロシアは、ロシアを支持するバルカン諸国と同盟をむすびます。

ロシアと「バルカン同盟」を締結した国々は、オスマン帝国&「親ドイツ諸国」を、バルカン半島から追い出します。

排除された国々は、ドイツ&オーストリア側につき、半島での対立が、よりハッキリしてきます。

バルカン半島=ヨーロッパの火薬庫

そもそも、なぜ「バルカン半島」が、争いの場所になるのか ─ 。

それは、〝交易ルートの交差点〟だからです。

おさらいすると、ドイツ側は、つぎのようなルートを計画していました。

オーストリア → ブルガリア → オスマン帝国 → バグダード

いっぽうのロシアは、つぎのとおり。

ルーマニア → セルビア → ギリシャ

つまり、2つのルートが「バルカン半島」でバッティングするわけです。

出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

そのために、 バルカン半島は争いの舞台となり、のちに「ヨーロッパの火薬庫」とよばれることになります。

じっさいに、バルカン半島で戦争が勃発しました。

直接のきっかけは、オーストリア皇太子「フランツ・フェルディナント」が、新ロシア側の「セルビア人」によって暗殺されたことでした。

事件をうけて、親ドイツ側の「オーストリア」は、「セルビア」に宣戦布告します。

すぐさまロシアも、オーストリアに宣戦布告。

こうして、雪崩(なだれ)を打つように、まわりの国々が参戦します。

大まかな構図は、うえにあげた、

三国協商(イギリス&フランス&ロシア)
vs
三国同盟(ドイツ&オーストリア&イタリア)

の対立です。

三国協商 → セルビア
vs
三国同盟 → オーストリア

というかたちで、各国はそれぞれを支持します。

影響 ─ ヴェルサイユ条約

ご存知のとおり、結果は、ドイツ側の敗北です。

負けた要因は、つぎの2つです。

・イタリアの寝返り
・アメリカの参戦

ドイツ&オーストリアは、イタリアと「三国同盟」をむすんでいました。しかし、戦況不利とみたイタリアは、イギリス&ロシア側に寝返ります。

それにより、ドイツ&オーストリアは、地理上、敵国に囲まれるかたちとなり、じょじょに追い込まれていきます。

さらに、中立国「アメリカ」の輸送船を、ドイツの潜水艦部隊が爆撃し、沈めてしまいます。

報復として、アメリカは、イギリス&ロシア側の「三国協商」に参加 ─ 。

結果、決定打をうけたドイツは、敗北することになります。

ヴェルサイユ条約による賠償金

敗戦国「ドイツ」をめぐって、ヴェルサイユ条約が締結されます。

たいへん厳しいもので、つぎの項目が要求されました。

・すべての植民地を手放す
・軍事・軍隊を制限する
・多額の賠償金を支払う

なかでも、ヒドかったのが、「多額の賠償金」です。

その額は、「1320億マルク」で、「国民総所得の 2.5 倍」でした。

当時の「1マルク」は、いまの日本円で「約2000円」 ─ 。

つまり、単純計算で「約264兆円」です。

それにより、ドイツ国内では、ハイパーインフレが起こります。

アメリカの支援で問題は解決するものの、その後もドイツは負債に悩まされます。

世界恐慌をきっかけに、アメリカの金融支援がストップ ─ 。

ドイツに不安が蔓延し、ここから「ヒトラー」が登場することになります。

「第一次世界大戦」については、こちらの記事で、くわしく説明しています。

第一次世界大戦 ─ きっかけ・原因・ドイツ・死者数・新兵器・総力戦体制・戦後の国際関係

よければ、ご参考に。

まとめ

まとめると、

りきぞう

・帝国主義時代は、[帝国主義の特徴 → アフリカ分割 → アメリカ&ロシアの動向 → 第一次世界大戦]の流れでおさえると、すっきり理解できる
・大事なキーワードは、「ベルリン会議」「3B政策」「三国協商 vs 三国同盟」「ヴェルサイユ条約」など
・重要な人物は、「ビスマルク」「フランツ・フェルディナント」など

といったかんじ。

この記事が、「帝国主義時代の歴史を知りたい人」の参考になれば、うれしいです。

ではまた〜。