【世界史】近代アジア諸国の歴史 ─ 中東&インド&中国の動向

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・近代ヨーロッパの歴史について、ざっくりとした流れを知りたい
・大事なキーワードは?
・重要な人物は、だれ?

きょうは、この問いに答えていきます。

先に結論をいえば、つぎのとおり。

りきぞう

・近代ヨーロッパは、「独立革命」「産業革命」「啓蒙思想」をおさえつつ、各国にようすを知っておくと、すんなり理解できる
・大事なキーワードは、「アメリカ独立革命」「フランス革命」など
・重要な人物は、「ナポレオン」「ビスマルク」など

ポイントは、つぎのとおり。

  • 「中東」の動向 ─ オスマン帝国の衰退
  • 「インド」の動向 ─ ムガル帝国の崩壊
  • 「中国」の動向 ─ 清帝国の崩壊

近代化をつうじて、ヨーロッパ諸国は民主化され、豊かになっていきます。

それにより、いままで以上に、国外に進出して、植民地をつくっていきます。

いっぽう、「被植民地」側に追いやられた、

・中東
・インド
・中国

の3地域は、欧米列強に侵入・侵略されていきます。

そのプロセスで、国内から独立運動もおこり、帝国は内部崩壊していきます。

まずは、中東エリア。

近代以前、中東地域は、オスマン帝国がおさめていました。

しかし近代以降、「ヨーロッパによる圧力」「国内からの独立運動」により、じょじょに衰退していきます。

結果、オスマン帝国の基盤は、じょじょにほころんできます。

つぎに、インドエリア。

インドの場合、大交易時代のころから、いち早く植民地として利用され、〝憂き目〟にあってきました。

そのため、民衆は〝長年のうっぷん〟がたまっていました。

独立の動きが激しくなり、イギリス支配から解放されていきます。

さいごは、中国エリア。

中国地域は、清帝国がおさめていました。

けれど、イギリス・フランス・ロシアなど帝国列挙により、じょじょに侵略されていきます。

その後、反発するように、イギリスと戦争がおこします。

けれど、敗戦をきっし、不利な条約をむすぶことになります。

結果、国内経済が疲弊します。

さらに、ヨーロッパ諸国との外交&取引に不満をもつ民衆が、各地で反乱をおこします。

国内秩序は、ますます不安定になっていきます。

危機感をいだく清王朝の改革派は、近代化政策(=洋務運動)を実施します。

しかし、改革はうまくいかず、さきに近代化をとげた日本に戦争で敗れてしまいます。

その後、民主派の「孫文」が革命をおこし、200年以上つづいた「清王朝」は滅亡することになります。

この記事では、つぎの本を参考にしました。

以下、目次にそって、みていきます。

近代世界「中東」の動向 ─ オスマン帝国の衰退

まずは、中東地域です。

1500年代はじめ、オスマン帝国は、

[アラビア半島〜セルビア半島〜アフリカ北部]

までを治めていました。

しかし、1600年代あたりから、領土を縮小させていきます。

ここでは、そのプロセスをみていきます。

具体的な国&地域は、つぎのとおり。

  • ハンガリー
  • クリミア半島
  • バルカン諸国
  • ギリシャ
  • アラビア
  • エジプト

近代以降、それぞれの地域が、どうなったのかをみていきます。

ハンガリー

1500年代のはじめ、オスマン帝国は、神聖ローマ帝国の拠点である「ウィーン」に攻めこみます(=第1次ウィーン包囲)。

それにより、ハンガリーの南半分を、領土としておさめることに成功します。

約150年後、ふたたび、ウィーンに攻めこみ、領土拡大をねらいます(=第2次ウィーン包囲)。

しかし、ポーランド王国&ヴェネツィア共和国&ロシアで結成された「神聖同盟」の抵抗によって、侵攻は失敗におわります。

さらに、それによって、もともとおさめていた「ハンガリー領」を手放すことになります。

これをきっかけに、オスマン帝国の衰退がはじまります。

クリミア半島

1700年の中ごろ、チカラをつけてきた、北部の「ロシア帝国」が、南方にむけて兵をおくりこんできます。

そして、「クリミア半島」を獲得するため、オスマン帝国に宣戦布告します(=第1次ロシア=トルコ戦争)。

戦争に勝ったロシアは、オスマン帝国下の「クリム=ハン国」を併合し、保護国としました。

結果、戦いに敗れたオスマン帝国は、クリミア半島を失うことになります。

バルカン諸国

1700年の後半、ロシア帝国は、バルカン半島にたいしても南下をはじめます。

もともとバルカン半島には、「親ロシア」の「南スラヴ系の民族」が暮らしていました。

ロシアは、この点に目をつけます。

セルビア・モンテネグロ・ブルガリアなどのバルカン諸国に、オスマン帝国からの独立を促します。

もちろんオスマン帝国も、独立運動を鎮めようとします。

けれど、反発に敵わなず、各国の自治を認めることになりました。

こうして、バルカン半島一帯の領土も、失うことになります。

ギリシャ

バルカン諸国の独立をきっかけに、すぐ南に位置するギリシャでも、独立運動がおこります。

もはや、流れをせき止められないオスマンは、ギリシャの独立も認めることになります。

アラビア

いっぽう、アラビア地域でも、1700年の中ごろから独立の動きが出てきました。

「ワッハーブ派」&「サウード家」の民族運動により、トルコ人ではなく「アラブ人」として、民族意識をもつようになります。

宗教は同じく「イスラム教」ですが、ワッハーブ派たちは、民族による区別をもうけることで、集団化と一体感を高めていきます。

結果、オスマン帝国から独立するかたちで、アラビア地域・南部に、「ワッハーブ王国」を樹立させます。

それにより、オスマンは、アラビア地域での勢力をうしなうことになりました。

エジプト

エジプト地域でも、自立の動きが出てきます。

こちらは民族運動のかたちではなく、エジプトの総督だった「ムハンマド=アリー」が、単独でおこした自立運動です。

もともとかれは、オスマン帝国の兵士でしたが、みずから部隊をつくりあげ、オスマンにたいして独立を要求しました。

「エジプト=トルコ戦争」をおこし、戦いに勝利したあと、エジプトの行政権を獲得します。

そして、エジプト一帯に、「ムハンマド=アリー朝」を樹立します。

その後、イギリス軍に占領され、エジプトはイギリスの保護国になります。

以降、オスマン帝国は、領土を奪還することなく衰退していきます。

出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

近代世界「インド」の動向 ─ ムガル帝国の崩壊

つぎに、インド地域です。

ポイントは、つぎのとおりです。

  • インド大反乱
  • インド帝国の成立
  • インドの分割統治
  • ガンディーの登場

それぞれ、みていきます。

インド大反乱

近代化をつうじて、チカラをつけるヨーロッパ諸国は、よりいっそう海外に植民地をつくっていきます。

イギリスも、「東インド会社」をつうじて、インドにたいする植民地支配を、より強化していきます。

当然、インド人の反発は強まってきます。

なかでも、

・安い綿織物の流入
・不公平な高い税率

は、人びとの生活を苦しめました。

安い商品が入ってくることで、インド国内の産業が育たない。

さらには、利益が出ても、税金で取られてしまうからです。

案の定、インド兵士の騒ぎ・暴動をきっかけに、独立にむけた暴動が、一気におこります。

運動は、インド地域全体に広がり、約2年間にわたり、拡大していきました。

インド帝国の成立

そこでイギリス側は、統治制度を見直します。

まず、

・形骸化した「ムガル帝国」の滅亡
・統治能力のない「東インド会社」の解体

を、おこないます。

2つの組織にかえて、イギリスの「ヴィクトリア女王」が即位するかたちで、

「インド帝国」

を、成立させます。

これにより、インド地域全体に、官僚組織&司法制度を普及させていきます。

インドの分割統治

しかし、イギリスによる〝上から〟の統治は、よりインド人の反発をまねきます。

そこでイギリス側は、インド人の不満を解消させるために、

インド国民会議

を開催します。

「年4回」という回数をもうけ、定期的に〝ガス抜き〟をおこないます。

けれど、それでも不満・反発はおさまりません。

・自治権の要求
・独立の訴え

は、日を追うごとに高まっていきます。

どうにか収束させたいイギリスは、策を打ちます。

それは、独立の気運が激しい「ベンガル州」を分割する、というもの。

ベンガル地域は、つぎのように「宗教」が分かれていました。

・東側 → イスラム教徒
・西側 → ヒンドゥー教徒

イギリスは、この分断に目をつけます。

東側の「イスラム教徒」にだけ自治権を認めます。

そして、両者のあいだで「仲間割れ」をおこし、独立にむけた「一体感」を解消させようとします。

さらに、「イスラム教徒」たちを支援し、「全インド=ムスリム連盟」を結成させます。

なんとも、ズルかしこい作戦ですが、「イスラム教徒」側は承諾し、自治権の恩恵を受けることになります。

ちなみに、このときの分断は、いま現在の「インド vs パキスタン」の争いにつながっていきます。

出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

ガンディーの登場

不安定な状態のなか、イギリスは第一次世界大戦に突入します。

このときも、イギリスは、植民地であるインドを活用します。

「独立の約束」と引きかえに、軍備&兵士を要求したのです。

約束を信じたインドは、イギリス側につき、大戦に協力します。

ローラット法の制定 → 弾圧

しかし、インドの支援で、戦争に勝ったイギリスですが、「独立」「自治権」も認めません。

つまり、約束を反故したわけです。

このふるまいに、当然インド人は、大いに反発します。

ふたたび、大規模な独立運動が、インド各地でおこります。

けれど、イギリス側は、立法権・行政権の権限をつかって、秩序維持を目的とした、

「ローラット法」

を制定 ─ 。

法による統治のもと、独立運動・民族運動による〝反乱〟を弾圧します。

抗議集会が開かれているエリアにむけて、銃を発泡します。このさいには、1500人以上の死者が出ました。

ガンジーによる運動

弾圧するイギリスにたいして、暴力の渦が巻きおこります。

そんななか、「偉大なる魂」と称されるカンディーが登場します。

かれは、イギリスに反抗にしつつ、

・非暴力
・不服従

の態度で、反対運動を展開します。

「塩の行進」といった、デモンストレーションをおこない、海外のマスコミ(=新聞記者)をとおして、世界中に、「インドの悲惨な現状」を訴えます。

カンディーの活躍もあり、世界中で、イギリスの植民地支配が批判されます。

人びとの動向をムシできないイギリスは、そのあと、じょじょにインドの自治権を認めるようになります。

具体的には、

・英印円卓会議
・新インド統治法

といった、交渉会議 or 法律をもうけて、イギリスからの独立を容認 ─ 。

第二次大戦のあと、ようやくインドは自立した国家として成立します。

近代世界「中国」の動向 ─ 清帝国の崩壊

さいごに、中国エリア。

国外/国内 ─ 2つの圧力によって、清帝国の動向は変化していきます。

2つの出来事によって、なにが起きたのをみると、この時代をとらえやすいです。

ポイントは、つぎのとおり。

  • 「アヘン戦争」の勃発
  • 「アロー戦争」の勃発
  • 「太平天国の乱」の勃発
  • 「日清戦争」の勃発
  • 「辛亥革命」の成功

それぞれ、みていきます。

「アヘン戦争」の勃発

大交易時代以降、イギリスは、中国と、積極的に貿易をおこなっていました。

しかし、主要商品である「お茶」は、清王朝が、独占販売している状態 ─ 。

それにより、支払い通貨である「銀」が、イギリスから中国へ大量に流出していました。

イギリスによる三角貿易

この問題を打開するため、イギリスは「三角貿易」を実施します。

それは、植民地「インド」から、麻薬である「アヘン」を、中国に輸出 ─ 。

「銀」で支払ってもらい、インド経由で「銀」を回収する、というものでした。

出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

アヘン貿易の取り締まり

中毒性のあるアヘンは、中国国内に、一気に広まりました。

皇族・官僚・民衆……あらゆる階層が手を出し、ほとんどの人たちが〝シャブ漬け〟状態になります。

堕落を心配した清王朝は、アヘンの貿易を禁止します。

しかし、中毒におちいる人々は、言うことをききません。

官僚&商人がウラで協力して、密輸入をはじめます。

さらに危機感をいだく清王朝 ─ 。

官僚「林則徐(りんそくじょ)」が立ちあがり、本格的な取り締まりを開始します。

罰則をもうけ、アヘン貿易を禁止します。

さらに、国内にもちこまれたアヘンを没収して、すべて廃棄します。

アヘン戦争の開始

当然、イギリスは不利益をこうむります。

そこで、

アヘン取り締まりのため、清の軍隊が「イギリス人居住区」を取り囲んだ

ことを口実に、戦争をしかけます。

これが「アヘン戦争」です。

結果は、イギリスの圧勝。

それにより、「南京条約」の締結します。

内容はつぎのとおり。

・5つの貿易港を開く
・「香港島」をイギリス領にする
・独占販売の「お茶」を自由取引にする

みてわかるとおり、カンゼンな不平等条約です。

これにより、清王朝は、ますます衰退していきます。

「アロー戦争」の勃発

[アヘンの輸出 → 貿易港の開設]を成しとげたイギリス ─ 。

ですが今度は、主要商品「綿織物」を輸出しよう(=売りつけよう)とします。

そこで、もう一度、戦争をしかけます。

タイミングよく、

海賊を取り締まる清の役人が、偽装のために乗組員が隠しもって「イギリス国旗」を、海に投げすてる

という出来事がおこりました。

イギリスは、「国家への侮辱」を口実に、中国にたいして戦争を起こします。

海賊の船名が「アロー号」だったことから「アロー号事件」とよびます。

事件をきっかけに起きた戦争から「アロー戦争」と呼ばれます。

結果は、イギリスの勝利におわります。

前回と同じように、イギリスに有利な「天津条約」を提案します。

北京条約

しかし、〝なさけない清王朝の敗北〟に、民衆の不満は、一気に高まります。

中国各地で、内乱がおこります。

さらに、反乱軍が、「天津条約」を締結するために、中国沿岸にやってきた、「イギリス戦艦」に砲撃する事件をおこします。

(これまた、都合よく?)「報復」の口実をえたイギリスは、 清皇帝の離宮「円明園」を破壊 ─ 。

ちゃっかり、貴重品を強奪します。

くわえて、「天津条約」のかわりに、あらためて「北京条約」を締結 ─ 。

・九竜半島・南部を譲渡
・11箇所の貿易港を開く
・アヘン貿易を認める

以上の、不平等条約をとりつけ、ふたたび利益を出ます。

結果、中国国内では、「大量のアヘンが流入」&「大量の銀が流出」 ─ 。

経済はボロボロになります。

太平天国の乱

市場は衰退し、銀も減っていくする中国 ─ 。

清王朝への納税は「銀」でおこなわれていました。

銀不足のなか、民衆の税負担は、よりいっそう重くなります。

苦しむ民衆のなかから、革命家「洪秀全(こうしゅうぜん)」が登場します。

かれは、スローガン「滅満興漢(めつまんこうかん)」をかかげます。

「満州族」ではなく、「漢民族」による国家「太平天国」の建設を訴えます。

ここから、「洪秀全」から広まる内乱を、

「太平天国の乱」

とよびます。

清王朝にたいする反乱の動きは、すぐさま広がり、民衆が「太平天国」に、つぎつぎに参加 ─ 。

それにより、南京地域に、新国家「天京」を建てることに成功します。

太平天国 vs 曽国藩&李鴻章

対する「清王朝」も黙っていたわけではありません。

地方の政治家「曽国藩(そうはんこく)」&「李鴻章(りこうしょう)」が、自治組織をつくり、太平天国の制圧にとりかかります。

さらに2人は、(国内混乱のきっかけだったはずの)イギリスに、軍事協力を要請 ─ 。

主導者「洪秀全」の病死により、太平天国の乱はおさまっていきます。

近代化政策「洋務運動」

鎮圧を成しとげるいっぽう、「曽国藩」&「李鴻章」は、清王朝のもと、国内の近代化を図ろうとします。

イギリスなど、ヨーロッパ諸国のチカラを目の当たりにした2人は、「洋務運動」を実施 ─ 。

・兵器工場の建設
・鉱山の開発

など、近代化政策をおこない、軍備を増強させていきます。

そして、同じく近代化をすすめる日本と戦争をおこします。

これが「日清戦争」です。

「日清戦争」の勃発

日清戦争のきっかけは、日本の朝鮮進出です。

当時、朝鮮は「清王朝」に属してしました。

朝鮮王朝は「清」に軍事支援をもとめます。

結果、それにより、日本と清のあいだで争いがおこり、「日清戦争」へとつながっていきます。

国民兵 vs 傭兵

戦況は、「日本優位」ですすみました。

「洋務運動」によって、日本と同じように、近代兵器をたずさえた「清」ですが、兵士の気質・気概が異なりました。

日本は、「国民国家」をベースに「徴兵制度」によって採用された兵士です。

かれらは、みずからの生活より、国家のために闘っていました。

いっぽう、「清」の兵士は、傭兵です。

「清国」のためではなく、自分の利益のために闘っていました。

日本 → 国民兵
清 → 傭兵

こうした、兵士のモチベーションの差が、戦況を分けました。

結果、日本は清に圧勝 ─ 。

さまざまな利益を手にします。

下関条約

戦争に勝った日本は、清と下関条約を結びます。

それにより、つぎのような約束を取りつけました。

・賠償金の支払い
・清からの朝鮮王朝の独立
・台湾&遼東半島の割譲

清から独立した「朝鮮半島」にくわえて、「台湾&遼東半島」を領土におさめることになりました。

この勝利をきっかけに、日本は、中国地域への進出を、さらにすすめていきます。

欧米列強による「半植民地化」

日本との敗戦で、大きな被害をうけた「清」 ─ 。

しかし、それ以上に〝キツかった〟のは、欧米列強による、さらなる進出です。

すでにイギリス・フランス・ロシアは、統治&交易の面で、清に侵入・侵略していましたが、日本との敗戦をきっかけに、植民地化の動きが、活発になります。

おもてむきは「侵略」のカタチをとりませんでしたが、じっしつ「半植民地化」の状態に追い込まれます。

出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

「辛亥革命」の成功

日本をふくめた「列強進出」により、国内の不満は、よりいっそう高まります。

そこで、清王朝の内部で、さらなる近代化政策がとられます。

それが、「変法運動」です。

変法運動の失敗

さきにあげた「洋務運動」は、経済・軍事面での近代化政策でした。

いっぽう「変法運動」は、政治制度の近代化です。

具体的には、「皇帝による独裁」から「憲法による統治」への改革です。

「欧米」「明治日本」の政治制度を見習い、改革派の官僚がおこなった運動です。

しかし、変法運動は、皇帝派の人たちに潰されてしまいます。

「王朝の権威低下」をおそれた「西太后(せいたいごう)」が中心となって、改革の動きにストップをかけました。

義和団への協力要請

さらに、西太后一派は、「外国人排斥」を訴える「義和団」に、軍事支援をもとめます。

武力行使の〝お墨付き〟をもらった義和団は、すぐさま、イギリス・日本をふくめた列強に、宣戦布告します。

しかし、軍事力でおとる、清国&義和団は、敗北 ─ 。

反対に、報復措置を受け、

・賠償金の支払い
・外国人軍隊の駐留
・首都「北京」&紫禁城の占領

といった、約束を結んでしまいます。

孫文による「中華民国」の建国

もはや、統治能力を失った「清王朝」 ─ 。

そのとき、民主派運動のリーダー「孫文」が登場します。

かれは、

中国の秩序を取りもどすには、清王朝を滅ぼし、新たに民主国家を建てるしかない

と、考えます。

中国から離れた「東京」で、革命組織「中国同盟会」を結成し、運動に乗りだします。

四川地方の資本家による暴動をきっかけに、「中国同盟会」の規模を広げていきます。

さらに各地方で、清王朝からの「独立宣言」をうながし、革命組織に取り込んでいきます。

革命運動が広まった段階で、孫文は、アメリカから中国に渡ります。

熱狂のなかで歓迎をうけた孫文は、あらたに、

共和政「中華民国」の建国

を、宣言します。

いっぽう、劣勢に立たされる「清王朝」は、軍事リーダーに「袁世凱(えんせいがい)」をおき、対抗します。

しかし、戦略に長けた孫文は、「中華民国」のトップ、「大総統」のイスを、かれに用意します。

袁世凱は、孫文サイドに寝返り、清王朝一派を裏切ります。

そして、ときの皇帝「宣統帝(せんとうてい)」に退位を迫ります。

もはや権威&軍事の面で、チカラを失った清王朝は、要求に従うしかありません。

ここに、200年以上つづいた「清」は滅亡することになります。

その後、孫文が亡くなり、袁世凱(えんせいがい)による政治がスタートします。

けれど、かれの暴政により、中国エリアは、ふたたび乱れます。

地方での反発・反乱も、ひんぱんに発生。

そのあいだ、日本をふくめた列強が、よりいっそう侵入・侵略をすすめていきます。

まとめ

まとめると、

りきぞう

・近代のアジア諸国の動きは、「オスマン帝国の衰退」「ムガル帝国の崩壊」「清王朝の崩壊」をおさえると、すっきり理解できる
・大事なキーワードは、「ロシアの南下政策」「インドの分割統治」「アヘン戦争&アロー戦争」など
・重要な人物は、「ガンディー」「洪秀全(こうしゅうぜん)」など

といったかんじ。

この記事が、「近代世界 ─ 中東&インド&中国の動きを知りたい人」の参考になれば、うれしいです。

ではまた〜。