インドの民族運動 ─ 理由・ガンディー・指導者・イギリス・インド統治・非暴力抵抗・塩の行進【世界史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・インドの民族運動について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・ローラット法
・インド統治法
・非暴力抵抗
・塩の行進
・プールナ=スワデーシ〜
重要人物
・ガンディー
・ネルー
・ジンナー
ポイント
・第一次大戦後のインドでは、ガンディーの非暴力抵抗により独立運動が急速に広まっていった

この記事では、つぎの本を参考にしました。

インドの民族運動① ─ ローラット法&インド統治法

ローラット法制定の中心人物 シドニー・ローラット

イギリスは第一次大戦中に、インドへ動員のために、インドに自治を約束していました。

しかしいざ大戦が終わってみると、イギリスはインドにたいして不公平なふるまいつづけます。

代表的なのは、

・ローラット法
・インド統治法

です。

ローラット法では、令状なしの逮捕を認め、裁判抜きの投獄まで明記します。

じっさいアムリットサル事件では、イギリス軍が正当な手続きもなしに、インドの人たちに銃をむけ、発砲をくりかえしました。

1919年のインド統治法では、一部の州に自治権をあたえるものの、じっさいはイギリスから派遣されたインド総督による独裁がしかれていました。

インドの民族運動② ─ ガンディーの非暴力抵抗

ガンディー

以上のようなイギリスの圧力に、インド人は反旗をひるがえします。

そのさいの指導者がガンディーでした。

彼は「サティヤーグラハ」とよばれる非暴力抵抗をおこないます。カンディーの運動は、だんだんと支持者をあつめていき、ついには一般民衆をくわえた、全インドをまきこむ民族運動にまで発展しました。

大半のインド人はヒンドゥーを信仰していましたが、ムスリムとも協力関係をむすびました。

非暴力抵抗は約3年ほど続きましたが、過激な民衆が警官を殺害してしまい、それをきっかけに反抗の動きも下火となってしまいます。ガンディーは運動停止の宣言を余儀なくされます。

プールナ=スワラージ

その後、カンディーの影響をうけて、インド共産党が結成されます。

また「国民会議ラホール大会」とよばれる民主化会議が開かれます。そのさいの議長は急進派のネルーで、大会では「完全独立」を意味するプールナ=スワラージが決議されます。

これらの抵抗活動は、一部の政治家&知識人のあいだでなされたものですが、イギリスへの反抗は、根づくよくつづけられます。

塩の行進

そんな中、運動停止を宣言してから約5年後、ガンディーはふたたび非暴力抵抗に打って出ます。

彼は、かの有名な「塩の行進」をおこない、イギリスによる塩の専売に抗議します。

「塩の行進」はいっけん突飛な行動にみえますが、ガンディーとしては、イギリスの植民地支配の不公平さを、世界の人々にわかりやすくアピールするのがねらいでした。

インドの民族運動③ ─ イギリス=インド円卓会議

イギリス=インド円卓会議

ガンディーをはじめ、インドの抵抗活動にたいしてイギリスも何らかの対応を迫られます。

本国政府は、和解案を協議するため、ロンドンにおいてイギリス=インド円卓会議を開催します。しかしインド急進派の抵抗もあり、合意まではいたりません。

なかなか抵抗運動の指導者を納得させられないイギリス政府は1935年インド統治法を制定します。

これは連邦制と各州の自治を認めるものでした。けれどじっさいは、軍事外交財政は、イギリス本国がにぎり、完全独立の要求は、ここでも無視されました。

つづいて州選挙が実施されますが、このとき国民会議派が圧勝します。すると、それまで協力関係にあった全インド=ムスリム連盟とのミゾがうまれ、対立が鮮明となります。

じっさいその約3年後には、全インド=ムスリム連盟はジンナーを指導者としたうえで、国民会議とインドからの独立分離を決議します。

おわりに

インドの民族運動をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・ローラット法
・インド統治法
・非暴力抵抗
・塩の行進
・プールナ=スワデーシ〜
重要人物
・ガンディー
・ネルー
・ジンナー
ポイント
・第一次大戦後のインドでは、ガンディーの非暴力抵抗により独立運動が急速に広まっていった

この記事が、インドの民族運動を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。