どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・アンカラの戦い(vs オスマン帝国)
・都市ヘラート
・トルコ=イスラーム文化
・ウズベク族
・バヤジット1世
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
ティムール朝の歴史① ─ サマルカンド

それまでユーラシア大陸一帯は、モンゴル帝国がおさめていました。
しかし、親族間にわりあてられた領土は分散してゆき、各国は独立の傾向がつよくなっていきます。
チャガタイ=ハン国もそのひとつで、100年ちかく中央アジア一帯を統治したあとは、さらに東西に分裂します(14世紀ごろ)。
分かれたあとも、西チャガタイ=ハン国では、国内の混乱は絶えませんでした。その内乱に乗じて、勢力をのばしたのが、武将のティムールでした。
チンギス=ハンの後継を自称する彼は、みずからティムール朝を建国します。
都をサマルカンドにおき、交易をつうじて大いに繁栄します。
ティムール朝の歴史② ─ アンカラの戦い

ティムールは残虐な性格であるいっぽう、たいへんな戦略家でした。まわりの国々に戦いをしかけ、征服や同盟により、つぎつぎに領土を広げていきます。
一覧をあげれば、つぎのとおり。
・旧イル=ハン国領の征服
・キプチャク=ハン国の征服
・トゥグルク朝への侵攻(インド)
これをみても、彼がどれほど戦いにあけくれていたかわかります。
ティムールの戦闘のなかでも、いちばん有名なのは、オスマン帝国との争いアンカラの戦いです。
当時オスマン朝は、建国の歴史が浅いとはいえ、小アジアを中心に勢力をのばす強敵でした。
チンギス=ハンの後継を自認するティムールにとっては、なんとしても打倒すべき相手でした。
戦いの結果、彼はみごとに打ち勝ち、敵の君主パヤジット1世を捕虜にすることに成功します。
この勝利により、小アジアを手中におさめたティムールは、オスマン朝に不満をもっていた豪族たちに間接統治させ、みずからは都市サマルカンドに引き下がります。
というのも、かつてのモンゴル帝国を復活させるべく、元朝の首都がおかれていた中国大陸へ兵をすすめるためでした。
当時の中国は、漢民族の明がおさめ、権勢をふるっていました。
ティムールからすれば、いまは衰退したモンゴル族を再興させるためにも、明王朝の打倒は、避けて通れない宿命でした。
しかし残念なことに、ティムールは寿命で力尽き、明への遠征は、ご破産となります。

ティムール朝の歴史③ ─ ウズベク族

モンゴル帝国の復興をかかげる王朝でしたが、ティムール自身、後継ぎに恵まれていませんでした。
そのために、ティムール朝は、創始者一代でもって崩壊をむかえます。
彼のもとにいた武将のあいだで内部争いがくりかえされ、広大にひろがったティムール朝の領土をまともに統治することができません。
さいごは、トルコ系のウズベク族の侵攻に合い、そのまま王朝は滅亡していきました。
その後、ティムール朝を倒したウズベクは、中央アジアで、
・ヒヴァ=ハン国
・コーカンド=ハン国
を、それぞれ建国していきます。
しばらく存続するものの、近代に入ると、どの国も帝国ロシアの保護国となり、長いあいだ、不遇の時代をおくることになります。
ティムール朝の歴史④ ─ トルコ=イスラーム文化

さいごにティムール朝の文化について、みていきましょう。
ティムール自身の考えはさておき、王朝自体は、イラン人とトルコ人の世界を統一させよとしました。
そのために、もともとあったイラン=イスラーム文化が、中央アジアの地においてトルコ=イスラーム文化として発達します。
学者のウルグ=ベクが、サマルカンドに天文台をたて、精密な暦(こよみ)を作成したのも、この頃です。
都サマルカンドと同じく、都ヘラートは文化活動の中心地となっていきます。
おわりに
ティムール朝の歴史をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・アンカラの戦い(vs オスマン帝国)
・都市ヘラート
・トルコ=イスラーム文化
・ウズベク族
・バヤジット1世
この記事が、ティムール朝の歴史を知りたい人の参考になれば、うれしいです。
では、また。




