どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワードは?
・重要な人物は、だれ?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・二聖都の保護者
・シパーヒー
・ティマール制
・イェニチェリ
・ミレット制
・カピチュレーション
・スレイマン=モスク
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
オスマン帝国の社会と文化① ─ 統治制度
さいしょに、オスマン朝の統治制度についてみていきましょう。
ポイントは、つぎのとおり。
- スルタン制
- 統治機構
- 軍事体制
- 多民族多宗教の共生
それぞれ、かんたんに説明します。
スルタン制
もともとスルタンとは、
という意味です。
セルジューク朝時代に、アッバース朝のカリフから譲りうけた称号でした。
この時点で、カリフは権威の象徴にすぎず、政治力も軍事力もスルタンがにぎっていました。
オスマン朝もきほん同じで、権力も軍事力もスルタンがもっていました。
くわえて、オスマン朝のスルタンには、
・「スンナ派の擁護者」
という名があたえられ、イスラーム世界において専制君主としてふるまうことが、おおやけに認められていました。
ここでいう「二聖都」とは、イスラーム教の聖地「メッカ」と「メディナ」をさします。
いっぽうでオスマン朝は、イスラーム法にもとづいて厳しく政治がおこなわれていました。そのため、研究者のあいだでは、もっとも完成されたイスラーム帝国と評価されています。
統治機構
つぎに統治機構をみていきます。
オスマン帝国では、広大な領土を3つの区域に分けておさめていました。
その3つとは、つぎのとおりです。
・間接統治区域
・属国
「直轄地」では、地方行政官としてウラマー(イスラーム法学者)を派遣し、直接統治をおこなっていました。
具体的には、バルカン・アナトリア・シリアなどのエリアです。
「間接統治区域」では、もともといた現地の総督や有力者に支配をまかせるいっぽう、貢納の義務を課しました。
間接統治といっても、現地の豪族と王朝中枢とのつながりはつよく、かんたんには地方反乱を起こさせないよう、さまざまな工夫をほどこしていました。
代表的なエリアは、エジプト・イラクなどです。
「属国」では、こちらも現地の有力者をつかい、かれらに統治をまかせていました。
間接統治地域と同じく、支配する人物には貢納の義務がありました。しかしオスマン朝による拘束がゆるくなると、統治者たちは約束の金額を払わなくなり、ときには反乱までおこすようになりました。
属国の代表としては、クリム=ハン国などがあげられます。
軍事体制
オスマン朝では、統治のしくみと同じく、軍隊のしくみもうまく整備されていました。
軍隊には、おもに2つのグループがありました。
・イェニチェリ
です。
トルコ系騎士であるシパーヒーには、徴税権を認められた封土があたえられていました。
かれらはこの土地から得たお金で、軍費や生活費をやりくりするいっぽう、王朝中枢にたいして貢納金を支払っていました。
この封土を「ティマール」とよぶことから、シパーヒーによって成り立つ軍事体制をティマール制とよびます。
ポイントは、あたえられたティマールは、土地と農民の統治権のみが認められ、不当な武力弾圧はきびしく制限されていた点です。
また世襲は禁止で、ある時期がきたら、別の土地を管理することが決められていました。これには、ひとりの軍人が、同じ区域に長く居すわることで現地の有力者と手を組み、王朝中枢に反抗させないねらいがありました。
いっぽう、イェニチェリとはスルタン直属の歩兵部隊をさします。
もともとかれらは、征服地のバルカン半島にいた年少のキリスト教徒であり、徴用され改宗されたのち、徹底した軍事訓練をうけました。
そのため、優れた軍事力をもち、戦争のさいには、他国からたいへん恐れられます。
オスマン朝では、征服地から見込みのある者を強制徴用して、国家利益のために徹底訓練するしくみをデウシルメ制とよびます。イェニチェリもまた、このデウシルメ制からうまれた軍人でした。
これまでイェニチェリは、メフメト1世によって創設された、といわれてきました。けれどさいきんでは、14世紀後半のムラト1世のときに、おおよそのかたちはできあがっていた、とされています。
多民族&多宗教
オスマン社会の特徴は、多民族&多宗教の共存です。
この特質は、つぎの2つの制度にあらわれています。
・カピチュレーション
ミレット制とは、ユダヤ教徒やキリスト教徒など、ムスリム以外の宗教共同体に、自治権と信仰の自由を認める制度です。
もともとイスラーム教では、ユダヤ教もキリスト教も「啓典の民」として敬う相手だとされました。
オスマン朝でも、この考えをふまえ、かれら信徒にも自治と信仰を認めました。
ミレット制により、ギリシャ人・アルメニア人・ユダヤ人の商人も活躍でき、まわりまって、オスマン朝に利益をもたらすことになります。
もうひとつのカピチュレーションとは、オスマン領内で、ほかの国にたいして安全保障・免税権・治外法権をあたえる制度です。
さいしょに付与した国はフランスで、しばらくして、イギリスにもあたえることになります。
当初は、戦争協力してくれたフランスに、施しの意味をこめて譲りあたえたものでした。
しかし他国からはじょじょに、海洋交易の目的でカピチュレーションがつわかれるようになり、ときには悪用されます。
イギリスにカピチュレーションを認めたときには、なかば強引に付与したかたちとなります。そののちには、不平等条約の口実に利用されてしまいます。
オスマン帝国の社会と文化② ─ トルコ=イスラーム文化
さいごに、オスマン朝の文化をみていきましょう。
イスラーム教の保護者として認められたオスマン朝なので、書かれた言語は、すべてアラビア文字でした。
しかしトルコ系民族であったため、一般の人たちは、トルコ語で会話していました。
また、トルコ語が普及することで、イスラームと融合したトルコ=イスラーム文化がうまれます。
たとえば、スレイマン=モスクや、その内部に描かれたミニアチュール(線密画)などの建築や美術は、トルコ=イスラーム文化の典型といえます。
おわりに
オスマン朝の歴史をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・二聖都の保護者
・シパーヒー
・ティマール制
・イェニチェリ
・ミレット制
・カピチュレーション
・スレイマン=モスク
この記事が、オスマン朝の歴史を知りたい人の参考になれば、うれしいです。
では、また。