どうも、りきぞう(@rikizoamaya)です。
大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。
社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。
働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。
働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。
・発想がすごいなぁ
と、思う人は、キホン、教養を身につけています。
なかでも、重要なのは「世界史」です。
ここ数年、ビジネスマンの必須知識として「世界史」が注目をあつめています。
ネット時代をむかえ、グローバル化が加速しているからです。
とくに、ヨーロッパ史の流れは、おさえておく必要があります。
グローバル経済は、ヨーロッパから始まったからです。
ヨーロッパの根っこには、古代ローマ文化が流れています。
とはいえ、ローマ史は、分量が多く、すべて知るのはたいへん。
そんなとき、つぎの本をみつけました。
「古代ローマ史」関連の書籍が多いです。
そのなかで、本書は、コンパクトでありながら、重要なポイントをあげ、ローマ史を紹介していきます。
大まかに、ローマ史を知りたい人には、ピッタリです。
著者は、古代ギリシャ&ローマ史の専門家。
ローマにかぎらず、世界史全般について、積極的に執筆活動をなさっています。
目次
本村凌二『教養としての「ローマ史」の読み方』の概要
まずは目次から。
こんなかんじです。
2 勝者の混迷、カエサルという経験
3 「世界帝国ローマ」の平和と失われた遺風
4 ローマはなぜ滅びたのか
4部構成です。
1で「起源」、2で「発展」、3で「安定」、4で「衰退」 ─ 。
一連の流れをあつかっています。
本村凌二『教養としての「ローマ史」の読み方』の詳細
以下、引用をあげつつ、気になった箇所をピックアップしていきます。
ローマ人が自由意識をもった要因
古代世界では珍しく、ローマ人は「自分たちは自由だ」と、つよく意識していました。
その要因は、2つあります。
② 祖国への想い&名誉
1つ目は、軍事形態です。
キホン、初期のローマ人は、自分たちの土地は、自分たちで守っていました。
ほかの国から兵士を雇わずに、みずから戦地に出て、戦っていました。
みんなが軍隊に参加するため、結束・団結心がうまれ、おたがいを尊重するようになります。
結果、それぞれの自由を認め合う雰囲気ができ、ひとりひとりが「自由」を自覚できるわけです。
ローマ軍はエトルリア人にならって「ファランクス」と呼ばれる密集隊形を組んで戦います。集団でまとまって戦うため、人々には助け合いの意識が生まれ、連帯感や団結心が 育まれます。その結果、個人としての自由を尊重しつつ、同時に全体の利益を重んじるという、当時としては珍しいほどバランスのよい自由意識が育まれたのではないかと思われます。(0379)
2つ目は、祖国への想いです。
ローマ人は、自分たちが暮らす「土地」に、それなりの想いをもっていました。
いっぽうで、そのキモチが、自分の名誉と結びついていました。
つまり、ローマの土地を守るのが、自分の指名である、と ─ 。
土地への執着 / 個人の自尊心が、うまくつながり、それが「自由意識」につながっていったわけです。
もう一つ重要なのが、ローマ人の祖国に対する強い思いと、それが個人の名誉と強く結びついていたという事実でしょう。 もともと農民だったローマ人は、土地というものに強い執着心を持っていました。祖国の土地。それがローマ人にとって最も重要なものだったのです。実際、共和政期のローマの歴史は、祖国の土地を守り、拡大するために、ただひたすら祖国を強くすることを考えてきた人々の歴史だと言えます。(0383)
「共和政ファシズム」としてのローマ
初期〜中期のローマは、「共和政」をとっていました。
とはいえ、わたしたちがイメージするような「共和政」ではありません。
きわめて「軍事色」のつよい「共和政」でした。
国内では民衆に支持された「執政官(コンスル)」が政治を担います。
いっぽうで、国外にたいしては、ひんぱんに軍事行動に出ます。
著者のコトバをつかえば、「共和政ファシズム」と言えるほど ─ 。
ファシズムというと、ヒトラー時代のドイツのように、「独裁を軸にした侵略国家」を想像します。
そこまで強権的ではなく、「攻撃」を利用した「防衛」といったところです。
攻撃と防御を、うまく使い分けていたわけです。
国政と軍事が密接に結びついているローマの共和政を理解するためには、単に「共和政ローマ」と考えるのではなく、「共和政ファシズム」として理解すべきだとわたしは考えます。〔……〕それは、一言で言うなら「先手防衛」、もう少しわかりやすく言うと「攻撃こそ最大の防御である」という価値観です。ですので「共和政ファシズム」は「共和政軍国主義」とでも言っておけばいいのではないでしょうか。(0959-0969)
初代皇帝「アウグストゥス」の政治運営
共和政のあと、ローマは「帝政」に移行します。
ほぼ「王政」ですが、こちらもわたしたちがイメージするほど、強い権力をもっているわけではありません。
貴族(=元老院)、民衆(=市民)の評価・評判にはさまれ、わりと不安定な立場でした。
じっさい「カエサル」が、強力な権力をにぎったことで暗殺されます。
それを知っていていた、初代皇帝「アウグストゥス」は、バランスのいい、政治運勢をおこないました。
アウグストゥスがカエサルと異なる選択をしたのは、現実はともかく、自分一人に権力が集まっているように見えてはいけないということを学んだからだと言えます。聡明なアウグストゥスは、その四十年の治世の間、共和政期の国制にほとんど変更を加えないまま、新しい仕組みを創出しています。共和政国家の運営機構を変えずに、拡大した帝国で実質的な独裁を行うのですから、これはすごいことです。(1789)
いっぽうで、民衆の支持が離れないように、つねに気をくばっていました。
同じく、「五賢帝」の1人である「トラヤヌス」も、民衆の評判には、いつも配慮していました。
トラヤヌスが軍部を掌握し、ローマに皇帝として戻ったとき、ローマ市民は大歓声で彼を迎えました。このときトラヤヌスは、馬を下りて歩いて街に入っています。そして、親しい人たちと次々と抱擁し、そのまま民衆の中にも入っていきました。背が高く、頑健な体格のトラヤヌスは皇帝としての威厳に満ちていました。にもかかわらず、謙虚で親しみやすい態度を示したことで、民衆の心はすっかりトラヤヌスに まれてしまいました。(2378)
さいしょから人気もありましたが、そのあとも支持を落とさないように、努力していたわけです。
こんなふうに、皇帝といえども、元老院 / 市民の支持に影響され、バランスをはかったいたいました。
過度な民主化は、統治の基盤をあやふやにさせる
安定と混乱をくりかえしつつ、ローマ帝国は領土を広げます。
いっけん繁栄しているようにみえますが、じょじょに国のカタチが不安定になっていきます。
というのも、領土の拡大によって、きっすいのローマ人だけでは、帝国全体を統治できなくなったからです。
ほかの民族が、政治運営にたずさわるようになってきたからです。
著者は、この時点で、ローマは、「ローマ人の帝国」から「ローマ帝国」になったと指摘します。
彼〔=皇帝〕にとっては、帝国内のすべての地域が平等でした。東も西も、北も南も関係ない。イタリア的なものを特にありがたがるということもない。そういう意味では、ローマは彼の治世において「空前の民主化、均等化」が生じたのです。これは、彼によってローマが、「ローマ人の帝国」から「ローマ帝国」になったということです。(2811)
いまの常識では、「民主化」は、すばらしいとされます。
しかし、行き過ぎた民主化は、「市民」という価値を落とし、かつ、皇帝の権限も下げます。
結果、国のカタチのあやふやにさせます。
こうした民主化、均等化は、現代の感覚で言うと素晴らしいことのように思いますが、問題がなかったわけではありません。なぜなら、広い帝国全土において均等な価値を認めたことによって、皇帝権力の基盤がどこにあるのかということがあやふやになってしまったからです。(2814)
コレは、いまでも言えるはなしで、ヘタに権利を与えると、そのありがたみ(=価値)がなくなり、結果的に、国の存続がムズかしくなる ─ 。
歴史の教訓として、おぼえておく良いですね。
崩壊の要因
さいごの章で、これまでの研究をふまえつつ、ローマ帝国崩壊の要因を、3つあげます。
② インフラのほころび
③ 寛容性の低下
① は、18世紀の歴史家「ギボン」がとなえたもの。
コレがイチバン支持されています。
② は、最近の研究で言われているもの。
道、橋、水道など、それまでローマが管理していたインフラがほころび、結果、国全体が衰退した、という考えです。
③ は、著者の意見です。
軍事色の強いローマでしたが、統治した国にたいしては、それなりに寛容でした。
しかし、敵にたいしてはもちろん、国内の市民にたいしても、寛容性がなくなり、じょじょに衰退していった、という考え。
寛容性がなくなることで、交流・交易の範囲もせまくなり、だんだんと勢力を落としていく ─ 。
これも一理ある考えですね。
おわりに
グローバル化がすすみ、海外の人たちと交流が深まるなかでは、世界史の教養は不可欠になっています。
とくに、ローマ史はマストです。
まずは、本書で、全体の流れを知るのが、おすすめです。
そのあと、カエサルの偉業など、個別のテーマにふれるのが良いと思います。
よければチェックしてみてください。
ではまた〜。

