【書評】佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』感想&レビューです。

どうも、りきぞうです。

大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。

社会人なってからは、[予備校講師 → ウェブディレクター → ライター]と、いろんな職業にたずさわってきました。

働き方についても、[契約社員 → 正社員 → フリーランス]と、ひと通り経験してきました。

働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。

・できるなぁ
・発想がすごいなぁ

と、思う人は、キホン、教養を身につけています。

なかでも、重要なのは「世界史」です。

ここ数年、ビジネスマンの必須知識として「世界史」が注目をあつめています。

ネット時代をむかえ、グローバル化が加速しているからです。

とくに、世界史をまなぶうえで、フランスの歴史は、必須です。

ヨーロッパ史において、フランスは、いつでもメイン・プレイヤーだからです。

とはいえ、フランスの歴史は、なかなかとらえてにくい。

そんなとき、つぎの本をみつめました。

著者は、フランス研究の第一人者 ─ 。

この本では、中世フランス・「カペー朝」のながれをたどっていきます。

小説家でもあるため、文体にドライブ感があります。

物語のように、ぐいぐい読みすすめていけます。

中世のフランス史を知るには、もってこい1冊です。

また本書は、「フランス王朝史・シリーズ」の第1巻にあたります。

3冊とおしでみると、中世初期〜近代初期のフランス史を、ざっくり把握できます。

ちなみに、わたしは、Kindle 版で読みました。

以下、引用番号は、こちらの本によります。

佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』の概要

まずは、目次。

こんなかんじです。

はじめに フランス王とは誰か
01 ユーグ・カペー(987年~996年)
02 名ばかりの王たち
03  肥満王ルイ6世(1108年~1137年)
04 若王ルイ7世(1137年~1180年)
05 尊厳王フィリップ2世(1180年~1223年)
06 獅子王ルイ8世(1223年~1226年)
07 聖王ルイ9世(1226年~1270年)
08 勇敢王フィリップ3世(1270年~1285年)
09 美男王フィリップ4世(1285年~1314年)
10 あいつぐ不幸
おわりに 天下統一の物語

中世フランスは、カペー家がおさめてました。

すべての国王をたどることで、フランス史のながれをみていきます。

キホン物語調になっているので、順々で読んでいくのが、おすすめです。

佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』の詳細

以下、気になるトコをあげていきます。

ポイントは、つぎのとおり。

  • 王の地位をさける理由
  • 破門の衝撃・影響
  • 聖王「ルイ9世」による基盤づくり
  • 国王の平均像
  • ドイツ&イタリアとの比較

以下、ひとつひとつ、みていきます。

王の地位をさける理由

権力者なら、フランス王を目指す ─ そんなイメージがあります。

有力地主にとって、国王の立場は、みずからに権威をあたえるからです。

〔……〕正統性の源こそが王だった。つまりは天下のフランス王の臣下で、この土地を任されているものだと、自らを権威づけたいわけである。(no.338)

くわえて、中世初期には、教会の権限が、まだまだつよかった。

国王になることで、戴冠式をとりおこない、「神」からお墨付きをあたえてもらえます。

かたわら、つきつめたところの王に権威を与えるのが、血筋でなければ神の後光である。戴冠式に聖職者が幅を利かせるのは、そのためである。(no.350)

しかし、国王の立場になると、ほかの有力貴族から、その地位をねらわれるリスクがでてきます。

さらに、ローマ教会との〝つきあい〟もふえて、財政面でも、なにかと負担をしいられるようになる。

そのため、中世のはじめごろには、なかなかフランス王国になろうとするものはいませんでした。

じっさいに、その後のフランスをひきいるカペー家も、はじめは「参謀」にとどまり、チャンスがきても、王位の位置におさまりませんでした。

いえばいうほど、王など損なばかりである。この厄介から逃げ続けた大ユーグの息子として、ユーグ・カペーも始めから王位に野心を抱いていたわけではなかった。(no.371)

けっきょくは、カペー家の人びとは、それまでのフランス王家の立場をひきつぐことになります。

とはいえ案の定、国王になったあとは、苦労の連続となります。

・アキテーヌ公
・ブールゴーニュ公
・ノルマンディ公

などの貴族から、王座の地位をねらわれ、戦争をしかけられる立場においやられます。

中途半端につよいために、デメリットのほうが多い。

それがフランス王国の立ち位置でした。

まだまだフランス王家は苦しい。晴れの戴冠式が執り行われたにもかかわらず、列席のアキテーヌ公、ブールゴーニュ公、ノルマンディ公らは、ルイ六世に臣下の礼を取ろうとはしなかった。有力諸侯の群雄割拠に、ユーグ・カペーの末裔たちは顔色ないという状態には、なんの変化もなかったのである。(no.688)

全国三部会での資金集め

いざ他国と戦争をおこすとなったときは、ひと苦労です。

威厳・権威がないために、ほかの有力者・貴族が、協力してくれないからです。

そこで実施したのが、全国三部会です。

三部会といえば、フランス革命のとき、各階層の代表者をあつめた機関として、有名です。

そこに参加した、民衆側の議員たちが、革命のひきがねをひきました。

けれど、三部会はもともと、国王が、各地域のトップから、軍資金を提供してもらうためのあつまりでした。

つまり、経済協力をしてもらうための「交渉の場」だったわけです。

全国三部会といえば、1789年にフランス革命を起こしたことで知られる代議機関だが、これを創設したのが実はフィリップ四世だった。諸身分の意見を聞きたいというより、諸身分の意見を聞き、その上で諸身分の理解と合意を得られたという大義名分を手に入れたかった、より具体的にいうならば、諸身分の名の下に王国に大々的な課税を行いたかったからだ。つまりは、あの手この手を弄しながらの、またぞろの軍資金集めである。(no.2412)

創設者は「フィリップ四世」 ─ 。

それだけ、かれの国王としての立場は、よわかった。

王として、他国との戦争協力をもとめても、国内の有力者は「イエス」と言わなかったわけですから。

破門の衝撃・影響

のべたとおり、中世初期では、まだまだ教会・教皇の権限はつよかった。

とはいえ、武力・権力をにぎっているのは、国王です。

なぜそこまで、王国は教会に、気をつかなくてはいけなかったのでしょうか。

それは、あらゆる儀式を、教会側がとりしきっていたからです。

具体的には、

・洗礼
・結婚
・臨終

などの秘蹟です。

[誕生 → 結婚 → 死]のように、人生におけるだいじなイベントを、すべて教会がおさえていたわけです。

そのため、教会から破門をうければ、これらの儀式ができなくなります。

なので、王国としては、つねに教会の顔色をうかがう必要があったわけです。

1199年12月、フィリップ2世の破門とフランス王領における聖務停止が宣告されてしまったのだ。破門はわかるとして、聖務停止とは読んで字の如く、キリスト教の聖職者の活動を全て停止させる処置のことである。それがなんだと思うのは現代人の感覚で、当時はキリスト教が人々の日々の生活全般を 司っていた。例えば、洗礼、結婚、臨終等々の秘蹟だ。それぞれが今日にいう出生届、婚姻届、死亡届であり、つまり当時の教会は役所の機能も兼ねていたのだ。1311

聖王「ルイ9世」による基盤づくり

不安定な国王という立場 ─ 。

その基盤を安定させたのが、聖王ルイ9世でした。

かれの賢いところは、権力をふりかざさず、宗教・文化のチカラで、王国を強化したことです。

なんだかんでいっても、カペー家は、まえの王朝から地位をうばい、〝のしあがって〟立場をきずいてきました。

そのために同じように、いつでも武力でもってねらわれる立場になります。

歴代フランス王の奮闘、わけてもフィリップ二世の壮挙をもって、すでにカペー朝は押しも押されもしない、ヨーロッパ第一等の勢力に成長していた。名ばかりだった王家が、今や実を伴わせたといえば聞こえがよいが、要するに簒奪王朝が力で成り上がったのだ。(no.2050)

簒奪王朝というような陰口は、フィリップ二世、ルイ八世と母方から取りこんだ大帝シャルルマーニュの尊い血で封じてしまうとしても、やり口が汚いとか、振る舞いが下品だとか、そうした揶揄は避けられない。恐れられるようになったとしても、なかなか尊敬まではされないものなのである。(no.2061)

それを回避するために、ルイ9世は、宗教のチカラを借りながら、道徳的なふるまいにはげみました。

文化事業にも資源をそそぎ、いまでいうブランド戦略でもって、王国のイメージをあげていきます。

この実力一本勝負のフランス王家に、いわば良心を注入することで、道徳的にも、ひいては文化的にも一流と周囲の意識を改めさせたのが、フランス王ルイ九世の正義の振る舞いだった。(no.2123)

武力による統制が成り立たないときには、イメージ操作でもって、民衆・敵国を納得させる ─ 。

このあたりは、いまの組織・企業にも、応用できるはなしですよね。

カペー朝・国王の平均像

カペー朝のながれをざっくりみると、まさしく王国の基盤づくりにはげんだ300年間とにいえます。

そのために民衆にとっては、国王はそこまで〝目の上の人〟というわけではなく、わりとみじかな存在でした。

じじつ、平均的な国王は、

・12〜14歳 → 成人
・20〜25歳 → 即位
・25〜50歳 → 在位
・50〜55歳 → 引退

といったかんじで、ライフヒストリーをたどっていました。

わりとありがちな人生といったかんじです。

カペー朝の時代においては、フランス王は大体21、2歳で王に即位し、そのまま30年間ほど在位して、52、3歳くらいで死んでいる。あにはからんや、現代人の時間感覚に近い。〔……〕大体21、2歳で就職し、勤続30年を頑張り、52、3歳くらいで引退するというのは、ちょっと前の時代なら、ごくごく普通の感覚だったろう。まさに等身大の人生である。(no.2646)

本書では、カペー家の歴史を「個人商店の奮闘記」にたとえます。

・暖簾わけ

・創業

・商戦の勝ち抜き

・業績アップ

・ブランド確立

といったながれです。

強いて形容を試みるなら、個人商店の奮闘日記くらいの感覚だ。「フランク皇帝」という大店から暖簾を分けられた分家、「西フランク王」に仕える番頭だったものが、もう馬鹿なボンボンには任せられないと、金看板を奪って創業。はじめは自転車操業だったが、使用人にも恵まれて、「フランス王」は徐々に業績を伸ばす。ライヴァル商店と鎬を削り、ここぞと金看板を出しながらの商戦で、次から次と勝利を収める。気がつけば、かつて仕えた大店の分家にも、いや、大店そのものにも負けないくらい、商いを大きくしていたと、それくらいのサクセス・ストーリーを書くのと変わらないのである。(no.2646)

国家規模からいえば、いまの大企業くらい。

ひとつの成長物語とみれば、カペー朝のながれは、とらえやすいですね。

ドイツ&イタリアとの比較

初期フランス王家の立場は、わりとグラグラでした。

とはいえ、ドイツとイタリアとくらべると、まだマシだったといえます。

というのも、てきどに教会との距離がたもたれていたからです。

ドイツは、神聖ローマ帝国として、皇帝の地位をまもるのに必死でした。

そのために、つねに教会の動きを気にする必要があり、国家運営に尽力をそそぐのがムズかしかった。

東フランク、つまりドイツのほうは皇帝位を保持することになったため、領邦君主、いや、諸侯程度の実力しか持たないものが、世界帝国の建設を目指さざるをえなくなったのだ。 支配の網かけを大きくすれば、その目のほうは粗くならざるをえない。ほんの足元さえ固まらず、ドイツ王たることさえできない。(no.2692)

いっぽうのイタリアは、ローマ教皇の〝お膝元〟 ─ 。

ひとりの有力者が、権力をにぎろうとすれば、教会の目がきびしくなります。

覇権をめぐって、権威だけでなく、武力・権力の面でも、バチバチの争いが生じます。

そのために、なかなかひとつの王家・王国が、イタリアの領域で、勢力をのばすのは、困難でした。

さらに厄介な立場に追いこまれたというのは、今ひとりの普遍的な権威、イタリアのローマ教皇とも世界の指導権を巡って、常に対立せざるをえなかったからだ。この激越な抗争に疲れ果て、双方とも国造りどころの話ではなくなってしまう。(no.2712)

いっぽうフランス王国は、ほどほどに離れ、教会の目のとどかない位置にあった。

そのため、統一感をもって、領土を拡大することができました。

反対にフランスのほうは、いわば気楽な三男よろしき立場でいることができた。自分のことだけ考えればよいとして、着々と成長を続けられたわけだが、それでも長男と次男は自分たちの喧嘩に忙しく、生意気な弟を叩いてやらなければなどという、気力も余力も持てなかった。誰にも邪魔されず、伸び伸びと大きくなって、気づいたときには長男も次男も優に上回る、驚くべき巨漢に長じていたというのが、カペー朝のフランス王家だったのである。(no.2810)

これが、フランス王家の強化へとつながっていきます。

教会・教皇との距離感が、国家の規模を決めた ─ これはおもしろい視点だと思います。

おわりに

本書は、カペー朝の視点から、フランス史のながれを、コンパクトにまとめています。

物語調で、すらすらよめます。

ざっくりと、フランスの歴史を知るには、役立つ1冊です。

よければ、チェックしてください。

ではまた〜。