モンゴル帝国の歴史 ─ 強さ・残酷さ・元・衰退・クリルタイ・カラコルム・千戸制・大都・元【世界史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・モンゴル帝国について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・カラコルム
・千戸制
・大都
・元
重要人物
・チンギス=ハン
・オゴタイ
・フビライ
ポイント
・チンギス=ハンの時代に千戸制のもと遊牧世界を支配し、オゴタイ&モンケ&フビライのころには農耕世界に進出し、ユーラシア大陸一帯をおさめた

この記事では、つぎの本を参考にしました。

モンゴル帝国の歴史① ─ 帝国の建設

モンゴル部族の移動風景

モンゴルはもともと、少数の遊牧部族にすぎませんでした。しかしチンギス=ハンが君主になって以降、まわりの民族や国家をまきこむかたちで、巨大化していきます。

遊牧地域をある程度おさめたあと、チンギス=ハンは「ハーン」を名のり、モンゴル帝国を樹立します。

ハーンとは「皇帝」を意味します。

彼は部族会議であるクリルタイで、ハーンの称号をうけ、一族全体を率いる君主となります。

モンゴル帝国ではハーンをトップに、軍事組織と行政機関がつくられます。兵を1000人単位で編成し、各グループに族長をおきます。平時では家族を連れたまま遊牧生活をおくるいっぽう、争いが起きれば軍隊に切りかわります。

この統治制度を「千戸制」とよびます。

かれらはひとつの場所にとどまらず、ユーラシア一帯を四方八方、縦横無尽にかけめぐります。これがモンゴル帝国が領土を広げる要因でした。

モンゴル帝国の歴史② ─ チンギス=ハン

チンギス=ハン

大規模な遠征は、チンギス=ハンのころからスタートします。

征服した部族&国家は、つぎのとおりです。

・ナイマン部族(中央アジア)
・ホラズム朝(イラン)
・西夏(北西中国)

征服したといっても、軍事や武力でもって残酷に支配したわけではありません。降伏すれば、すぐさま友好関係をむすび、通商や交易をおこないました。

もちろん残虐な一面もありましたが、征服された国々も服従する程度の経済的メリットがありました。そのために支配される側も、わりとあっさりモンゴル帝国に帰順を示した、とされます。

対外遠征は、チンギス=ハンが亡くなったあとも、息子&孫たちによって続けられていきます。

出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

モンゴル帝国の歴史③ ─ オゴタイ

オゴタイ

チンギス=ハンにつづき、皇帝「ハン」を継承したのが、三男「オゴタイ」でした。

彼は、中国北東部をおさめる金国に兵をすすめ、征服に成功します。

ほかの子孫たちにくらべ、おさめた領土は小規模でしたが、金は父のチンギス=ハンがなかなか攻略できない土地でした。

オゴタイは父の意志を受けつぎ、先祖の野望を果たすことになります。

以後、モンゴル帝国はカラコルムに都をおき、そこを拠点によりいっそう征服活動を展開していくことになります。

モンゴル帝国の歴史④ ─ バトゥ

ワールシュタットの戦い

チンギス=ハンの孫にあたるバトゥは、ヨーロッパ方面へ進出します。

征服した国家&地域は、つぎのとおりです。

・キエフ公国(ロシア)
・ポーランド
・ハンガリー

チベット高原から西方にむかい、キエフ(ロシア)まで進出し、いまのポーランド&ハンガリー周辺まで到達します。

そこで対面したのがドイツ連合軍で、このときの激戦は「ワールシュタットの戦い」とよばれます。

ワールシュタットとは、ドイツ語で「死体の山」という意味です。死んだ兵士が山のように積みあがった、といわれるのでこうよばれます。

いっぱんに3万人以上の兵士が参加したといわれますが、最近の研究ではそこまで大規模だったのか疑問がもたれています。すこし話を大げさにしている可能性もあります。

その後、 バトゥはこの地にとどまりキプチャク=ハン国をたてます。

モンゴル帝国の歴史⑤ ─ フラグ

フラグ

同じくチンギス=ハンの孫にあたるフラグは、中東方面にむかいました。

イラン高原をおさめていたホラズム朝は、すでにチンギス=ハンのころに支配されていました。

フラグはそこからさらに兵をすすめ、バグダートに侵攻したうえでアッバース朝を滅ぼしイル=ハン国を建設します。

この時点で[イラン高原〜メソポタミア]までをおさめ、エジプトの手前まで領土を拡大します。

モンゴル帝国の歴史⑥ ─ フビライ

フビライ

フビライもまたチンギス=ハンの孫にあたり、彼は中国方面に進出します。

拠点のあった中国北部から南方にむけて兵をおくり、南宋の首都である臨安を占領したうえで、領土の大半を征服します。これにより、事実上、南宋は滅亡します。

中国本土からモンゴル高原一帯をおさめたフビライは大都(現 北京)に都をおきを建国します。

その後、

・高句麗(朝鮮)
・東南アジア
・日本

に遠征軍をおくり、ひきつづき征服活動を展開していきます。

モンゴル帝国の歴史⑦ ─ 分裂&衰退

モンゴル帝国は、宗家の元のもと、ユーラシア大陸全域にゆるやかな連合体をきずき、安定した統治をおこなっていました。

元朝成立以降、モンゴル系の各国が、それぞれの地域をおさめていました。

・チャガタイ=ハン国 → 中央アジア
・キプチャク=ハン国 → 南ロシア
・イル=ハン国 → イラン&イラク

モンゴル帝国は一族で構成されるため、各国のあいだで「領土争い」は起こりませんでした。

交易もおこなわれ、統治も安定します。

しかし約100年も過ぎると、じょじょにユーラシア諸国の統制がとれなくなり、各国内の権力争いは激しさを増していきます。

なかでも中軸をになう元王朝では宮廷争いがたびたびおこり、統治能力をだんだんと失っていきます。

ほかのモンゴル系国家も同じような状況におちいり、ユーラシア大陸全体の交易も途絶えていきます。

おわりに

モンゴル帝国の歴史をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・クリルタイ
・カラコルム
・千戸制
・大都
・元
重要人物
・チンギス=ハン
・オゴタイ
・フビライ
ポイント
・チンギス=ハンの時代に千戸制のもと遊牧世界を支配し、オゴタイ&モンケ&フビライのころには農耕世界に進出し、ユーラシア大陸一帯をおさめた

この記事が、モンゴル帝国を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。