どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワードは?
・重要な人物は、だれ?
きょうは、この問いに答えていきます。
先に結論をいえば、つぎのとおり。
りきぞう
・大事なキーワードは、「ベルリン会議」「北緯38度線」「スプートニク=ショック」「公民権運動」「プラハの春」など
・重要な人物は、「トルーマン」「ケネディ」「」「ホー=チー=ミン」「ゴルバチョフ」など
ポイントは、つぎのとおり。
- ① ベルリンにおける対立
- ② 朝鮮戦争
- ③ キューバ危機
- ④ ベトナム戦争
- ⑤ 冷戦の終結
….
この記事では、つぎの本を参考にしました。
以下、目次にそって、みていきます。
戦後の歴史① ─ ベルリンにおける対立

資本主義陣営のアメリカ ─ 。
社会主義陣営のソ連 ─ 。
両国の対立は、まずは、ドイツの首都「ベルリン」でおこります。
戦後処理が決まった「ヤルタ協定」をふまえ、「ベルリン」は4分割されます。
そのうえで、イギリス・フランス・アメリカ・ソ連で、共同統治することになりました。
ただし、ベルリンまわり「東ドイツ」は、ソ連の領域でした。ベルリンだけが「隔離」された状態になります。
ベルリン全体が「社会主義陣営」に取りこまれないよう、アメリカが策を打ちます。
それは、イギリス・フランス・アメリカが統治する「西ベルリン」(=西側)に、独自通貨を発行する、というものです。
結果、つぎのような事態が発生します。
↓
・西側/東側で、通貨価値に差が生まれる
↓
・ソ連 → 東側を封鎖
↓
・西側 → 資源不足に
当時、ソ連よりもアメリカのほうが経済力がありました。
それより、通貨価値が上昇し、ベルリンの西側/東側で、お金の価値に〝ひらき〟が生じてしまいます。
あせったソ連は、ベルリン西側を取りかこみ、資源の供給をストップさせます。
その結果、西ベルリンは、深刻な〝モノ不足〟に陥ります。
ベルリン空輸
まわりすべてソ連に囲まれた「西ベルリン」 ─ 。
そこでアメリカは「奇策」に出ます。
全ベルリン市民(約200万人)の物資を、空から運ぶ、というものです。

西ベルリンの空港に、アメリカ軍を中心とした輸送機が、つぎつぎ降りたちました。
結果、西ベルリン市民は餓死することなく、約1年間たえることができました。
この作戦に、ほかの国々から非難をうけたソ連は、封鎖を解除するしかありませんでした。
「NATO」vs「ワルシャワ条約機構」
とはいえ、ベルリン封鎖をきっかけに、アメリカ/ソ連の対立は鮮明になります。
おたがいの動きを警戒した両国は、まわりの国々と軍事同盟・経済協定を結んでいきます。
・ソ連 → 経済組織「 COMECON」の設立
くわえて、国別に軍事同盟を結んでいきます。
アメリカは、つぎのとおり。
・オーストラリア → ANZUS(アンザツ)
・東南アジア諸国 → SEATO(シアトー)
ソ連は、つぎのとおり。
「雪解け」から「ベルリンの壁」建設
対立を深める、資本主義陣営/社会主義陣営でしたが、ソ連首相「スターリン」の死後、いったん〝歩みうより〟がおこります。
いわゆる「冷戦」の「雪解け」です。
とはいえ、アメリカ/ソ連の思わくとは別に、1度、資本主義/社会主義に分かれた国々が、うまく融合・調和するのは困難でした。
なかでも、ソ連&社会主義体制に不満をもっていた「ポーランド」「ベルギー」は深刻でした。
なんとか資本主義の世界に渡ろうと、社会主義の「東ベルリン」を経由して、「西ベルリン」に逃亡する人たちが増加します。
社会主義の崩壊を警戒をしたソ連は、東ベルリン側に、流出を防ぐための「壁」を建設します。
これが有名な「ベルリンの壁」です。
これにより、いったん「雪解け」をみせた、アメリカ/ソ連の対立は、ふたたび深まっていくことになります。
戦後の歴史② ─ 朝鮮戦争の勃発

いっぽうで、朝鮮半島でも、[アメリカ vs ソ連]の代理戦争が、おこなわれます。
戦後、朝鮮戦争では、[大韓民国 vs 北朝鮮]のあいだで対立が起きていました。
両国にたいして、
・ソ連 → 北朝鮮
といったかんじで、軍事支援をおこないます。
対立は激しくなり、戦争が起こります。
これを「朝鮮戦争」とよびます。(1950年)
きっかけは、北朝鮮による、韓国への侵攻でした。
それにより、韓国は、釜山付近まで後退します。
そこへ、アメリカが、韓国に国連軍を派遣 ─ 。
押されるかたちで、北朝鮮は、中国国境あたりまで後退します。
そのとき、同じ社会主義体制をとっていた中国が、義勇団を北朝鮮に派遣します。
休戦協定の成立 ─ 北緯38度線
その後、長期戦がつづくものの、結局、決着がつきません。
結果、北緯38度線で両軍が対峙したまま「休戦協定」が成立 ─ 。
現在も「休戦状態」のままです。
戦後の歴史③ ─ キューバ危機

歩み寄りを模索するアメリカ/ソ連 ─ 。
けれど、ひとつの出来事をきっかけに、ふたたび亀裂が生じます。
それは、
です。
宇宙開発の進歩を意味しますが、同時に、大陸間を飛ばせるミサイルを開発したことにもなります。
焦ったアメリカは、急ピッチで、防衛用のロケットを開発します。
しかし、ソ連のようにうまくいかず、失敗に終わります。
この時点で、軍事面で、ソ連のほうが優位に立つことになります。
一連のできごとを「スプートニク=ショック」とよびます。
キューバ危機
軍事開発で遅れをとるなか、今度は、アメリカの隣国「キューバ」で、社会主義革命がおこります。
主導者は、政治家「カストロ」と革命家「ゲバラ」 ─ 。
それまでキューバは、アメリカの属国でしたが、革命によって、「ソ連」側につくことになります。
すぐとなりに「社会主義国」が誕生したことで、アメリカには警戒感がひろがります。
すると案の定、ソ連の人たちが、キューバに入国して、ミサイル基地を建設しているのが発覚 ─ 。
情報を受けた、ケネディ大統領は、キューバの海上を封鎖して、ソ連の船が入港できない措置をとります。
そのうえで、海をはさんで、ソ連&キューバと臨戦態勢をとることに。
この時点で、すでに両国は「核兵器」を保有していました。
つまり、一歩まちがえば、「核戦争」へと発展しかねない状態です。
あとから振り返ると、世界にとって危機的な状況でした。
米ソデタント
けれど、ケネディ大統領と、ソ連首相「フルシチョフ」が、ひそかに電話会談をおこない、なんとか「全面戦争」は回避できました。
そして、全人類を絶滅しかねない出来事を教訓に、ふたたび〝歩みより〟の気運が高まります。
・核拡散防止条約
核兵器について、2つの条約をむすび、抑止&削減の方向へもっていこうとします。
それにともない、冷戦の終結にむけて、交渉をつづけることになりました。
このときの、アメリカ&ソ連の動きを、「米ソ・デタント」とよびます。
「デタント」とは、フランス語で「緊張緩和」という意味です。
戦後の歴史④ ─ ベトナム戦争の勃発

アメリカとソ連のあいだで「デタント」がすすむなか、今度は、ベトナムをめぐって、ふたたび争いが生じます。
きっかけは、ベトナム地域で、社会主義国が独立を宣言したことでした。
それまでベトナムは、帝国主義時代における「植民地政策」のなごりから、フランスが統治していました。
そこから、ホー=チー=ミン率いる「ベトナム民主共和国」が独立の声をあげました。
じつは、そのウラで、ソ連が支持&支援をおくっていました。
当然、資本主義陣営であるフランスは認めるはずありません。
そこで、戦争を起こしますが、あっさり負けてしまいます。
結果、ベトナム北部で、社会主義国「ベトナム民主共和国」を独立させてしまいました。
ゲリラ戦 vs 破壊兵器
この動きに警戒感を示したのが、アメリカでした。
社会主義の広がりをおそれ、独立を止めようと、やっきになります。
積極的に、軍隊をおくりこみ、独立勢力をおさえようとします ─ 。
「ベトナム戦争」に突入します。
当初は、軍事力で上回るアメリカが有利と思われていました。
しかし、ソ連の支援をうけたベトナム軍は、ゲリラ戦で対抗 ─ 。
密林に潜んで、背後からの攻撃をくりかえします。
手こずったアメリカ軍は、猛毒をふくんだ「枯葉剤」をまいて、森を消滅させる作戦に。
それでも、なかなか降伏しないベトナム軍 ─ 。戦争は、〝ドロ沼化〟していきます。
反戦運動の高まり
ベトナム戦争が長期化するなか、アメリカの攻撃が、映像を通して世界に伝わります。
当時、ちょうど各家庭に、テレビが普及しているころでした。
すると、〝生の戦争〟をみた市民から、アメリカの「枯葉剤攻撃」に非難が殺到します。
国際的な非難をあびることになります。
さらに、戦争費用の増大で、財政赤字がつづきます。
ベトナム戦争の継続が、疑問視されるように。
戦費もかさみ、ゲリラ戦に対抗できないアメリカは、軍隊を撤退 ─ 。
建国後はじめて、敗戦をきっすることになりました。
その後、ベトナムは、しばらく社会主義体制で、政治がおこなわれていきます。
公民権運動の広がり
しかし、軍が撤退したあとも、反戦運動のいきおいは止みませんでした。
同じ時期に生じた、黒人の「人種差別撤廃運動」とむすびついて、政府にたいする反対運動が広がります。
この時代の社会運動を、「公民権運動」とよびます。
キング牧師の熱弁・活動により、公民権がみなおされ、法律のうえで「人種差別」がなくなります。
同時に、アメリカの正義に〝陰り〟が見えはじめます。
ニクソンショック ─ 金ドルの交換停止
アメリカ政府の権威喪失は、国内だけ、国外にもおよびます。
それを象徴するように、ニクソン大統領は、金とドルの交換停止を宣言します。
それまで、ドルは世界の基軸通貨でした。海外における交易は、キホン、ドルで取引されていました。
それだけドルに「権威」「おもみ」があったからです。
しかし、「ドルは金と交換できない」と宣言したことで、ドルの価値=権威が、一気に下がりました。
以降、経済の面でも、アメリカの影響力は、じょじょに落ちていきます。
戦後の歴史⑤ ─ 冷戦の終結

チェコの民主化運動(=プラハの春)を、武力でつぶしたところから、ソ連の「正義」「権威」に〝ほころび〟が生じてきます。
じょじょに、社会主義体制、共産党支配へ非難も高まり、最終的には、ソ連はつぶれます。
年代としては、1970年代〜1990年代にあたります。
以下、
- プラハの春
- 冷戦終結宣言
- 宣言の影響
のポイントにそって、みていきます。
プラハの春
「キューバ危機」以降、核戦争を避けるため、アメリカ/ソ連は、歩みよりをみせていました(=米ソ・デタント)。
そのなか、1968年、ソ連がおさめる「チェコスロバキア」で、民主化運動がおこります。
主導者は、チェコ・第一書記「ドプチェク」─ 。
かれは、ソ連からの独立を宣言し、民主化運動を展開します。
これをプラハの春のよびます。
たいして、ロシアは、ソ連の軍事組織である、「ワルシャワ条約機構」の軍隊を、チェコに派遣して、鎮圧に乗りだします。
しかし、独立運動をおこす市民に、銃が向けられ、戦車が突入する映像が、テレビをつうじて世界中に流れます。
すると、ソ連軍の武力鎮圧に、非難が殺到 ─ 。
結果、「プラハの春」のつぶされましたが、かわりに、ソ連の正義・権威・影響力が、落ちることになります。
さらに、社会主義のもとでの経済も不振がつづき、人びとの暮らしは、じょじょに貧しくなっていきます。
冷戦終結宣言
そんなとき、ソ連(現:ウクライナ地域)で、原発事故がおこります。
有名な「チェルノブイリ原発事故」ですが、ソ連の上層部は、当初、放射能が拡散しているにもかかわらず、事故を隠蔽しようとしました。
このふるまいに、おとなりのヨーロッパ諸国を中心に、非難が殺到 ─ 。
さらに当時、共産党内部でも、ソ連・書記長「ゴルバチョフ」による「改革政策(=ペレストロイカ)」が提案されていました。
この事故をきっかけに、ペレストロイカは加速し、原発事故の情報公開を、積極的におこなうようになります。
原発事故へ対応をみてもわかるとおり、もはやソ連に、まともな統治能力は、そなわっていませんでした。
そこで、改革派のゴルバチョフ書記長は、「マルタ島」で、アメリカの「ブッシュ大統領」と会談 ─ 。
そのさい、世界にむけて「冷戦終結宣言」を発表します。
ここにカタチのうえで、第二次大戦後につづいた「冷戦体制」が崩壊します。
宣言の影響
宣言がなされると、それまでソ連の統治下にあった「東欧諸国」が、つぎつぎに独立運動をおこします。
国別では、以下のとおり。
・ルーマニア
・ブルガリア
・チェコスロバキア
結果、どの国でも、共産党政権は崩壊し、社会主義にかわり、資本主義&民主主義のしくみが導入されることになります。
いっぽう、ソ連国内でも、共産党幹部がクーデターをおこし、改革派のゴルバチョフは、一時期、軟禁状態にします。
しかし、すぐさま、ロシア共和国「エリツィン大統領」が鎮圧 ─ 。
救出・解放されたゴルバチョフは、ソ連・大統領を辞職し、ソ連の解体を決めます。
ここに、約100年つづいた「ソ連」は崩壊することになりました。
まとめ
まとめると、
りきぞう
・大事なキーワードは、「ベルリン会議」「北緯38度線」「スプートニク=ショック」「公民権運動」「プラハの春」など
・重要な人物は、「トルーマン」「ケネディ」「」「ホー=チー=ミン」「ゴルバチョフ」など
といったかんじ。
この記事が、「第二次大戦後の歴史を知りたい人」の参考になれば、うれしいです。
ではまた〜。