【図解】ヒュームの思想&名言 ─ 「経験論」「知覚の束」

どうも、りきぞうです。

大学のころから、哲学に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・哲学書にあたってきました。

ヒュームの哲学にも、ふれてきました。

同じように、知りたいなぁと思っている人もいるかと。

とはいえ、

ヒュームはどんな人?
ヒューム哲学のポイントは?
かれの残した名言は?

─ こんな悩み&疑問をいだく人も多いはず。

そこで、この記事では、ヒュームの考えをみていきたいと思います。

先に結論をいうと、つぎのとおり。

りきぞう

ヒュームは、近代ヨーロッパの哲学者
「知覚の束」「因果関係への疑い」をキーワードに、独自の哲学を展開した
「習慣は、反省するいとまも与えず作用する」などの名言を残している

以下、目次にそって、[著者 → ポイント → 名言]の順でみていきます。

ちなみに、参考にしたヒュームの本は、こちら。

引用ページも、本書によります。

著者

ヒュームは、イギリス人で、1711年〜1776年に生きた人です。

歴史学者、政治哲学者でもあります。

主著『人間本性論』は、ヒューム初期の作品です。

テーマは、知性・感情・道徳の3点。

当初は、政治・文芸批評まで盛りこむ予定でしたが、出版利益の都合でカットされました。

けれど、「徹底した経験論」「因果関係への疑い」など、その後の認識論に、大きな影響をあたえました。

ヒュームの著書により、カントが「独断のまどろみ」から解放されたはなしは、有名ですね。

ポイント ─ 「観念連合」「知覚の束」「因果関係」

主著『人間本性論(人性論)』にしぼって、ヒュームの思想をみていきます。

ポイントは、「観念連合」「知覚の束」「因果関係への疑い」です。

カンケツにまとめると、つぎのとおり。

観念連合

人間が知覚する対象は、

・印象(impression)
・観念(idea)

の2種類。

「印象」とは、外からの刺激によってもたらされるイメージのこと。

(例:このコーヒーはニガい)。

印象は、感覚器官によってもたらされるので疑いにくい。

いっぽう「観念」は、なくなった印象を、想起することであらわれるイメージをさす。

(例:あのコーヒーは、ニガかった)。

観念は、じかに感覚器官がもたらすものではないので、真偽があやふや。

人間の知は、印象と観念を結合&加工することで形成される。

結合&加工のうらには、「想像する」という機能が、はたらいてる。

この機能の原動力が「観念連合」である。

「観念連合」とは、ある観念が、しぜんとべつの観念を想起させる心理現象をさす。

(例:コーヒはニガい → ピーマンもニガい)。

知覚の束

以上の認識論をふまえると、ひとりひとりの「私」は、どのように捉えることができるのか。

みたとおり、確かだといえるのは、「ニガい」といった「感覚」のみ。

熱い・黒い・ニガいなど、五感による「知覚」しか、確かなものはない。

そのため、ひとりひとりの「私」とは、感覚の集まりにすぎない。

つまり人間とは「知覚の束」といえる。

因果関係への疑い

知覚と経験を重視した場合、「因果関係」はどうなるのか。

たとえば、コーヒーを飲んで「ニガい」と感じる。

日をおいて、飲んでも「ニガい」と感じる。

それにより、[コーヒー → ニガい]という因果関係が成立する。

しかし、世の中には「あまいコーヒー」が存在するかもしれない。

ここからわかるとおり、因果関係は、経験による思い込みにすぎない。

くりかえし飲むことで、「コーヒー → ニガい」という因果関係が、できあがる。

因果関係とは、経験・習慣がもたらすものである。

ひとは、純粋で客観的な因果関係を、認識することはできない。

ひとこと

・いっさいは知覚であるとして、それ以外、人間には与えられていない
・あらゆる対象は知覚をもとにした確信である

この前提のもと、認識論を展開していきます。

語り口はむずかしいです。

けれど、ふだんわたしたちが感じていることに一致しているので、意味が取りやすいです。

いっぽう、知覚をこえて、ものごとの原因をつきつめようとするのは、独断論におちいるため、しりぞけます。

この考えは、のちにカントを「独断のまどろみ」から目覚めさせます。

個人的には、ヒュームの認識論は、これからもっとも注目あびるような気がします。

名言

つぎに、ヒュームの名言をあげていきます。

私=知覚の束

〔……〕わたし自身とよぶものに、もっとも奥深く入り込んでも、わたしが出会うのは、いつも、熱さや冷たさ、明るさや暗さ、愛や憎しみ、快や苦といった、ある特殊な知覚である。どんなときでも、知覚なしにわたし自身をとらえることはけっしてできず、また知覚以外のなにかに気づくことはありえない。たとえば〔……〕もし死によって、わたしのすべての知覚が取り去られれば、〔……〕考えることも、感じることことも、見ることも、愛することも、憎むこともできないとすれば、わたしはまったく無に帰するだろう。(p.109)

─ 3章 46節

「知覚の束」について、このように表現しました。

感覚・知覚・経験を徹底した結果、「わたしという存在」も、知覚の集まりにすぎない、ととらえます。

聞けば納得するはなしです。

けれど、「人間の生死」にかかわることだと、どうでしょう。

知覚がなくなるため、死んだ人間は、無に帰し、いっさい存在しなくなります。

死後の世界も、霊魂も、ご先祖様も、いっさい存在しないわけです。

語り口は柔らかいですが、ヒュームの哲学は、かなり〝過激〟だとわかります。

習慣の重視

〔……〕新たに推論、もしくは、断定をすこしもまじえないで、過去のくりかえしから生じるものを、われわれはすべて「習慣」とよぶ。そこで、ある現在の印象にともなっておこる信念は、もっぽらこの習慣という起原に起因することを、たしかな真理として定めてもよかろう。(p.66)

─ 3章 6節

ポイントでみたとおり、ヒュームは、あらゆる因果関係は、経験がもたらすもの、と考えます。

そのさい重要となるのが、経験の積み重なりである「習慣」です。

『人性論』のあとの著書でも、この「習慣」を軸に、身のまわりのできごとを考察していきます。

その意味で、習慣を重視する点では、モンテーニュ or パスカルなど、「モラリスト」の思想家にちかいような気がします。

〔……〕原因の結果についてのすべての判断が依存する過去の経験は、気づかないくらい、目立たないしかたで心に作用し、ある程度までは、われわれに知られないでいることさえありうる〔……〕。習慣は、反省するいとまも与えず作用する。(p.67)

─ 3章 6節

懐疑論の先には?

すべてなにごとかを推論し、信じるものはたしかに愚かであるが、〔……〕せめてわたしの愚かさを、自然で快適なものにしたい。(p.125)

─ 3章 46節

純粋で客観的な因果関係など、ひとの認識能力では、把握できない。

すべては、経験・習慣がもたらす思い込みにすぎない。

そう判断したヒュームは、〝袋小路〟におちいります。

知性で人間を考察している自分もまた、思い込みから判断することになるからです。

では、考えるのを、やめるべきか?

ヒュームは、ひとの判断は「思い込みである」ことを認めます。

自分の判断がまちがっていることを自覚しつつ、すこしでも人間の自然本性にあわせた考えを提示しよう、とします。

これこそが、哲学者の態度だと。

なかなか苦しい立場です。

けれど、懐疑論の果てには、このような〝開きなおり〟しかありません。

その後もヒュームは、みずからのあやまりを自覚しつつ、政治・経済・文化など、身のまわりのできごとについて、考察を重ねていきました。

このような態度は、とても好感がもてるんじゃないでしょうか。

真の懐疑家は、〔……〕自分の哲学的な懐疑についても内気であり、ひとりでに生じる無邪気な満足を、確信のためにも、懐疑のためにも、拒んだりはしないだろう。(p.128)

─ 3章 46節

まとめ

まとめると、

りきぞう

ヒュームは、近代ヨーロッパの哲学者
「知覚の束」「因果関係への疑い」をキーワードに、独自の哲学を展開した
「習慣は、反省するいとまも与えず作用する」などの名言を残している

ぜひ、ヒュームの哲学を知るうえで、参考にしてみてください。

ではまた〜。