どうも、りきぞうです。
大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。
社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。
働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。
働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。
・深くものごとを考えられる
こういう人たちは、キホン、教養を身につけています。
教養とは、なにか ─ それは、歴史と古典です。
なかでも、哲学の古典は、王道といえます。
わたしも、計500冊以上、読んできました。
そのなかで、きょうは、
を紹介していきます。
目次
セネカ『人生の短さについて』の基本
著者
セネカは、古代ローマ時代の人物。
ローマ帝国の政治家であると同時に、ローマ哲学の土台を築いた人でもあります。
かれの生涯をみることで、古代ローマ思想のキホンを理解できます。
ギリシャの都市国家が衰退したあと、ヨーロッパの覇権は、ローマ帝国に移りました。
国が繁栄すれば、文化・芸術・学問も、栄えます
この時代、ギリシャ哲学を受けつぐかたちで、ローマ哲学が深化してきました。
それに貢献したのが、セネカでした。
著書
主著の一覧は、こんなかんじ。
・『人生の短さについて』
・『寛容について』
なかでも、本書『人生の短さについて』は、いまでもたくさんの人たちに読まれています。
身近なテーマで、議論も実践的 ─ 。
読めば、納得し、感銘を受けるはずです。
セネカ『人生の短さについて』の概要
なぜ人生は、短く感じるのか ─ これがテーマです。
作品のスタイルですが、セネカの親戚「パウリヌス」に宛てたメッセージという設定で書かれています。
読み手は、パウリヌスの立場になり、セネカのアドバイスを聞くかたちになります。
ムズかしい言葉もつかわず、文体もキビキビしていて、明確 ─ 。
かなり読みやすいです。
目次
目次はありませんが、「小見出し」がついてます。
こんなかんじです。(※ 便宜上、番号は、わたしがつけました)
2 閑暇を希求した三人の人物の話
3 多忙な人間は、どのように人生を浪費しているか
4 人生を長くする時間の使い方 ─ 未来に頼らず、現在を逃さず、過去と向き合う
5 まがいものの閑暇を生きる人たち
6 真の閑暇は、過去の哲人に学び、英知を求める生活の中にある
7 時間に向き合えない人の人生は短く、不安に満ちている
8 パウリヌスへの助言 ─ 多忙な生活から離れ、ほんとうの人生を生きなさい
1で、人生が短くなってしまう理由を述べます。
人生を満たすには、多忙を避けつつ、「閑暇(かんか)」=「ゆとり」を確保することを、すすめます。
2〜5で、「多忙に陥った人」「まちがった閑暇をおこなう人」など、具体例を示します。
6〜7で、閑暇の味じわい方として、「過去の作品」(=知)にふれるのが、もっとも適してるとアドバイスします。
8で、まとめに入ります。
分量も少なく、2時間くらいあれば、さらっと読めてしまいます。
とはいえ、内容はかなり充実しています。
セネカ『人生の短さについて』で気になったトコ
以下、気になったトコをみていきます。
なぜ人生は短いのか? → 時間を浪費しているから
そもそも、なぜ人生は短いのか ─ 。
もっといえば、なぜ短いと感じてしまうのか ─ 。
カンタンにいえば、人生を浪費してからです。
じつは、人生はとても長い。いまの平均寿命でいえば「約80年」あります。
冷静にみれば、かなりの長さです。なのに、過ぎさってしまうと、短く感じる。
その理由は、時間をムダに使ったからです。
なんでもそうですが、テキトーにおこなう時間は、またたく間にすぎていきます。
「どうでもいい、おしゃべり」、「くだらない飲み会」は、時間がすぎるのは、はやいですよね。
人生全体も、同じことです。
人は「時間」の価値を自覚していない
では、なぜ人は、時間をムダに使ってしまうのか。
それは、そもそも、時間の価値を自覚していないからです。
人は、お金を出すことには〝シブる〟のに、時間のほうは、あっさり差し出してしまう ─ 。
コレなんかは、時間に価値をおいてない証拠です。
わたしはいつも驚いて見ているのだが、だれかが時間をくださいとお願いすると、求められたほうは、いとも簡単に与えてしまう。どちらも、時間が求められた理由は気にするくせに、時間そのもののことは気にしない。
(no.328)
じゃあ、なぜ、あっさり、あげてしまうのか ─ 。
それは、時間が目に見えず、つかみにくいから。
たとえば、モノには実体がありますから、放れた時点で、もったいないと思います。
しかし、時間に実体はありません。他人にあげても、ムダな感覚もなく、気づかない。
ここに要因があります。
彼らがそんな間違いを犯すのは、時間が形を持たず、目に見えないからだ。だから、時間はとても安く見積もられている。いな、それどころか、ほぼ無価値なものとされているのだ。
(no.331)
…
なので、人生の短さを回避するには、まずは時間の価値を自覚する ─ 。
そのうえで、時間の浪費しないことが大切。
たとえば、ムダな経験・行動は、避けるなど。
そして、多忙に陥らず、「閑暇=ゆとり」を確保するのが大切です。
そもそも、ゆとりなくして、人生を満たすのは、困難だからです。
閑暇のなかで、知を求める
では、閑暇=ゆとりある時間のなかで、 なにをすべきか ─ 。
それは、知を味わうこと。
わかりやすくいえば、むかしの作品にふれたり、歴史を知ることです。
というより、知を味わうことなくして、閑暇(=ゆとりのある時間)は存在しません。
すべての人間の中で、閑暇な人といえるのは、英知を手にするために時間を使う人だけだ。そのような人だけが、生きているといえる。
(no.579)
では、なぜ、古典を読んだり、過去のできごとを把握するのが、良いのか。
その理由は、
です。
べつの言い方をすれば、自分が生きる時代に、ほかの時代を付け加えることができるからです。
〔……〕自分の人生を上手に管理できるだけでなく、自分の時代に、すべての時代を付け加えることができるからだ。
(no.581)
われわれに閉ざされた時代などない。われわれは、すべての時代に近づくことを許されている。われわれは大きな心で、人間の弱点である視野の狭さを克服しようとするだけでよい。そうすれば、広大な時間が目の前に広がり、われわれはそこを訪ね歩いていくことができるのである。
(no.586)
それは、過去の偉人たちの意見に感銘を受けるのもいい。はんたいに、議論を〝ふっかける〟のもいい。
とにかく、目のまえの〝こまごましたこと〟を避けて、より価値のある知識や経験を、味わうことができるわけです。
ソクラテスと共に、議論することが許されている。カルネアデスと共に、懐疑することが許されている。エピクロスと共に、安らぐことが許されている。ストア派の哲人たちと共に、人間の性に打ち勝つことが許されている。キュニコス派の哲人たちと共に、人間の性から自由になることが許されている。
(no.589)
自然は、われわれに、すべての時代と交流することを許してくれる。ならば、われわれは、この短く 儚い時間のうつろいから離れよう。そして、全霊をかたむけて、過去という時間に向き合うのだ。過去は無限で永遠であり、われわれよりも優れた人たちと過ごすことのできる時間なのだ。
(no.595)
これにより、みずからの人生を、より充実することができるわけです。
もちろん、仕事や旅行など、いまの行動だけでも、人生を満たすことはできます。
けれど、自分の時代だけでは、人生の価値を知るのは、ムズかしい ─ 。
せっかく、むかしの知識・経験にアクセスする権利があるわけだから、利用しないのは、もったいない。
時間のゆとりを確保したら、まっさきに、古典・歴史にふれるのが、良い。
そうすれば、みずからの時代のほかの、べつの時代を付け加えることができます。
結果、人生を充実させ、長いものに変えるわけです。
時が過ぎ去った。賢者はそれを記憶の中に包み込む。〔……〕賢者は、すべての時をひとつにつなげる。そうやって、自分の人生を長くするのである。
(no.647)
おわりに
トシを重ねるほど、「人生の短さ」を感じます。
本書では、その理由を述べたあとで、より実践的な方法をアドバイスしてくれています。
それは、歴史を知り、偉人たちの知識・知恵にふれることです。
いかにも、哲学者らしい意見ですが、あながち間違っているとは思いません。
じぶんの行動・経験だけでは、情報の価値として、たかが知れているからです。
せっかく、歴史・古典作品にアクセスできるわけですから、利用しない手はありません。
それを、約2000年前に生きた、セネカが述べています。
いまのわたしたちが、かれの助言を、やらない理由はありません。
というわけで、生きるうえで、かなり実践的なアドバイスが、つづられています。
読めば、感銘を受けるトコがあるはず。
よければ、チェックしてみてください。
ではまた〜。


