「家事の分担」について

どうも、りきぞうです。

きょうは、こちらのニュースをうけて、「家事の分担」について、考えてみました。

※ 本文の引用は、最下部の文献によります。




「家事分担」にかんする調査をうけて、学者さんが論評をおこなっている。

評論の内容はさておき、この調査をみて、じゃっかん違和感がのこる。

それは、家事負担の数値が、回答者の「主観」によっているトコ。

「パートナーとのカンケーにおいて、あなたの家事の割合は、どれくらいですか?」とたずねている点。

ショージキなところ、こんな質問を受けたら、誰だって「負担分」を多く見積もるのではないだろうか。

くわえて、回答しているのが、すべて女性というところも、「うーむ。。」

男性に回答権は、なかったのだろうか。

とはいえ「主観」ではなく、家事の分担について〝ちゃんとした基準〟は、あるのだろうか?

ものさしは、あるのだろうか?

「作業時間かなぁ?」と思ったが、これも違う気がする。

たしかに、いっぽうが「1時間」、もういっぽうが「3時間」なら、作業時間を軸に、格差問題に取りくむべきであろう。

「あたしばっかり、家事をやっている」
「おれだって、時間を割いて、やっているんだ」

などなど、ののしり合い(?)ながら、妥協点をさぐったほうがいい。

けれど、いっぽうは「お風呂そうじ」をさらりとこなし、もういっぽうは「ゼーゼー」言いながら掃除機をかけている場合 ─ 。

このとき、作業時間が同じだったとしても、家事負担は「同等」と言えるだろうか?

さきのアンケートを受けたとき、「家事の負担は、同じです」と答えるだろうか?

ここから分かるとおり、家事においては、所要時間以上に、家事の種類が問題になる。

なかみが大切なのだ。




似た者どうしのカップルだったとしても、性格・資質のちがいから、得意とする家事は異なる。

あなたが「食器の洗いもの」を嫌っていても、パートナーは、さっさと水切りカゴにお皿をならべていたりする。

何事も好みは十人十色と言うけれど、騒音にたいする好みも人さまざまである。騒音がまったく気にならないか、ものすごく苦痛か、それは騒音の量ではなく、騒音の種類によって決まるのである(p.220)

─ ジェイン・オースティン『説得』14章

わたしにかんしては、料理も掃除もだいたい平気だが、窓枠のヨゴレをとる作業だけは、苦痛でしかたない。

あの、すみっこにコビりついたホコリは、どうしたら取れるのか?

また、

・せんたくものを干す
・せんたくものをたたむ

のは、苦行のなにものでもない。

これはみなさんも同意してくれるはずで、「キライな家事ランキング」でも集計すれば、1位・2位を独占するだろう。

政府は、各家庭に1台「ドラム式洗濯機」を支給して、せんたくものの苦役から、国民を解放すべきでは、ないだろうか。

たしかに 「せんたくものを干す&たたむ」のように、だれもがイヤがる家事はあるだろうが、ほかの作業については、わりと千差万別だったりする。

人によって、苦痛だったり、それほどでもなかったりする。




では、ストレスのある家事/ない家事の違いは、どこにあるのか?

ひとつは、さきにあげた、個人の性格・資質による違い。

そしてもうひとつは、習慣の違いだ。

じつのところ、「やらねば(have to)」と感じるものは、どんな家事でもストレスになる。

いっぽうで、「やってあたりまえ(be nature to)」と感じる家事は、負担が少ない

これは家事にかぎらず、身のまわりの作業でも同じだろう。

「歯みがき」を負担に感じる人は少ない。

けれどよくよく考えてみれば、こんなわずらわしいことはない。

朝晩まいにち洗面台に立って、歯ブラシを手にもち、チューブをつけ、3分〜5分、キュキュウみがく。

さらにウガいをして、(わたしの場合)フロスを手にとり、1本1本の歯のすきまにひっかける。

済んだら、またまた口をゆすいで、ようやくコトが終わる。

これを365日、休むことなく、くりかえす。

こんなメンドーなことを、どうしてできるかといえば、一連の作業が「have to」ではなく、「be nature to」になっているため

「あまりまえにやっている」からだ。

つまり家事においても、[have to → be nature to]へもっていけるなら、ストレスなく、こなしていける。

習慣は手ごわいが、改善できるので、これを利用するのだ。

どちらに行こうと思ったって、このわたしは、習慣という柵のどれかをこじ開けなくてはいけない。(no.1725)

─ モンテーニュ『エセー2』35章

そのためにはまず、ふたりで相談のうえ、お互いに担当する家事をふりわけるのが、いいだろう。

そして決まったら、しばらくのあいだ、四の五の言わずに、もくもくと作業にあたる。

すると、あら不思議で、「3ヶ月」も同じことをしていれば、やっていることが「あたりまえ」にかわる。

その結果、それぞれの家事にたいするストレスが減り、相手にグチを言う機会がなくなっていく。

こんなふうに、おたがいの習慣特性を利用し家事にあたれば、ちょっとは快適に暮らせるのでは、ないだろうか。




そもそも家事は、古代ギリシャでは、奴隷のすることだった。

自分の命(身体的生存)ばかり気にして、仲間のことは気にかけない。

公共(ポリス)への貢献度が低いとされ、家事は〝ワンランク下〟の行為とみなされていた。

「時給に換算すると、家事労働はいくら」など、どんなにリクツをこねようと、むかしから〝家庭内の雑用〟に、価値なんてなかった。

なので、家事とは「たかが知れているんだ」とアタマにいれたうえで、できるかぎり減らす努力をしたほうが、いい。

※ ちなみに、ギリシャの時代状況は、哲学者「アーレント」が『人間の条件』で、書いていたりする。

いっぽうで時代がくだり、古代ローマに生きたセネカは、政治・社会での活躍をいいことに、身のまわりのことを、すべて奴隷におしつける連中をバカにした。

奴隷あっての主人であって、奴隷なくしてご主人さまは、なにもできない、と。

その人は、(奴隷たちの) 腕に担がれて浴室から運び出され、セラの椅子の上に置かれると、こう尋ねたのだそうだ。「わたしはもう座ったか」と。(no.484)

─ セネカ『人生の短さについて』5

このようにセネカは、どんなに恵まれた環境であっても、みずからの習慣に目をむけ、便利なツール(=奴隷)には、〝ほどほどの距離〟を保つよう、すすめた。

このアドバイスは、家事において、道具&習慣を、どうつかいこなすかを考えるうえで、参考になる。

「ドラム式洗濯機」「食器洗い機」など〝現代の奴隷〟を、適度につかいこなす。

そのうえで、ひとの習慣能力を活用し、お互いにストレスなく、家事にあたる

道具をつかいつつも、習慣に配慮しながら、生活を快適にしていく ─ このような態度でのぞめば、夫婦における内乱も、それほど起きないのでは、ないだろうか?




では、お元気で。