どうも、りきぞうです。
きょうは、〝旅行ぎらい〟の視点から、旅について考えてみました。
※ 本文の引用は、最下部の文献によります。
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「旅行好き」という人たちがいる。
ブログ or SNSをひらけば、かれら/かのじょたちのキラキラ・ウキウキした旅行記であふれている。
そんな方々にむけて、テレビや雑誌も、年がら年中、広告をうっている。
けれど世の中には、わたしのような〝旅行ぎらい〟も、一定数いる。
残念ながら「旅行好き」の影にかくれて、「旅ぎらい」の発言権は、すくない。
そこで、この機会に、旅行ぎらいの思う旅の意義・効用について考えてみよう、と思う。
旅行ぎらいとはいえ、旅の経験がまったくないわけではない。
国内・海外と、それなりに足を伸ばしてきた。
じょじょに「旅行ぎらいの度合い」が増してきたかんじ。
そんなわたしが、旅行の意義・目的を、3つあげる。
そのひとつひとつにたいして、納得できる/できない理由&エピソードをあげながら、旅とは何かについて、考えてみる。
では、さっそく。
わたしの経験からいえば、旅の目的は、3つある。
- ① 気分転換
- ② 新たな発見
- ③ 聖地巡礼による満足
ひとつひとつみていこう。
目次
① 気分転換
旅の理由について、まっさきにあがるのは、これ。
リフレッシュするために、電車・車・バスに乗って、旅に出る。
きわめて真っ当な理由。
わたしも仕事に疲れたら、気分転換のために、ぷらりと地方などへ足をはこぶ。
が。
さいきんひしひし思うのは、気分転換のために、電車などに乗り、わざわざ長距離を移動する必要があるのか? という点。
「リフレッシュしたい」だけなら、いろいろほかに、やり方があるんじゃないか。
たとえば先日、電車で10分くらいの温泉施設へ行ってきた。
そこでは、お風呂はもちろん、マンガも読み放題だった。
午前中にカンタンな仕事をすませ、昼11時から夜7時まで、なつかしの『ナルト』を読んでいた(やっぱり、いい作品)。
なんと、わたしはこれで気分がリフレッシュしてしまった。
つかったお金は、交通費をあわせて3000円以下。
時間も「まる1日」とかからない。
そう、気分転換だけなら、これで十分なのだ。
というわけで、旅行の理由について「気分転換」というのは、〝眉つば〟。
そもそも遠出の旅行は、リフレッシュよりも、疲れをのこす。
くわえて、いまのような「コロナ禍」なら、施設を歩くときや、食事の前後にも、マスクをつけなければならず、解放感とは、ほど遠い。
気分転換を、旅行の理由にあげるのは、わたしにかんしては、あたらない。
② 新たな発見
こちらも、旅行の理由にあげる人は多い。
たしかに、知らぬ場所へ行き、
・胸を打つ建物 or 風景をながめる
のは、旅の醍醐味だろう。
が。
そこで得た知識&体験とやらは、あとあと、どこまで、ひとの記憶・印象にのこるか。
あなたの人生を、180度かえてしまうほど、ショッキングなできごとだろうか。
ドラマではよく見るが、わたしのまわりに、旅1つで、のちのちの人生が変わった人など、まず見かけない。
地道な活動をくりかえし、人生を切り開いていく人ばかりだ。
「新しい発見のために旅をする」という人は、知的好奇心をいたずらに遊び、その場その場の快楽にふけっているにすぎない。
「あれも珍しい、これも珍しい」と首をブンブンふりまわし、視点も定めず、なにも考えない。
目標の定まらない魂は、さまようしかない。なぜなら、「どこにでもいるということは、どこにもいないこと」という諺のとおりなのだから。(no.853)
─ モンテーニュ『エセー1』第1巻 8章
一時的には、なにかを発見するだろうが、ほんとうに大切なものは、見つからない。
そういえば、ソクラテスは、ギリシャじゅう歩き回ったあげく、「けっきょく、なにも変わりませんでした」とガッカリする友人にたいして、
と、あきれかえったという。(ディオゲネス『哲学者列伝』第2巻5章「ソクラテス」)
その意味で、わたしの友人は正しかった。
大学時代に彼女は、カレシといっしょに旅行するといって、東京の大学に通っているにもかかわらず、水道橋にある『東京ドーム』に泊まり、〝旅に出た〟。
ウイスキーを飲みながら、部屋でゆっくり過ごすのが、旅行の目的だと言う。
当時は理解に苦しんだが、いまにして思えば、カレシとじっくり語りあうことで、彼女は相手のちがう一面を発見したのだろう。
わざわざ遠出せずとも、見つけたいものを、見つけたのだ。
なので、旅行の理由に、「新たな発見」をあげるのは、こちらも〝眉つば〟。
トシを重ね「知的欲求のなんたるか」を知るいまでは、新たな知を目的とした旅は、どうもしっくりこない。
③ 聖地巡礼による満足
さいごに聖地巡礼。
ショージキなところ、旅行の目的のなかでは、イチバンこれが納得できる。
聖地巡礼とは、本や映像コンテンツで知的好奇心を満たし、そのうえであらためて現地におもむく行為 ─ 。
旅行先で、新しいものを見つけるわけではなく、すでに大切なものを見つけ、その喜びを、よりいっそうふくらますために、足をはこぶ。
すでに満ち足りた状態で旅に出ているため、多少トラブルがあっても、「いい経験をしたな」と思うだけで、たいして凹まない。
たとえ、本や映画でみた景色が広がっていたにせよ、そのズレがまた違った知的好奇心を刺激する。
その持続のなんと短いことか。ひとつの響きが私の耳に届いたかと思うと、もうそれは別の響きにとって替られている。(p.61)
─ プルースト『失われた時を求めて』第2編 第1部
聖地巡礼を目的にする旅は、期待はずれ/期待どおり ─ どちらに転ころんでもよく、どんなコトに出逢っても、それなりに満足できる。
わたし自身も、大学時代に、映画『耳をすませば』の現地を訪れたとき、これと同じ体験をした。
家から近く、旅行とはいえない距離だが、いまでも忘れられない〝旅〟になっている。
また、歴史をふりかえれば、十字軍に参加した人びとは、聖書だけで知ったエルサレム土地を、この目で見れると思って、たいへんワクワクしたはず。
まして、その聖地が、〝異端の〟イスラム教徒に乗っ取られて、倒すことを目的としていれば、その熱狂は、なおさら。
なので今後、聖地巡礼を目的とした旅なら、〝旅行ぎらい〟のわたしでも、ぜひ足をはこんでみたい。
たとえば、
・『ドン・キホーテ』『失われた時を求めて』で描かれた土地
など、本で読み、すでに知的好奇心が満足している状態なら、わざわざ飛行機に乗り、ふらりと訪ねてみたいと思う。
というわけで、〝旅行ぎらい〟なパートナー or 友人をもち、ひっぱり出そうとしている「旅行好き」の方々は、ぜひ「聖地巡礼」をテコに、日程を組んでみては、どうだろう。
かれ/かのじょが、本や映画で〝旅をした〟舞台を回れるとわかれば、なんとかついてきてくれるかもしれない。
…
では、お元気で。