「情報の節制」について

どうも、りきぞうです。

きょうは、「情報の節制」について考えてみました。

※ 本文の引用は、最下部の文献によります。

節制といえば、「食べ物の節制」だろう。

これについては、ダイエット本をはじめ、いくつもメディアで、さまざまな効果が語られている。

いっぽう見落としがちのが、「情報の節制」─ 。

「豊かな社会」は、モノだけではなく、情報をあふれさせた。

食べ物と同じく、無数のお知らせも、欲求に打ちかち、おさえなくてはならない。

じゃないと、食べすぎがカラダを壊すように、いきすぎた情報摂取は、あなたの判断力をヘトヘトにさせる。

多数の作家によって道に迷うより、少数の作家に身をまかせたほうが、はるかによい(no.2330)

─ セネカ『心の安定について』5




ふりかえれば、いまのように情報があふれる以前から、知識の取りすぎは、さまざまな史実&哲学者により、ケーコクされている。

古代アテネに侵攻し、占領に成功した遊牧民のトップは、部下に「あそこにある図書館も、焼き払いますか?」とたずねられたとき、

「あのままにしておけ。そのほうが、しばりつけておくには、好都合だ」

と、こたえた。

知識に溺れさせておいたほうが、下手にチカラをつけて反抗させるより支配しやすい、というのが、その理由だった。

いっぽう、哲学者の「ショーペンハウワー」は、「知は力なり」という格言をうけて、

「とんでもない。本の読みすぎは、バカになる。知識を頭に入れすぎたら、おのれの判断力が失われる」

と、注意をうながした。

情報の取りすぎは、取りくむべき課題を曇らせ、判断力を低下させる。

食べすぎにより、ほんとうに美味しいものを食べそこね、カラダを壊すのと、同じだ。




わたしも、安酒が悪酔いをもたらすのと同じく、惑わされないためにも、チープな情報は、取らないようにしている。

たとえば、

・有名人の結婚・不倫・離婚
・見知らぬ人たちの殺人・窃盗・横領
・縁のうすい方たちのご自慢……

たとえ〝口あたり〟がよくても、お手ごろな情報に、貴重な判断を使いたくはない。

また、こちらもダイエットと同じく、より効果を出したいなら、できるかぎり情報を遮断するしかない。

けれど情報の場合、起きていれば、しぜんとアタマに入ってきてしまう。

たとえ、ひとけのない森の中を歩いていても、鳥の鳴き声 or 木々の揺れうごきなど、さまざまな風景が、こちらを刺激する。

ガーエフ なんという奴だ、しょっちゅう人の前を、チラチラしおって(no.614)

チェーホフ『桜の園』2幕

ココが、「食べ物の節制/情報の節制」の違いだろう。

では、どうするか。

できることは、

・瞑想
・睡眠

の2つ。

瞑想は、さまざまな映像&想念が、アタマにうかぶが、コツをつかめば、それなりに情報を遮断できる(もちろん、ゼロではない)。

睡眠は、語らずとも分かる。

睡眠とは要するに、起きているときに摂取した情報を、処理・整理する行動をさす。

生きるうえで最適な判断ができるように、いる情報/いらない情報をふりわけている。

なにもしないことで、なにかしている。

情報を節制するうえでは、睡眠にまさる方法はなく、すこしでも判断力を優れたものしたいなら、ねむる以外にない。

というわけで、きょうも、夜ふかしせず、寝よう。

では、お元気で。