【書評】ギボン『ローマ帝国衰亡史[普及版]』感想&レビューです。

どうも、りきぞう(@rikizoamaya)です。

大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。

社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。

働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。

働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。

・できるなぁ
・発想がすごいなぁ

と、思う人は、キホン、教養を身につけています。

なかでも、重要なのは「世界史」です。

ここ数年、ビジネスマンの必須知識として「世界史」が注目をあつめています。

ネット時代をむかえ、グローバル化が加速しているからです。

とくに、ヨーロッパ史の流れは、おさえておく必要があります。

グローバル経済は、ヨーロッパから始まったからです。

ヨーロッパは、古代ギリシャ&ローマ文化を土台につくられています。

なので、古代ローマの流れ&特徴をつかんでおく必要があります。

そんなとき、つぎの本をみつけました。

著者は、18世紀・イギリスの歴史家です。

かれが記した『ローマ帝国衰亡史』は、歴史学では古典になっています。

とはいえ、文庫本にして「10冊」にも、のぼります。

読みとおすにも一苦労です(笑)

そこで、本書です。

この本は、ギボンの大著を「新書2冊分」に要約し、読みどころをピックアップしてくれています。

短時間で、古典の核心をつかめるのは、ありがたいですね。

ローマ史を理解するには、『ローマ帝国衰亡史』は、避けてとおれません。

ぜひチェックしておきたいものです。

ギボン『ローマ帝国衰亡史[普及版]』の概要

こまかい目次はありませんが、ギボン自身が、章ごとに、キーワードをあげています。

それをふまえると、全体の構成は、こんなかんじになっています。

第1章
・両アントニヌス帝時代における帝国の版図と軍事力

第2章 [98年〜180年]
・両アントニヌス帝治世における帝国の統一と繁栄 ─ ローマの司法権が及んだ地理的範囲

第3章 [180年~248年]
・コンモドゥス帝の残忍、愚行、殺戮
・近衛兵による後継皇帝ペルティナクスの殺害
・近衛兵によるディディウス・ユリアヌスへの帝国売り渡し
・セプティミウス・セウェルスの勝利と厳政
・カラカラ帝の暴政
・エルガバルス帝の愚行
・アレクサンデル・セウェルス帝の仁政
・帝国全土の騒擾と皇帝の相次ぐ交代
・フィリップスの帝位 簒奪 と大競技祭

第4章 [248年~285年]
・デキウス、ガルス、アエミリアヌス、ウァレリアヌスおよびガリエヌスの諸帝
・諸蛮族の大侵寇
・三十人の僭帝
・クラウディウス、アウレリアヌス両帝の治世と戦勝
・ゴート人の敗北
・アウレリアヌス帝死去後の束の間の平和
・タキトゥス帝、プロブス帝およびカルス帝父子たちの治世

第5章 [285年~313年]
・ディオクレティアヌス帝とその三僚帝(マクシミアヌス、ガレリウスおよびコンスタンティウス)の治世
・帝国全土における平和と秩序の回復
・ペルシャ戦役とその勝利および凱旋
・新たな統治体制
・ディオクレティアヌス、マクシミアヌス両帝の退位

第6章 [305年~330年]
・ディオクレティアヌス帝退位後の混乱
・コンスタンティウス(一世)帝の死
・コンスタンティヌスとマクセンティウスの登位
・同時六皇帝の在位
・マクシミアヌス帝とガレリウス帝の死
・マクセンティウス、リキニウス両帝にたいするコンスタンティヌス帝の勝利
・コンスタンティヌス帝による帝国の統一
・新帝都コンスタンティノポリスの建設

第7章 [キリスト教の発展]
・原始キリスト教徒の信仰、習慣など
・異端迫害
・アリウス派論争
・アタナシウス
・コンスタンティヌス帝、および、その子息帝治世下における帝国とキリスト教会の混乱
・異教に対する寛容

以上が、上巻です。

皇帝時代がスタートし、キリストの誕生&普及までを描きます。

つづいて、下巻です。

第8章 [360年~363年]
・ガリア軍団によるユリアヌスの皇帝推戴
・ユリアヌスの進撃と勝利
・コンスタンティウス(二世)帝の死
・ユリアヌス帝の民政
・ペルシャ戦役におけるユリアヌスの死
・後継者ヨウィアヌスの屈辱的和議によるローマ軍救出

第9章 [365年~398年]
・ゴート族のドナウ渡河
・ゴート戦争
・ウァレンス帝の敗死
・グラティアヌス帝、東の帝国をテオドシウスへ譲る
・テオドシウス帝の人物と勝利
・ゴート族の平和と定住
・正統派の勝利と異端派の消滅
・テオドシウス帝の二子間における帝国の最終分割

第10章 [398年~410年]
・ゴート族の反乱
・ゴート族のギリシア略奪
・将軍スティリコの活躍
・アラリックのイタリア侵入
・元老院や民衆の状況
・ゴート人による三度のローマ包囲とそれに続く略奪

第11章
・西ローマ帝国滅亡の概要

第12章 [東ローマ帝国の隆盛]
・ユスティニアヌス帝の治世
・皇妃テオドラ
・大競技場の党派とコンスタンティノポリスの騒擾

第13章 [イスラム勢力の台頭]
・モハメッドの生誕、性格、教義
・歴代カリフの栄華

第14章 [東ローマ帝国の滅亡]
・トルコ人によるコンスタンティノポリスの攻囲と最終的征服

終章(第15章)
・十五世紀にみられたローマの廃墟
・『ローマ帝国衰亡史』の結語

「背教者」で知られる「ユリアヌス帝」から「東ローマ帝国滅亡」までを描きます。

ちなみに、とうしょギボンは「西ローマ帝国滅亡」で締める予定だったそうです。

しかし執筆の余裕ができたことで、東ローマ帝国滅亡まで書くことにしたみたいですね。

というわけで、分量が多くなってしまったそうです。

ギボン『ローマ帝国衰亡史[普及版]』の詳細

以下、引用をあげつつ、気になったトコをみていきます。

ローマの繁栄&要因

ギボンは、ローマがもっとも繁栄し、平和だった時期を、

ドミティアヌス帝の死去〜コンモドゥス帝の即位

のあいだとしています。

いわゆる「五賢帝」の時代です。

この期間、ローマには政治面での混乱もなく、経済もうまくまわっていたとします。

いまもし世界史のなかで、どの時代がもっとも幸福で、かつまたもっとも繁栄を享受した時代であったかと問われたとすれば、それはドミティアヌス帝の死去からコンモドゥス帝の即位までの期間である、とだれもが 躊躇 なく答えるのではないだろうか。たしかに、この期間こそ、広大なローマ帝国が智徳の先導のもとに、絶対的権力によって治められた期間であったといってよい。(上巻・no.1064)

では、その要因は、何でしょうか。

当時の歴史家「ポリュビオス」など、さまざまな研究家が、発してきた問いです。

ギボンは、

民衆の願望と、帝国の繁栄が、一致していた点

をあげます。

これは、もともとのローマ市民だけではなく、侵略&征服された民衆もふくみます。

支配されたとはいえ、ローマに組みこまれることで、自身のメリットがありました。

これが、ローマが領土を拡大できた理由です。

ローマ帝国のばあいは趣が異なる。その治政下では、国民の臣従は自発的であり、しかも恒久的な性質のものであった。征服されたすべての民族が、ひとつの偉大な国民の中にとけ込み、独立への期待、いや、願望さえもなくし、自国の存在とローマの存在とをほとんど同一視するまでにいたっていた。(上巻・no.837)

この指摘で思い出すのは、わずか100年あまりで、ユーラシア大陸全土をおさめた「モンゴル帝国」です。

武力で侵略するいっぽう、いったん統治されると、民衆にとっては、経済面での恩恵がありました。

ローマ帝国も、侵略するときにはキビしく、いっぽうで、統治すれば、さまざまなメリットを提供したと予想されます。

衰退の要因 ① ─ 伝統の希薄化

では、ここから衰退の要因をみていきます。

ギボンは、できごとにそって、衰退の理由をあげていきます。

まずは、ローマの伝統が希薄化したことです。

時代がくだり、むかしの建物だったり、価値観が〝忘れ去られた〟こともあるでしょう。

しかし、それ以上に、領土が拡大することで、遠方地域に住む人が、都市「ローマ」に共感を感じられなくなったことが、大きく影響しています。

ローマという土地に、なんら愛着がない ─ 。

こんなキモチだと「ローマ帝国」を守ろうとする意識がうすらぐのも、当然です。

じっさいに、193年に即位した「セウェルス帝」は、都市「ローマ」を特別扱いしませんでした。

訳者は、「解説」で、こう述べます。

かれ自身北アフリカの出身でもあったためか、セウェルス帝はイタリア本土を特別視することもありませんでした。いずれにせよ、この時代になると、帝国全土が一様に考えられたことによって、帝座、帝都、イタリア本土の特権などに関する伝統的な価値観が薄らいで、ローマ帝国はその実体が根本的に変化しはじめます。そうした意味で、ギボンはこのセウェルス帝をローマ衰退の張本人であると指摘しています。(上巻・no.1603)

カタチにこだわらず、ちゃんと統治できれば良い、といったかんじです。

衰退の要因 ② ─ 「四帝分治制」の実施

つぎに、「四帝分治制」の実施です。

この制度は、ローマの領土を2つに分割し、それぞれに「正帝」「副帝」をおく、というもの。

ディオクレティアヌス帝が、はじめて導入した制度です。

もはや、1人の皇帝では、全ローマを統治できない〝あらわれ〟といえます。

もちろん、「五賢帝」時代、マルクス・アウレリウス・アントニウスのころに、「共同統治」が実施されています。

しかし、アウレリウス帝は、個人の私情から共同統治を導入しましたが、ディオクレティアヌス帝は、ローマ情勢からみて判断しました。

領土が広がりすぎたことで、「侵略者にたいする防衛」「民衆の不満を抑制」がムズかしくなります。

結果、しかたなく、共同統治(=四帝分治制)を導入するようになります。

〔……〕行為は同じであっても、その目的や動機となると、マルクス・アントニヌス帝とディオクレティアヌス帝との間には大きな違いがみられる。それは、前者が私情から放蕩息子に紫衣を譲ったことによって、国民の幸福を損ねたのにたいし、後者は個人的友人でもあり戦友でもあった人物を共同統治者としたことによって、東西両帝国の防衛をなし遂げたということである。(上巻・no.2341)

制度の実施により、一体感・統一感が失われ、ローマ帝国の半壊につながっていきます。

衰退の要因 ③ ─ ゴート族の反乱

さいごが、外国人の反乱です。

すでにローマ帝国内には、フクスウの外国人が滞在し、周辺地域で「蛮族」による侵入をおさえていました。

なかでも、ゴート族は強敵でした。

しかし、ローマ中心(=皇帝)の権威&権力が落ちるにつれて、ぎゃくに、ローマに圧力をくわえる「蛮族」に服従せざるをえなくなっていきます。

皇帝よりも、ゴート族の首長たちのほうが、地位も武力も〝うえ〟なわけです。

こうして、周辺地域の人たちは、皇帝のほうをふりむかず、辺境から、じょじょに半壊・衰退が始まっていくわけです。

いっぽうで、「蛮族でも、それなりに地位につけるんだ」と思う野心家が、地位をうばい、〝のし上がろう〟とします。

こうして、ローマの崩壊へとつながっていきます。

まとめると、全体をとおして、ギボンは、崩壊要因を3つあげています。

① 国民意識
② 制度
③ 外圧

です。

これらが合わさって、じょじょに、ローマ帝国は衰退していった、とみています。

繁栄が衰亡の原理を動かしはじめ、 衰微 の要因が征服の拡大とともにその数を増し、やがて時間や事件によって人工的な支柱がとり除かれるや、この途方もない構造物は、みずからの重みに耐えきれず倒壊したのだ。(下巻・no.1891)

そのいっぽうで、これだけ領土を拡大した国が、長くつづいたことにも驚いています。

「なぜ崩壊したのか」よりも、「なぜ、これほど長く存続したのか」を探求したほうが、今後の人たちにとって、有益となるだろう、と述べるくらいです。

ローマ帝国滅亡の過程は、しごく単純にして明らかである。むしろわれわれが驚きを禁じ得ないのは、何ゆえにかくも長く存続することができたのか、という点にある。(下巻・no.1893)

その意味でも、やはりローマの歴史は、人類にとって偉大なわけですね。

おわりに

さすが、歴史学の古典だけあって、内容は充実しています。

本書は、読みどころをピックアップしてくれて、たいへんありがたいです。

ローマ史を理解するには、『ローマ帝国衰亡史』は、避けてとおれません。

よければチェックしてみてください。

ではまた〜。