どうも、りきぞう(@rikizoamaya)です。
大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。
社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。
働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。
働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。
・発想がすごいなぁ
と、思う人は、キホン、教養を身につけています。
なかでも、重要なのは「世界史」です。
ここ数年、ビジネスマンの必須知識として「世界史」が注目をあつめています。
ネット時代をむかえ、グローバル化が加速しているからです。
とくに、ヨーロッパ史の流れは、おさえておく必要があります。
グローバル経済は、ヨーロッパから始まったからです。
ヨーロッパは、古代ギリシャ&ローマ文化を土台につくられます。
その後、ローマ帝国の衰退にともない、ゲルマン文化が広まっていきます。
いわゆる「ゲルマン民族の大移動」がおこり、ここから「ヨーロッパ中世」がはじまる、とされています。
当然、ヨーロッパ史を理解するには、「中世」は避けてとおれません。
とはいえ、1000年以上つづいた「中世」 ─ 。全体像をつかむのも一苦労です。
そんなとき、つぎの本をみつけました。
著者は、西洋中世史の専門家。
本書は、河出書房から出た「世界の歴史」シリーズの1冊です。
30年前の本ですが、内容は古びていません。
書いてる人が、評論活動もおこなっていたので、読み手の好奇心をそそるように、歴史をたどっていきます。
読んでいて、飽きることはありません。
ヨーロッパ中世を理解するには、まずはこの本で、ざっくりつかむのが、おすすめです。
目次
鯖田豊之『ヨーロッパ中世』の概要
まずは、目次から。こんなかんじです。
(※ 章の番号は、こちらの都合で付けました)
2 苦悩するゲルマン
3 後進地ヨーロッパ
4 ドライな封建制度
5 国王は選挙で
6 権威と権力の分離
7 キリスト教の定着
8 人工の生活を求めて
9 騎士道精神
10 十字軍の時代
11 王権の伸張
12 論争と耳学問の大学
13 苦難を越えて
2・3章で、ゲルマン人とヨーロッパの状況。
4〜8章で、皇帝・教皇・領主のカンケー性。
9〜10章で、「騎士階級」と十字軍。
11章で、教皇にかわり、皇帝(=王権)のチカラが増していく過程を描きます。
12章で、中東から流入した「知識」「学問」のようすを述べていきます。
時間軸にそって記述していますが、気になるテーマから、飛ばて読んでてもオーケーです。
鯖田豊之『ヨーロッパ中世』の詳細
以下、個人的に気になったトコをみていきます。
ヨーロッパの3要素
ゲルマン民族の大移動のあと、各グループは、ヨーロッパ地域に、国家を築いていきます。
このあいだ、「ヨーロッパ」を形成する要素が、出そろいます。
それは、
・キリスト教文化
・ゲルマン文化
の3つです。
一般的に、この3つが、いまのヨーロッパの土台を形づくったとされています。
融和のムズかしさ
とはいえ、3要素の融和は、カンタンではありませんでした。
たとえば、宗教をみても、キリスト教文化は「一神教」で、ゲルマン文化は「多神教」です。
当然、人びとのあいだでは、信仰をめぐって摩擦(まさつ)も生じます。
教科書などでいわれるほど、融和・融合は、すんなりいきませんでした。
民族移動からメロヴィング朝フランク王国にいたる時期には、のちのヨーロッパ文化の構成要素たるゲルマン文化、古典古代文化、キリスト教文化の三つが出そろっただけである。三つの要素はおたがいにバラバラの存在で、なかなかひとつにまとまりそうにない。それどころか、おたがいに反発しあうことさえある。ゲルマン文化はともかくとして、古典古代文化やキリスト教文化は、なかなかほんとうにヨーロッパのものとはならない。(no.723)
ぎゃくにいえば、異質な3要素を、うまく調和させた国家が、民衆のキモチを取りこみ、繁栄しました。
その代表が「フランク王国」でした。
ちょうど、イスラム勢力による外圧もあり、ヨーロッパの一体感(=団結)がもとめれているころでした。
その気運を読み、取りまとめたのが、カロリング家のフランク王国でした。
いきづまりを打開したのが、カロリング朝フランク王国である。カロリング家はもともとアウストラシアの宮宰だったが、かれらが腐敗したメロヴィング朝にとってかわると、バラバラの存在だったゲルマン文化、古典古代文化、キリスト教文化の三つの要素が一本になりだした。ゲルマン民族のなかでも、フランク族がヨーロッパ形成の主役になることが、はっきりしはじめる。ただ、メロヴィング朝とカロリング朝との交代には、イスラムの進出という国際環境の激変が必要だった。(no.728)
ふみこんだ見方をすれば、イスラム勢力の進出・圧力がなければ、ヨーロッパの形成はなされなかったのかもしれません。
いっけん、異国からの外圧・侵略は、不運にみえますが、統合や団結の観点でみると、必要な事態だったともいえます。
血統権 / 選挙原理の対立
投票・選挙によって君主・国王を決める ─ いわゆる民主主義のしくみは、近代以降に広まったとされています。
しかし、選挙ルールは、ヨーロッパが形式される時期に、すでに根付いていました。
なにかとあれば、選挙原理が持ちだされます。
良さそうにみえますが、皇帝・王権の立場からすれば、よろしくありません。
みずからの王朝=家系の継承が、困難になるためです。
国王のがわとしては血統権原理がのぞましいのはいうまでもない。自分の子供にあとをつがせたいとの人情は、日本もヨーロッパも同じである。とくに、ひとたびは選挙原理の進出のおかげで王位を勝ちとったカロリング家のばあい、このことは切実な問題だった。なんとしてでも、選挙原理を克服しなければならない。(no.1567)
国王としては、「血統」によって「君主の引き継ぎ」をおこないたいところですが、選挙原理がジャマになり、スムーズにいきません。
さきほどのフランク王国をはじめ、歴代の領主・国王は、血統権 / 選挙原理の対立(ジレンマ)に、つねに悩まされてきました。
ふたつの原理はいつも同じ比重を占めたのでない。そのときどきの政治状勢に応じて、どちらか一方が優勢になった。血統権原理が優勢なときは、選挙は単なる確認行為になり、王位の世襲が確立する。反対に、選挙原理が優勢になると、極端なばあいは、血統権そのものが否定され、王朝交代が行なわれたりする。(no.1546)
民主主義に慣れたわたしたちには理解しにくいですが、〝(ジャマな?)選挙ルールを、いかに脱するか〟が、国王・王権にとって、最大の課題だったわけです。
そのひとつが、臨終・生前まぎわの国王の選任 ─ 。
「国王の経験」という権威をつかって、引き継ぎの正当化を図っていました。
国王の生前あるいは臨終まぎわにつぎの国王を選任しておく慣行が一般化した。「後進地ヨーロッパ はじめてヨーロッパに皇帝が」でみたように、カール大帝が息子のルイ敬虔王を共同皇帝にしたのは、その一例である。自分の眼の黒いうちに、息子の地位を安定させておこうというのである。(no.1570)
こうして王権を安定させていたわけです。
このようなプロセスは、中世ならでは状況ですね。
皇帝 / 教皇の対立
さらに、国王・皇帝は、宗教団体のトップ「教皇」とも対立していました。
あとになって、
・教皇 → 権威
の〝棲み分け〟がなされましたが、はじめは混じり合っていました。
皇帝・教皇ともに、権力も権威も、握ろうとしていたわけです。
たとえば、世界史の教科書で有名な「カノッサの屈辱」 ─ 。
これなどは、教会の権威を〝カサ〟にして、ローマ教皇(グレゴリウス7世)が、神聖ローマ皇帝(ハインリヒ4世)を、服従させ、権力を保とうとするできごと、とみなせるわけです。
とはいえ、いつも対立・闘争しているわけにいきません。
そこで、歴代の皇帝は、教会・教皇と、〝適度な距離〟をとりながら、政治運営をおこなっていました。
たとえばこのころ、新たに就任するまえに、皇帝・国王は、法王や大司教から「塗油」という儀式を受けるようになります。
教皇のチカラで権威づけをおこない、権力を保つためです。
しかしいっぽうで、教会の権威をムシしない、〝いい顔をしておく〟意味もありました。
こんなふうに、中世時代の皇帝・国王にとって、教皇とのつながりも、権力を維持するうえで、重要だったわけです。
〔……〕ヨーロッパ封建時代は権威と権力の分離していた時代である。皇帝や国王がもともと権力者だとすれば、法王や大司教は権威的存在である。両者ははっきりと別系統に属し、皇帝や国王は法王や大司教にとってかわることはできないし、逆に、法王や大司教が聖帝や国王にとってかわることもできなかった。そうした権力と権威の分離状態のなかで、皇帝や国王は、法王や大司教から塗油されることによって、やっとのことで権威を保有できたのである。(no.1,845)
おわりに
そのほか、
・騎士道の内実
・十字軍遠征の過程
など、「中世ヨーロッパ」のできごとを、ひととおり記しています。
中世期のヨーロッパを把握するには、もってこいの1冊です。
よければチェックしてみてください。
ではまた〜。