【書評】『世界の歴史 15 成熟のイスラーム社会』感想&レビュー

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

きょうは『世界の歴史 15 成熟のイスラーム社会』を紹介します。

本書は、中央公論新社から出ている「世界の歴史シリーズ」の第15巻です。

『世界の歴史 15 成熟のイスラーム社会』の概要

まずは目次から。こんなかんじ。

第1部 暮らしのなかのオスマン帝国
1 オスマン帝国史をどうみるか
2 辺境の戦士国家からイスラーム世界帝国へ
3 イスラーム世界帝国のしくみ
4 「オスマンの平和」のもとで暮らす人びと
5 オスマン文化の諸相
6 移りゆく時代 ─ イスラーム世界帝国の終焉

第2部 サファヴィー朝の時代
1 イスファハーンの光輝 ─ 十七世紀サファヴィー朝社会の縮図
2 現世の力を求めて ─ サファヴィー朝の国家と政治
3 それぞれの生き方 ─ 人物伝から時代を考える
4 技と匠 ─ 絢爛たる文化の伝統と革新

本書のテーマは、近世のイスラム世界 ─ 。

オスマン朝とサファヴィー朝の2つをとりあげます。

両王朝の成立期〜発展期をメインにみていくかんじです。

オスマンは、残虐で、恐ろしい ─ そんなイメージを払拭するために、政治史はおさえつつ、社会史&文化史を多めにあつかっています。

教科書ではさらっとしかふれない両王朝 ですが、本書を読むことで、オスマン&サファヴィーの内実を、具体的に把握できるようになります。

分量もコンパクトにまとまっているので、概説書としてもおすすめです。

『世界の歴史 15 成熟のイスラーム社会』のポイント

わたしが気になったのは、つぎの2点。

  • カフェの役割
  • サファヴィーとムガル帝国の交流

それぞれ、みていきます。

カフェの役割

オスマン帝国の時代、人びとのあいだでは、コーヒーが一大ブームとなりました。

首都イスタンブールが、イエメン&エジプトと交易でむすばれ、そこからコーヒー豆がぞくぞくと輸入されたからです。

16世紀のはじめは「薬用」として飲まれていました。けれど、市場であつかわれるのようになると、一般の人も手にできて、口にできるようになります。

そこで重要なのは、たんに飲むだけではなく、コーヒーを出す店に人があつまり、おしゃべりをするようになった、ということ。

つまり、コーヒー店は、交流の場・情報交換の場になっていきました。

オスマンでは、この場所をとよびました。

はじめは、リラックス・スペースくらいの意味しかありませんでした。しかし、じょじょに人が増えて、交流が活発になると、そこから王朝への批判&悪口を言う人たちがあらわれます。

カフヴェ・バーナは、たんにコーヒーを飲む場所ではなく、政治批判するメディアとしての役割を担うようになりました。

これに危機感をいだいたのは、統治権力の中枢である王朝です。

コーヒー店での批判が激しくなれば、いつ暴動&反乱がおきても、おかしくない ─ 。

そこで、ときの権力者は、カフヴェ・バーナでの集まりはもちろん、コーヒーの嗜好さえ禁じます。

とはいえ、コーヒーからの税収はバカにならず、カフヴェ・バーナの文化が根づいていたことから、禁止政策は失敗におわります。

以後は、王朝の予測どおり、カフヴェ・バーナを中心としたところから反乱運動が起きたりします。

しかしいっぽうでは、情報交換の場という性格上、さまざまな職業団体がつくられたり、文化交流の場所として、さかえるようになります。

街区や職業を核とした、さまざまなカフヴェ・ハーネは、帝国各地から首都に移住した諸民族がひとつの屋根に下に融け合う空間であると同時に、首都の民衆における、政治的な世論形成の場にもなった。

─ 4章 p.158

ひとつのモノで、社会や文化の動きが変わる ─ 興味ぶかい例を、このコーヒー豆にみることができます。

ちなみに、カフヴェ・バーナのしくみは、おとなりのヨーロッパへの広まります。

そこから、フランスではカフェ文化が生まれ、のちにヴォルテールやルソーなど、フランス革命の火付け役となった「啓蒙思想」が流行ります。

このあたりからも、世界はつながっているとわかりますね。

17世紀以後、ヨーロッパ諸国へこの伝統が伝わり、「カフェ・ブロコプ」のように、ルソーやヴォルテールのような啓蒙家や、ロベスピエール、ダントンのような革命家のたまり場となったことはよく知られているが、その原型は16世紀のイスタンブルにあったのである。

─ 4章 p.158

サファヴィーとムガル帝国の交流

1650年前後は、東から[オスマン → サファヴィー → ムガル]と、大きな王朝が並び立った時代です。

共通するのは、どれもイスラームを信仰していた点です。

しかし、オスマンとサファヴィーは、つねに敵対関係にありました。オスマンは「スンナ派」、サファヴィーは「シーア派」を支持していたからです。

反対に、サファヴィーは、おとなりインドのムガル帝国とは、つよいつながりをもっていました。

(スンナ派にもかかわらず)ムガル帝国の上流層は、ペルシャ語をつかい、サファヴィーの文化に親しみ&憧れをいだいていたからです。

〔略〕ムガル帝国の宮廷では、ここで問題にしている時代をつうじて、つねにその人士の3割程度がペルシャから移ってきた人や、その子孫だった。ペルシャ語が〔略〕宮廷の言葉として用いられていたために、〔略〕その結果、必然的にペルシャ的教養・文化が重視されたために、ペルシャからの移住者は歓迎され、移住するとすぐに高位・高禄を得ることができた。

─ 9章 p.417

つまりこの当時は、サファヴィーにとって、文化レベルではムガル帝国を〝下〟にみており、現地で成功しなかった人の逃避地となっていたわけです。

じじつ、建築家ダーウードなどは、サファヴィー王朝内の権力闘争にやぶれ、ムガル帝国に逃げこみ、そこで上流官僚として成功をおさめています。

このあたりの帝国間の関係性は、本書のような詳しい文献をみないと、わからないトコですね。

ちなみに、もっとおもしろしいのは、経済レベルでは、ムガル帝国のほうが〝上〟ということです。湿地帯で豊かな穀倉をもつ、インドのムガル帝国のほうが、だんぜんにお金持ちでした。

にもかかわらず、政治&文化の面で〝引け目〟を感じていた ─ このあたりの上下関係も興味ぶかいです。

「経済力の上下」で、政治力は決まらない ─ この時代ならではですね。

おわりに

以上のように、本書では近代以前のイスラーム帝国をあつかっています。

この時代を知るには、もってこいの内容です。

よければ、チェックしてみてください。

では、また。