匈奴の歴史 ─ フン族・残酷・鮮卑【世界史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・遊牧民の匈奴について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・単于(ぜんう)
・万騎
重要人物
・冒頓単于
・始皇帝
・武帝
ポイント
・冒頓単于のときに騎馬遊牧民の匈奴は最盛期をむかえ、のちに東匈奴/西匈奴に分裂した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

以下、目次に沿って、みていきます。

匈奴の形成

匈奴・弓矢(出典:wiki

匈奴は、BC.209年〜AD.93年ごろ、東部ユーラシアで活動した遊牧民です。

単于(ぜんう)のもとで強大化し、最初の遊牧国家を建てました。単于とは、統率者(君主)の意味です。

西方の遊牧民スキタイと同じく、騎馬戦術をつかうのが、かれらの特徴です。きほん定住はせず、オアシスを転々としながら、生活をいとなんでいました。

また外征については、北部中国に侵入して、

・燕
・趙
・秦

などに脅威をあたえました。

中国史でいえば、春秋戦国時代にあたります。

秦の始皇帝によって、中国が統一されたあとも、たびたび進出します。けれどこのときは、秦国の力が上まわり、撤退をよぎなくされています。

その後、秦側は万里の長城をきずき、それにともない匈奴も、なかなか兵を送りこめない状況がつづきます。

匈奴の発展

匈奴の出土品(出典:wiki

中国本土から引きさがったのち、匈奴はふたたび勢力をもりかえします。

以降、ユーラシアの東側に兵をすすめ、帝国を版図をひろげていきます。

冒頓単于による領土拡大

なかでも冒頓単于(ぼくとつぜんう)のとき、帝国の領土は一気に拡大しました。

征服した地域&国家は、つぎにとおりです。

・北部 → 丁零(ていれい)&堅昆(けんこん)
・東部 → 東胡(とうこ)
・南部 → 月氏(げっし)

なかでも、月氏の領域をおさえたことは、匈奴に大きな利益をあたえました。シルクロード交易に経済利益を獲得したからです。

それにより、経済力をつけた匈奴は、膨大な資源を背景に、当時中国をおさめていた漢王朝へと圧力を強めていきます。

また中国では秦が滅んだのち、国内では混乱が生じていました。それに乗じて匈奴は、オルドス地域に進出して、漢を圧迫します。

結果、皇帝劉邦との戦いに勝利し、以後、漢王朝から、毎年多額の物品を受け取り、講和をむすぶことになります。

統治のしくみ

匈奴の力づよさは、その軍事体制にあります。

帝国の頂点には、単于(王)が君臨しています。そのうえで縦軸に、

十 → 百 → 千 → 万の階層構造

が組まれ、いっぽう横軸には、

をとり、横に、

左/中/右の三部

が形づくられています。

軍事体制の特徴をまとめると、つぎのようになります。

・十進法による、軍事・政治・社会組織
・南に面して、左・中・右の部分から、三分割で統治
・領民&分地をもつ24人の「万騎」による連合権力体
・周辺諸族がくわわる多元体制

匈奴の衰退

匈奴のブロンズ像(出典:wiki

繁栄をほこる匈奴でしたが、漢王朝で武帝が即位すると、状況は一変します(BC.200年ごろ)。

漢はそれまでの同盟関係を解消して、匈奴にたいして攻撃をしかけるようになります。

武将である衛青(えいせい)&霍去病(かくきょへいら)の遠征部隊をおくり、匈奴を華北から追い出し、さらに匈奴領域内へ進出します。

匈奴は大きな打撃をうけて、ゴビ砂漠の北側に追いやられることになります。

東西分裂

さらに匈奴は内部争いから、東匈奴/西匈奴に分裂します。

東匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)は、漢に服従し、臣従関係をむすびます(BC.51年)。

いっぽう西匈奴は、キルギス草原に移動し、漢王朝の支配から逃れていきます。しかしその対処は一時的で、前漢の武将である甘延寿(かんえんじゅ)の攻撃をうけると、そのまま滅亡してしまいました(BC.36年)。

南北分裂

その後、東匈奴は、漢王朝の混乱に乗じて、ふたたび中国に侵略します。一時、勢力をもりかえし、後漢の光武帝による遠征軍にも、勝利を果たします。

しかしまたしても匈奴国内で内紛がおこります。結果、帝国は南北に分裂し、南匈奴/北匈奴に分かれてしまいました(AD.48年ごろ)

南匈奴は、後漢に降伏し、万里の長城の南に移住します。以後、 魏・普にいたるまで中国北辺を防衛にあたります。

いっぽう北匈奴は、モンゴル高原を拠点に、国家の基盤をきずいていきます。そのうえで、後漢&南匈奴に対抗しながら、なんとか国を保っていきます。

しかしその後、後漢の武将である竇憲(とうけん)との戦いに敗れると、本拠地を失い、西方のイリ盆地方面へ移動します(AD.91年ごろ)。

その後、じょじょに衰退し、消滅したとされます。

まとめ

匈奴の歴史について、みてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・単于(ぜんう)
・万騎
・月氏
重要人物
・冒頓単于
・始皇帝
・武帝
ポイント
・冒頓単于のときに騎馬遊牧民の匈奴は最盛期をむかえ、のちに東匈奴/西匈奴に分裂した

この記事が、匈奴の歴史を理解するうえで参考になれば、うれしいです。

では、また。