どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・万騎
・始皇帝
・武帝
この記事では、つぎの本を参考にしました。
以下、目次に沿って、みていきます。
目次
匈奴の形成

匈奴は、BC.209年〜AD.93年ごろ、東部ユーラシアで活動した遊牧民です。
単于(ぜんう)のもとで強大化し、最初の遊牧国家を建てました。単于とは、統率者(君主)の意味です。
西方の遊牧民スキタイと同じく、騎馬戦術をつかうのが、かれらの特徴です。きほん定住はせず、オアシスを転々としながら、生活をいとなんでいました。
また外征については、北部中国に侵入して、
・趙
・秦
などに脅威をあたえました。
中国史でいえば、春秋戦国時代にあたります。
秦の始皇帝によって、中国が統一されたあとも、たびたび進出します。けれどこのときは、秦国の力が上まわり、撤退をよぎなくされています。
その後、秦側は万里の長城をきずき、それにともない匈奴も、なかなか兵を送りこめない状況がつづきます。
匈奴の発展

中国本土から引きさがったのち、匈奴はふたたび勢力をもりかえします。
以降、ユーラシアの東側に兵をすすめ、帝国を版図をひろげていきます。
冒頓単于による領土拡大
なかでも冒頓単于(ぼくとつぜんう)のとき、帝国の領土は一気に拡大しました。
征服した地域&国家は、つぎにとおりです。
・東部 → 東胡(とうこ)
・南部 → 月氏(げっし)
なかでも、月氏の領域をおさえたことは、匈奴に大きな利益をあたえました。シルクロード交易に経済利益を獲得したからです。
それにより、経済力をつけた匈奴は、膨大な資源を背景に、当時中国をおさめていた漢王朝へと圧力を強めていきます。
また中国では秦が滅んだのち、国内では混乱が生じていました。それに乗じて匈奴は、オルドス地域に進出して、漢を圧迫します。
結果、皇帝劉邦との戦いに勝利し、以後、漢王朝から、毎年多額の物品を受け取り、講和をむすぶことになります。
統治のしくみ
匈奴の力づよさは、その軍事体制にあります。
帝国の頂点には、単于(王)が君臨しています。そのうえで縦軸に、
が組まれ、いっぽう横軸には、
をとり、横に、
が形づくられています。
軍事体制の特徴をまとめると、つぎのようになります。
・南に面して、左・中・右の部分から、三分割で統治
・領民&分地をもつ24人の「万騎」による連合権力体
・周辺諸族がくわわる多元体制
匈奴の衰退

繁栄をほこる匈奴でしたが、漢王朝で武帝が即位すると、状況は一変します(BC.200年ごろ)。
漢はそれまでの同盟関係を解消して、匈奴にたいして攻撃をしかけるようになります。
武将である衛青(えいせい)&霍去病(かくきょへいら)の遠征部隊をおくり、匈奴を華北から追い出し、さらに匈奴領域内へ進出します。
匈奴は大きな打撃をうけて、ゴビ砂漠の北側に追いやられることになります。
東西分裂
さらに匈奴は内部争いから、東匈奴/西匈奴に分裂します。
東匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)は、漢に服従し、臣従関係をむすびます(BC.51年)。
いっぽう西匈奴は、キルギス草原に移動し、漢王朝の支配から逃れていきます。しかしその対処は一時的で、前漢の武将である甘延寿(かんえんじゅ)の攻撃をうけると、そのまま滅亡してしまいました(BC.36年)。
南北分裂
その後、東匈奴は、漢王朝の混乱に乗じて、ふたたび中国に侵略します。一時、勢力をもりかえし、後漢の光武帝による遠征軍にも、勝利を果たします。
しかしまたしても匈奴国内で内紛がおこります。結果、帝国は南北に分裂し、南匈奴/北匈奴に分かれてしまいました(AD.48年ごろ)
南匈奴は、後漢に降伏し、万里の長城の南に移住します。以後、 魏・普にいたるまで中国北辺を防衛にあたります。
いっぽう北匈奴は、モンゴル高原を拠点に、国家の基盤をきずいていきます。そのうえで、後漢&南匈奴に対抗しながら、なんとか国を保っていきます。
しかしその後、後漢の武将である竇憲(とうけん)との戦いに敗れると、本拠地を失い、西方のイリ盆地方面へ移動します(AD.91年ごろ)。
その後、じょじょに衰退し、消滅したとされます。
まとめ
匈奴の歴史について、みてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・万騎
・月氏
・始皇帝
・武帝
この記事が、匈奴の歴史を理解するうえで参考になれば、うれしいです。
では、また。