どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・拓跋氏(拓跋部)
・慕容部
・北魏
・アヴァール
・北魏と対立した柔然は、王を意味する「可汗」の称号をつかい、のちの「ハーン」のルーツとなった
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
鮮卑と柔然① ─ 拓跋部&慕容部

匈奴にかわって、モンゴル高原をおさめたのが鮮卑です。
はじめは匈奴の属国でしたが、匈奴の東西分裂をきっかけに、じょじょに勢力をのばしていきます。
鮮卑は単一の集団ではなく、複数の部族から成り立っていました。そのうえで、各部族がみずからの国家をたてていきます。
なかでも拓跋部と慕容部の活躍が目だち、両部族はつぎのように国家を成立させます。
・拓跋部 → 北魏
はじめに慕容部が勢力をのばし、つづけて拓跋部がモンゴル高原の覇権をにぎります。その後、拓跋部は華北に進出し北魏を建国します。
中国史では、鮮卑は五胡のひとつとされました。五胡とは、
・羯(かつ)
・氐(てい)
・羌(きょう)
・鮮卑(せんぴ)
の5国をさします。
鮮卑という語感からもわかるとおり、漢の人たちにとって、かれら遊牧系部族は軽蔑の対象でした。
しかし鮮卑からおこった拓跋部(拓跋氏)は、北魏を建国したあと、太武帝のときに華北の統一を果たすことになります。
鮮卑と柔然② ─ アヴァール

拓跋部の中心勢力が中国北部に移り、北魏を建国すると、それまでかれらがおさめていた中央ユーラシアがちょうど〝手薄〟になります。
その空白地帯をうめるように、勢力をのばしたのが柔然でした。
柔然はもともと拓跋部につかえるモンゴル系の遊牧系部族でしたが、モンゴル高原に領土を拡大したことで、北魏との対立を深めていきます。
柔然は、つぎの周辺国と協力して、鮮卑の打倒を目指します。
・北涼
・北燕
・高句麗
・吐谷渾
・南宋
しかしかれらの思わくどおりにはすすまず、夏&北涼&北燕が北魏に滅ぼされ、柔然も追いつめられてしまいます。
北魏の太武帝は、2度にわたり遠征をおくり、その結果、柔然は本拠地を手ばなし、じょじょに衰退していくことになります。
その後、モンゴル高原から撤退した柔然は、西方へ移動し、周辺諸国と争い、同盟関係をむすびながら、勢力をのばしていきます。
いっぽう当時のヨーロッパ地域は、ビザンツ帝国とフランク王国が中心となっておさめていました。そのさい両国にたいして「アヴァール人」とよばれる民族が、侵略をくりかえしていました。
じつはこのアヴァール人こそが、西方に移動した柔然と思われ、中央アジアから東ヨーロッパにかけて統治をおこなっていた、とされています。
また、柔然がつかっていた「可汗」の称号は、その後の遊牧国家にひきつがれていき、王を意味する「ハーン」のルーツとなっていきます。
おわりに
鮮卑と柔然をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・拓跋氏(拓跋部)
・慕容部
・北魏
・アヴァール
・北魏と対立した柔然は、王を意味する「可汗」の称号をつかい、のちの「ハーン」のルーツとなった
この記事が、鮮卑と柔然を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。