どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・突厥文字
・製鉄技術
・木汗可汗(ぼくかん かがん)
この記事では、つぎの本を参考にしました。
以下、[形成 → 発展 → 衰退]の流れに沿って、突厥の歴史をみていきます。
目次
突厥の歴史① ─ 形成

「突厥」とは「トルコ人」を漢字であらわしたものです。いまのトルコ人は、もともと東部ユーラシアが〝ふるさと〟ということになります。
さいしょ突厥は柔然に属してしましたが、そこからだんたんと自立していきます。
突厥国家をひらいた伊利可汗(いりぐ かがん)は、柔然からの独立を果たし突厥可汗国を樹立します。彼のころには、ユーラシア一帯をおさめ、巨大な帝国をつくりあげていきます。
歴代の中国王朝にも戦いをいどみ、対等な関係をきずいていきます。
領土をひろげた突厥は、東側では、
と手をむすび、西側では、
・ササン朝ペルシア
・ビザンツ帝国
と協力関係をきずいていました。
そのため突厥がおさめるオアシス都市は交易の中継地となり、商業が発達します。突厥は経済面でも大いにさかえることになります。
また国内統治にかんしては、突厥は(ほかの遊牧部族と同じように)定住しない生活スタイルだったため、はっきりとした領土の枠ぐみもうけませんでした。
そのため、多民族国家として、
・モンゴル高原
・満州
・南シベリア
のあたりを、ゆるやかにおさめるかたちをとりました。
突厥の歴史② ─ 発展

突厥は、すぐれた製鉄技術をもっており、鉄製の農具を活かし、生産活動をおこなっていました。
また一連の鉄製品は「草原の道」とよばれた交易ネットワークに乗り、商品として売買されます。それにより突厥は、莫大な利益を獲得し、政治面でもよりいっそう勢力をのばすことになります。
強い経済力を背景に領土を広げる突厥は木汗可汗(ぼくかん かがん)のときになると、それまでつかえていた柔然をついに滅亡させます。
つづけて、ササン朝ペルシアと手をくみ、同じ遊牧国家であるエフタルを滅ぼします。
さらに、
・北部 → キルギスを併合
といったかたちで、まわりのエリアをつぎつぎおさめていきます。最終的には、モンゴル高原からカスピ海にいたる大帝国を形成することになります。
それにともない、中央アジアに暮らすオアシスの人たちの経済活動も活発になっていきます。
なかでも、ソグド人(イラン系)の動きはよりいっそう活性化し、
・ブハラ
・タシュケント
・ヘラート
など、アム川・シル川の中間地帯のオアシス郡を拠点に販路を広げていきます。東は中国、西は東ローマ帝国にも進出して、内陸アジアの貿易をほぼ独占しました。
いっぽう突厥も、中国の北周と講和をむすび、姻戚関係に入ります。以後、中国の歴代王朝とは良好な関係をきずいていきます。
突厥の歴史③ ─ 衰退

繁栄をほこる突厥帝国でしたが、継承&相続問題により内紛がたびたびおこるようになっていきます。それにより突厥は、
・東突厥
に分裂することになります。
西突厥では、ときの可汗(=王)の甥が独立し、西部ユーラシアを支配下におきます。しかししばらくすると権勢が低下し、さいごは唐の征服をうけ、滅亡します。
いっぽうの東突厥は、分裂直後に中国統一をした隋に服従し、つづく唐とも講和をむすびつづけます。
形成して間もない唐は、東突厥とは友好関係を維持し、兵力の支援を受ける必要がありました。じじつ隋との戦いでは、突厥騎兵の援軍によって勝利をはたします。
そのため西突厥とはちがい、東突厥は征服されず、講和をむすぶことができました。
以後、ふたたび勢力をのばし、一時、東ユーラシア一帯を統治することになります。
8世紀はじめには、アラブ=ムスリム軍の攻撃をうけたソグディアナに軍事支援をおこないます。
こうして、中央アジアのイスラム化に対抗し、勢いのあったムスリム軍の侵攻を阻止します。
しかしさいごは、属国としてしたがえていたウイグルに打たれ、消滅することになります。
以後、ユーラシア一帯は、ウイグルが統治することになります。
おわりに
突厥の歴史をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・突厥文字
・製鉄技術
・木汗可汗(ぼくかん かがん)
この記事が、突厥を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。