どうも、りきぞう(@rikizoamaya)です。
大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。
社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。
働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。
働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。
「発想がすごいなぁ」
と、思う人は、キホン、教養を身につけています。
なかでも、重要なのは「世界史」です。
ここ数年、ビジネスマンの基礎知識として「世界史」が注目をあつめています。
ネット時代をむかえ、グローバル化が加速しているからです。
外国との交流が増えたことで、日本だけではなく、地球全体の歴史を知る必要が出てきました。
とはいえ、世界史は範囲も広く、どこから手をつければ良いか、わからないですよね。
分量も多くて、なんだかムズかしそう。。
そこでおすすめしたいのが、大手出版社から出ている「シリーズ本」を読むこと。
なかでも、こちらのシリーズは、さいしょに手にとってほしいです。
中央公論社が出した「世界の歴史」シリーズで「旧版」にあたるものです。
中公は、2000年代に、あらたに「世界の歴史」シリーズを刊行しました。
こちらを「新版」とよび、以前のシリーズは「旧版」といわれます。
じつは〝読みやすさ〟でいえば、「旧版」のほうがすぐれています。
「新版」のほうは、どちらかといえば「研究者」「玄人」むけ。
世界史の流れを理解・把握するには適していません。
すでに絶版なのが難点ですが、古本屋 or ネット通販をつかってゲットしてほしいと思います。
…
そこできょうは、第4巻にあたる
を紹介したいと思います。
「4」では、中国エリア・三国時代〜大唐時代、くわえて、古代インド史をあつかいます。
目次
塚本善隆『世界の歴史 4 ─ 唐とインド』(中公・旧版)の概要
まずは目次から。
こんなかんじです。(※ こちらの都合で、番号をふりました。)
2 50年の動乱
3 江南の貴族政治
4 嵐をよぶ五胡十六国
5 インド – アーリア文明の発端
6 統一インドの出現
7 インド民族のインドへ
8 絹の道の往来
9 南朝の明暗
10 北朝の興亡
11 大統一への開門 ─ 隋朝37年
12 大唐世界国家の出現
13 天下の道は長安に通ず
14 大唐帝国のたそがれ
1〜4で、三国志で有名な「三国時代」〜「五胡十六国時代」まで。
5〜8で、古代インド史をみて、仏教のながれについてみていきます。
9〜14で、中国史にもどり、[南北朝 → 隋 → 唐]へとすすめていきます。
政治・経済・文化 ─ バランスよく取りあげています。
文化史については、とくに仏教史にくわしいです。
文体もカンケツで、読みやすい。
中国史の流れを、たのしく知りたい方は、おすすめの1冊です。
塚本善隆『世界の歴史 4 ─ 唐とインド』(中公・旧版)の詳細
以下、気になったトコを、カンタンにのべていきます。
ポイントは、つぎのとおり。
・伝統の悪影響
・「隋」による土台づくり → 「唐」の繁栄
かるくふれていきます。
北朝・ 南朝の相互関係
「漢」帝国が滅んだあと、中国地域は、混乱をむかえます。
北方民族が進出し、暴れまわります。
結果、漢からつづく貴族は、南に逃れ、国を建てます。
ここから、北朝 / 南朝に分かれます。
中国の南は、降水量が多く、農耕に適していました。
生産高も上がり、経済も豊かになります。
貴族文化もさかえます。
いっけん、自立して、国を存続できそうです。
しかし、「南朝」は、「北朝」の動きを気にしていました。
「北朝」の国内が乱れているときは大丈夫です。
けれど、統治が安定し、外征に乗りだすときには、警戒が必要でした。
その意味で、北朝 / 南朝が、分断されていたとはいえ、相互関係はつづいていました。
南朝の史実は、つねに北朝を度外視しては理解できない。北朝勢力の盛衰は、そのまま南朝の一喜一憂である。宋の創業主・劉裕(りゅうゆう)も、洛陽・長安を一時奪回した。しかし宋以来、南朝は概して、北朝の胡族勢力の南侵にたいして防衛の立場にたった。(p.211)
南朝の人たちは、つねに北朝の動きを気にしていました。
またチカラをつけて、北朝を支配しようとする ─ これも危険でした。ヘタに〝深追い〟しないのが、南朝存続のカギでした。
結果、南朝の貴族たちは、故郷である「北朝」にかえらず、南朝にとどまりつづけます。
かれらは危険な北地へ帰るより、ゆたかな江南の土地に住みつく人びとになった。(p.211)
伝統の悪影響
北朝 / 南朝をふくめて、中国の王朝は、「漢」の伝統を継承していました。
統治するうえで、儒教の思想は、大いに役立ったからです。
なかでも「礼」という考えは、統治者の権威を高めるにはピッタリ。
部下・民衆を拘束するには、なくてはならない思想でした。
いっぽう、伝統が、悪影響をおよぼし、悪用されるケースも、たくさんありました。
たとえば「禅譲」という考えは、それまでの皇帝が、つぎの皇帝に権力を〝譲る〟というものです。
けれど、〝譲れば、すぐさま権限がうつる〟という発想がまかりとおってきます。
暗殺など、力づくで「禅譲」に追いこむ、武人・軍人が、あらわれてきます。
漢がうえつけた「礼」の権威と拘束力は、われわれ日本人の想像以上に強いものであって、南朝人も「礼」の拘束をまったおし流してしまったのではなく、依然として「礼」の権威が士大夫(治者階級)を、庶民から厳に上下に区別しつづけ、また、しばし悪用されていたのである。「禅譲」という、王朝を奪いかわるためにもちいた形式儀礼のこどきは、その悪用のよい例だろう。(p.216)
歴代の中国王朝は、礼・伝統を重視します。
いっぽう、みずからの利益のためには、活用・悪用する文化でもあります。
このあたりは、いまも同じで、いろいろ勉強になるはずです。
「隋」による土台づくり → 「唐」の繁栄
そのあと、「隋」が、北朝 / 南朝の統一をはたします。
初代・楊堅は、統一したほかに、
・貨幣の導入
・府兵制&均田制の設置
など、積極的に「中央集権化」をおこないました。
ベースを築いたことで、後世、たいへん評価の高い政治家です。
いっぽう、2代・煬帝にたいする評価はイマイチです。
初代がたくわえた富・財を
・ムチャの公共工事
などに費やし、暴政をおこなった、とされるからです。
とはいえ本書では、2代・煬帝がおこなった公共事業が、その後の「唐」の繁栄につながった、とします。
煬帝といえば、[黄河 → 長江]のあいだの大運河建設です。
〔……〕煬帝にとってはさしあたり、みずから建設した新都・洛陽から、ただちに船で大運河を想い出のふかい江都への行幸することが望みであった。(p.322)
ぼうだいな資材が投入され、民衆を労働で苦しめました。
けれど運河建設が、中国国内の交易をうながし、経済面での繁栄をもたらします。
煬帝のおかげで「隋」じたいも滅びますが、事業のおかけで、その後の中国が豊かになったのも事実です。
はかり知れない人民の血と汗のうえに完成した大運河であるが、隋滅亡後、シナの経済発展のうえに貢献した功績もはかり知れないものがある。日本の留学生も、この水路を洛陽へ長安へ開封へと、文化をもとめて旅したものである。(p.325-326)
引きついだ「唐」は、「隋」の事業・制度を、利用・活用するかたちで、基盤をつくっていきます。
結果、首都「長安」は、ヒト・モノがゆきかい、世界でも有数の都市=世界の交流センターとなります。
長安の人口は、100万人をかぞえたという。そのなかには、外国人の数も1万人にのぼる。東は朝鮮・日本、北はトルコをはじめ遊牧生活をいとなむ諸民族、西からは中央アジア・ペルシャ・インドからの留学生や商売人あるいは芸人たちと、さまざまな人びとがあつまってきた。まさに長安は、世界センターであった。(p.378-379)
その意味では、煬帝のはたした役割は大きい。
単純に、〝ダメな政治家〟とは、みなさいほうがいいかもしれません。
おわりに
旧版ながら、この「世界の歴史」シリーズは、かなり読みやすく、おすすめです。
ムズかしい用語を、ほとんどつかわず、一般の人がみても、わかるように書かれています。
なにより、知的好奇心をうながすように、歴史をたどるため、読んでいて飽きません。
ざっくり、かつ、ある程度、くわしく世界史の流れを知りたい人には、もってこいの1冊です。
よければチェックしてみてください。
ではまた〜。


