どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワードは?
・重要な人物は、だれ?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
② 宗教改革
③ 主権国家
④ 科学革命
⑤ スペインの動向
⑥ イギリスの動向
⑦ フランスの動向
⑧ ドイツの動向
・主権国家
・科学革命
・太陽の沈まぬ帝国
・オランダ独立戦争
・アルマダ海戦
・東インド会社
・王権神授説
・権利の請願
・名誉革命
・ユグノー戦争
・ナントの勅令
・三十年戦争
・ヴェストファーレン条約
・オーストリア継承戦争
・七年戦争
・カルヴァン
・カルロス1世(カール5世)
・フェリペ2世
・エリザベス1世
・クロムウェル
・アンリ4世
・ルイ14世
・マリア・テレジア
わたしたちが「あたりまえ」と思っている、文化・精神・制度は、1500年代〜1600年代のヨーロッパ地域で生まれました。
具体的には、
・宗教改革
・主権国家の構想
・科学革命
といったできごとです。
それにより、
・神からの脱却
・近代国家の整備
など、いまの近代社会につながる基盤がつくられました。
…
また、ヨーロッパ全体のしくみが変わるなか、各国のようすは、どうだったのか。
軸となる国は、
・イギリス
・フランス
・ドイツ
の4ヶ国です。
….
この記事では、つぎの本を参考にしました。
以下、目次にそって、みていきます。
近世ヨーロッパの歴史① ─ ルネサンス

「十字軍の遠征」が失敗して以来、教会・教皇の権威は、じょじょに下がっていきます。
そのなかで起きたのが、「ルネサンス運動(文芸復興運動)」です。
ルネサンスの背景
それまでは、「教会の言うことがゼッタイ」でした。
人間の世界は「神の摂理」によって動いている、と思われていました。
しかし、
・ペストの流行
などの影響で、世の中が混沌としていきます。
混乱した時代を経ることで、〝「神」中心の世界〟に、疑問をいだく人たちが増えていきます。
ルネサンス期の代表作
芸術家たちのなかで、「神」ではなく「人間」を中心にすえて、作品をつくる運動が起こってきます。
アーティストたちは、古代ギリシャ・ローマ文化を参照しつつ、新しい独自の文化をきずいていくわけです。
具体的な作品は、つぎのとおり。
・物語 → ボッカチオ『デカメロン』
・絵画 → ダヴィンチ 『最後の晩餐』『モナ=リザ』
・建築 → 『サン=ピエトロ大聖堂』
近世ヨーロッパの歴史② ─ 宗教改革

のべたとおり、教会・教皇の権威は、じょじょに下がっていきました。
1500年代には、〝ガタ落ち〟といえるほど、低下していました。
それにより起こったのが、「宗教改革」です。
プロテスタントの誕生
現在のキリスト教は、主に、
・プロテスタント
2つの宗派に分かれます。
「プロテスタント」は、この時期に生まれます。
誕生までのプロセスは、つぎのとおりです。
↓
・聖堂を建築するために資金をあつめる
↓
・司祭「ルター」が抗議(=プロテスト)
↓
・教会側、ルターの捕獲&暗殺を企てる
↓
・逃亡中、ルターが『新約聖書』をドイツ語に翻訳する
↓
・民衆が『聖書』を読めるようになる
↓
・抗議運動(=プロテスト)の多発する
↓
・「プロテスタント」が誕生する
きっかけは、資金を集めるために、教会が「贖宥状(しょくゆうじょ)」を発行したことです。
これをもっていれば、「死んだあと、天国へ行ける」と宣伝&販売しました。
〝神をけがすような〟ふるまいに、怒り狂ったのが、神学者の「ルター」でした。
それまで、聖書はラテン語が記述されていたので、聖書の教えは〝教会の独占物〟でした。
かれは『聖書』をドイツ語に翻訳し、ひとりひとりが「神の教え」を受けられるようにします。
これにより、それまでの教会が教えてきた内容と矛盾するはなしが、発覚していきます。
結果、〝化けの皮を剥がされた〟教会にたいして、民衆の反発が、強まっていきます。
ルター派/カルヴァン派/イギリス国教会
このあと「プロテスタント」は、つぎの3つの宗派に分かれていきます。
・カルヴァン派
・イギリス国教会
ルター派は、ルターの意志を受けつぐグループ。
カルヴァン派は、ルターと同時期に、スイスで教会を批判した「カルヴァン」から派生した集団 ─ 。
かれは「予定説」をとなえます。
と、主張しました。
イギリス国教会は、国王「ヘンリ8世」の離婚がきっかけで生まれました。
教皇に離婚を認められないために、みずから「イギリス国教会」を設立。
プロテスタントが生まれたことで、教会・教皇サイドは「カトリック」とみなされていました。
そのために都合よく、「イギリス国教会=プロテスタント」になったかんじです。
このように、「プロテスタント」の誕生をきっかけに、ヨーロッパ各地で、
へと流れが、すすんでいきます。
近世ヨーロッパの歴史③ ─ 主権国家

前回のべた「大交易時代」と、宗教改革・宗教戦争の影響で、国のしくみも変わっていきます。
中世後期のヨーロッパ ─ 封建制度
近世以前、中世後期では、ヨーロッパ諸国は、「封建制度」で成り立っていました。
封建制とは、
です。
騎士、農民などの平民は、フクスウの君主・領主と契約をむすび、土地を管理・活用するかわり、地代をおさめます。
近世以降 ─ 主権国家体制
けれど、君主からすれば、ほかの領主と戦争がおこったときに、平民がどれくらい協力してくれるか、わからない恐れがあります。
それを解消するために、土地の枠を明確にきめ、領内の民衆は、かならず戦争に参加する原則をもうけることにしました。
領内以外の君主とは、契約をむすばず、争いのときには、民衆が一体となって、敵とたたかうようになります。
このしくみを「主権国家」とよびます。
いまの「国民主権」につながる考えです。

しかしこの時点では、民衆は投票などによって、君主・領主を選べる権利をもちません。
内実は、主権国家の〝構想段階〟といったかんじです。
近世ヨーロッパの歴史④ ─ 科学革命

1500年代までは、「神」中心の世界観が、ヨーロッパの人たちに広がっていました。
しかし、
・宗教改革
をきっかけに、人間の
知の体系
が、転換します。
科学革命の背景
1600年代になると、人間の理性にもとづき、真理を探求する動きが出てきます。
具体的には、望遠鏡・顕微鏡などの道具をつかいつつ、観察&実験によって真理をみつける方法・態度です。
この流れを「科学革命」とよびます。
科学革命による成果
以下、3人の研究成果が、のちの世に影響を与えました。
・ニュートン → 万有引力の法則(物理学)
・デカルト → 合理主義(哲学)
ごらんのとおり、どの理論も、いまの科学&学問の中核をなすものです。
もちろん、かれらが単独で成果をあげたわけでありません。
たとえば、ガリレオは、コペルニクス → ケプラーの実証研究をもとに「地動説」を展開しました。
カコの成果を踏まえつつ、更新し、真理を探求する ─ 。
それが科学であり、この時代に生まれた「知的態度」なわけです。
…
以上の大きな流れをふまえて、ヨーロッパ各国の動向をみていきます。
近世ヨーロッパの歴史⑤ ─ スペインの動向

大交易時代を経て、勢力をのばしたのが、スペインです。
ヨーロッパ地域にかぎらず、世界全体でも、有数の繁栄国となりました。
この時代、スペイン国を率いたのが、「ハプスブルク家」でした。
海洋覇権の獲得 ─ 太陽の沈まぬ帝国
絶頂をきわめたのが、「カルロス1世」のときです。
その証拠に、かれは、「スペイン王」と同時に、「神聖ローマ皇帝」の座につきます。
別名「カール5世」 ─ 。
両国のトップに、君臨しました。
カルロス1世の死後、あとを継いだのが、「フェリペ2世」です。
かれは、海洋覇権を争う、ポルトガル王女「マリア・マヌエラ」と結婚 ─ 。
これにより、スペインが、世界全体の海洋交易をにぎることになります。
地球上、「どこかのスペイン領には日が昇っている」という意味で、
とよばれることになります。
ネーデルランドの独立
絶頂をきわめるスペイン帝国 ─ 。
けれど、フェリペ2世の時代、統治下にあった「ネーデルランド」(=オランダ)との争いに、敗れます。
きっかけは、宗教改革です。
カルロス1世は、神聖ローマ帝国の皇帝でもありました。
つまり、「ローマ=カトリック」を擁護していました。
いっぽう、ネーデルランド地域には、ルターの影響により、「プロテスタント」が広まっていました。
そのために、
vs
・ネーデルランド=プロテスタント
といった構図が、できあがります。
宗派の対立にくわえ、ネーデルランドは、以前からスペイン帝国による課税に苦しんでいました。
それにより、首領「オラニエ公ウィレム」を代表とする独立運動が起こり、戦争にまで発展します。
この争いを、「オランダ独立戦争」とよびます。
当初、大国であるスペイン帝国は、小国のネーデルランドを甘くみていました。
けれど、約20年間にわたって、抵抗され、治めることができません。
結果、戦争には敗れ、世界の海洋交易においても、勢力を失っていきます。
いっぽう、独立を果たしたネーデルランドは、「ネーデルランド連邦共和国」を樹立 ─ 。
スペインに代わって、世界の海洋覇権をリードすることになります。
近世ヨーロッパの歴史⑥ ─ イギリスの動向

衰退するスペイン帝国に、とどめを刺したのが、イギリスでした。
「アルマダ海戦」から「東インド会社」の設立
イギリスは、王女「エリザベス1世」のもと、絶対王政を敷いていました。
海洋覇権を握るべく、イギリスは、スペインに戦争をしかけます。
結果、「アルマダ海戦」で、スペインの「無敵艦隊(アルマダ)」を撃沈 ─ 。
スペイン帝国の衰退は決定的となります。
これにより、イギリスは、ネーデルラントと共に、世界の海洋交易を担うことになります。
具体的には、世界初の会社組織「東インド会社」を設立 ─ 。
それにより、インド地域を中心に、海外貿易を展開していきます。
「王権神授説」から「権利の請願」へ
海外では勢力を伸ばすいっぽう、国内は〝大荒れ〟でした。
エリザベス1世には、子どもがいませんでした。
そのため、かのじょの死後、北部のスコットランド王「ジェームズ1世」が、イングランド王の地位を兼ねることになります。
しかし、国王の権威を正当化する「王権神授説」をとなえます。
と、宣言します。
宗教も「イギリス国教会」しか認めず、信仰・信条を強要 ─ 。
事実上の「独裁」です。
かれのむすこ「チャールズ1世」も、同じような行動に出ます。
議会の決定は、無視 ─ 。
民衆にたいして、重税をかけます。
ガマンならない議会は、国王にたいして「議会の決まりを守れ」と、請願書を提出します。
これを「権利の請願」とよびます。
以降、国王/議会の対立がつづきます。
貴族のあいだでも、
・議会を支持する「議会派」
に分かれていきます。
ピューリタン革命
王党派/議会派の対立が激化し、ついに武力衝突が起こります。
議会派の急先鋒が、「クロムウェル」でした。
かれは、チャールズ1世に弾圧されていた「カルヴァン派」のリーダーに就任 ─ 。
「鉄騎隊」をつくり、王党派との争いにのぞみます。
結果、王党派の部隊を敗り、チャールズ1世を降伏 ─ 「公開処刑」に追いこみます。
カルヴァン派は、「プロテスタント」の一派で、英語では「ピューリタン」と発音します。
そのため、このできごとを「ピューリタン革命」とよびます。
独裁から王政復古へ
独裁から解放され、「共和政」を実現したイギリス ─ 。
しかし、議会の味方であるはずのクロムウェルが、旧国王と同じように、独裁に走ります。
勝手に「護国卿(ごこくきょう)」という役職をもうけ、永久に、君主の座に就こうとします。
じっさい、クロムウェルは死ぬまで、その地位を手放さずに亡くなります。
さらに、かれのむすこも、護国卿のポストを守ろうとします。
どうにもならない議会は、対抗措置として、フランスに亡命していた王子「チャールズ2世」を呼び寄せ、「王政」を復活させます(=王政復古)。
名誉革命 ─ 権利宣言
しかし、チャールズ2世は、クロムウェルのむすこ以上に、横暴なふるまいに出ます。
むりやり議会を解散させるなど、みずからに権力を集中させようとします。
またしても裏切られた議会は、新たな策を打ちます。
それは、
というもの。
まず、オランダから来た「ウィリアム3世」&「メアリ2世」を即位させる ─ 。
そのうえで、「国王よりも議会の立場が上である」と宣誓させます。
これを「権利宣言」とよびます。
以来、議会優先の政治が続けられます。
武力衝突なしに、成し遂げられたので、「名誉革命」とよばれます。
近世ヨーロッパの歴史⑦ ─ フランスの動向

この時期、「宗教改革」の運動が、いたるところで起こりました。
フランスも、例外ではありませんでした。
「ユグノー戦争」の勃発
百年戦争が終結してから、しばらくフランスは「ヴァロワ朝」が治めていました。
しかし「宗教改革」をきっかけに、内戦状態に入ります。
貴族のあいだで、
vs
・プロテスタント派(=カルヴァン派)
の対立が起き、武力衝突に発展します。
フランスでは、カルヴァン派を「ユグノー」とよびます。
そのため、この争いを「ユグノー戦争」といいます。
虐殺事件も、ひんぱんに起こり、内戦は泥沼化していきます。
アンリ4世による「ナントの勅令」
争いを収めたのが、ユグノー派の「アンリ4世」です。
「ブルボン家」出身で、ヴァロワ朝のあと、フランス王朝を引き継ぐことになりました。
「カルヴァン派」の支持者ですが、カトリック派の貴族から猛反発を受けます。
そこで、カトリックへ改宗するいっぽう、ユグノーにたいして「信仰の自由」を認めました。
この許しを「ナントの勅令(王令)」とよびます。
結果、ユグノー戦争は終結 ─ 。
フランス政治は安定し、経済面でも、じょじょに復興していきます。
バランスを感覚をもつアンリ4世は、名君として、いまでも評価されています。
ルイ14世による絶対王政
つづく、「ルイ14世」のときに、国王のチカラは頂点に達しました。
優秀な会計係、財務総監「コルベール」を側近においたことで、財政も恵まれます。
しかし、豊富な資金をいいことに、
・積極的な対外戦争
などなど、ジャンジャンお金を使います。
それにより、財政がキビしくなった王朝は、税率を引き上げることに。
結果、商業・工業者たちが国外に逃れ、フランス経済は停滞していきます。
さらに、アンリ4世がおこなった「ナントの勅令」を廃止し、ユグノー(プロテスタント)の信仰を禁止しました。
これにより、ユグノー派の多い民衆の反発をまねき、のちの「フランス革命」へとつながっていきます。
近世ヨーロッパの歴史⑧ ─ ドイツの動向

いっぽう、「宗教改革」の本拠地であるドイツも、大荒れでした。
ドイツ地域は、諸侯たちが、それぞれの領地をおさめていました。
ハプスブルク家が「神聖ローマ帝国」としてドイツ全体を統治しようとします。
けれど、ルターによる抗議以降、うまくいきません。
ほかの地域と同じく、諸侯のあいだでも、カトリック派/プロテスタント派の対立が、激しくなっていきます。
「アウクスブルクの和議」から「三十年戦争」へ
スペイン国王でもある「カール5世」は、なんとか内戦を収めようとします。
それぞれの諸侯が、カトリック or プロテスタント(=ルター派)を選択できるように図らいます。
神聖ローマ帝国が支持する「カトリック」を押しつけず、プロテスタントも認めました。
これを「アウクスブルクの和議」とよびます。
寛容な策にみえますが、これが〝裏目〟に出ます。
各諸侯が、カトリック/プロテスタントの「正しさ」を主張することで、争いが激化することに。
「三十年戦争」の始まりです。
すると、ドイツの混乱に乗じて、イギリス&フランス&スウェーデンも参戦 ─ 。
この戦争により、全ドイツ人の 1/3 が亡くなった、といわれます。
「ヴェストファーレン条約」の締結
「三十年戦争」の甚大でした。
反省した、戦争参加国は、
・内政への干渉を控える
といった、講和・協定をむすびます。
これを「ヴェストファーレン条約」とよびます。
条約締結により、ヨーロッパ全体を巻き込んだ「30年戦争」は終結 ─ 。
それにともない、神聖ローマ帝国も、事実上、解体します。
さらに、[カトリック vs プロテスタント]の宗教対立も、下火になっていきます。
プロイセン vs オーストリア
「三十年戦争」を経て、ドイツ地域で、勢力を伸ばしたのが「プロイセン」でした。
フリードリヒ1世&2世(=親子)の指導により、政治・経済・文化の面で、繁栄していきます。
いっぽう、神聖ローマ帝国が解体したあとも、ハプスブルク家の権威は、そのままでした。
「オーストリア」と名を変え、一諸侯として、権力を維持していました。
ウェストファリア条約を締結したばかりなのに、両国は戦争を始めます。
2回、おこなわれました。
- オーストリア継承戦争(第1回)
- 七年戦争(第2回)

それぞれ、みていきます。
オーストリア継承戦争(第1回)
ハプスブルク家の王女「マリア=テレジア」が、オーストリアを引き継ぐことになりました。
これに〝イチャモン〟をつけたのが、プロイセンでした。
─ こう主張して、宣戦布告します。
もちろん「女性の王位継承」は大義名分にすぎません。
じっさいは、オーストリアが保有する、大工業地帯「シュレジエン地方」をゲットするのが、ねらいでした。
結果、勢いのあるプロイセンに、いったんは領土を奪われます。
しかし、マリア=テレジアは、宿敵だったはずのフランスと協力 ─ 。
奪還を果たします。
七年戦争(第2回)
工業地帯「シュレジエン地方」を奪うため、ふたたびオーストリアが、戦争をしかけます。
オーストリアがフランスと協力していたので、プロイセンのほうも、イギリスに協力をもとめます。
こうして、
vs
プロイセン&イギリス
のあいだで争いが起こります。
結果、プロイセンの勝利で決着 ─ 。
「シュレジエン地方」は、そのままプロイセンが統治することになります。
まとめ
② 宗教改革
③ 主権国家
④ 科学革命
⑤ スペインの動向
⑥ イギリスの動向
⑦ フランスの動向
⑧ ドイツの動向
・主権国家
・科学革命
・太陽の沈まぬ帝国
・オランダ独立戦争
・アルマダ海戦
・東インド会社
・王権神授説
・権利の請願
・名誉革命
・ユグノー戦争
・ナントの勅令
・三十年戦争
・ヴェストファーレン条約
・オーストリア継承戦争
・七年戦争
・カルヴァン
・カルロス1世(カール5世)
・フェリペ2世
・エリザベス1世
・クロムウェル
・アンリ4世
・ルイ14世
・マリア・テレジア
この記事が、「近世ヨーロッパの歴史を知りたい人」の参考になれば、うれしいです。
ではまた〜。