どうも、りきぞうです。
大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。
社会人なってからは、[予備校講師 → ウェブディレクター → ライター]と、いろんな職業にたずさわってきました。
働き方についても、[契約社員 → 正社員 → フリーランス]と、ひと通り経験してきました。
働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。
・発想がすごいなぁ
と、思う人は、キホン、教養を身につけています。
なかでも、重要なのは「世界史」です。
ここ数年、ビジネスマンの必須知識として「世界史」が注目をあつめています。
ネット時代をむかえ、グローバル化が加速しているからです。
とくに、世界史をまなぶうえで、フランスの歴史は、必須です。
ヨーロッパ史において、フランスは、いつでもメイン・プレイヤーだからです。
とはいえ、フランスの歴史は、なかなかとらえてにくい。
そんなとき、つぎの本をみつめました。
著者は、フランス研究の第一人者 ─ 。
この本では、中世・近世フランス・「ヴァロワ朝」のながれをたどっていきます。
小説家でもあるため、文体にドライブ感があります。
物語のように、ぐいぐい読みすすめていけます。
中世・近世のフランス史を知るには、もってこい1冊です。
…
また本書は、フランス王朝史・シリーズの第2巻にあたります。
3冊とおしでみると、中世初期〜近代初期のフランス史を、ざっくり把握できます。
…
ちなみに、わたしは、Kindle 版で読みました。
以下、引用番号は、こちらの本によります。
目次
佐藤賢一『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』の概要
まずは、目次。
こんなかんじです。
第1章 幸運王フィリップ六世(1328年〜1350年)
第2章 良王ジャン二世(1350年〜1364年)
第3章 賢王シャルル五世(1364年〜1380年)
第4章 狂王シャルル六世(1380年〜1422年)
第5章 勝利王シャルル七世(1422年〜1461年)
第6章 ルイ十一世(1461年〜1483年)
第7章 シャルル八世(1483年〜1498年)
第8章 ルイ十二世(1498年〜1515年)
第9章 フランソワ一世(1515年〜1547年)
第10章 アンリ二世(1547年〜1559年)
第11章 フランソワ二世(1559年〜1560年)
第12章 シャルル九世(1560年〜1574年)
第13章 アンリ三世(1574年〜1589年)
おわりに 国家改造の物語
フランスは、カペー家のつぎに、ヴァロワ朝がおさめることになります。
歴代の国王をたどることで、フランス史のながれをみていきます。
キホン物語調になっているので、順々で読んでいくのが、おすすめです。
佐藤賢一『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』の詳細
以下、気になるトコをあげていきます。
ポイントは、つぎのとおり。
- 中世の王にとって、戦争は娯楽
- ヴァロワ朝における改革
- ジャンヌ・ダルクの観方
- ヴァロワ朝のまとめ
以下、ひとつひとつ、みていきます。
王にとって、戦争は娯楽
おもしろいのが、中世における戦争は、わたしたちが考えている争いとは、ちがうこと。
たとえば、ジャン2世は、イギリスにやぶれ、捕虜となる。
いまでいえば、絶望のふちにたたされるかんじです。
けれど、ジャン2世は、イギリスにひきわたされても、どうどうとしてました。
というより、国賓あつかいをうける態度で、敵国の地にわたります。
ポワティエの戦いの後は、ボルドーに連行された。が、それもジャン二世は意気揚々と白馬に跨り、かえって貴賓気取りだった。さらに船に乗せられて、一三五七年五月二十四日にはロンドンに到着したが、テムズ河岸のサヴォイ館に豪奢な居を構えながら、いよいよお呼ばれ気分である。
さらに着いたら着いたらで、相手国のお偉いさんたちは、狩り・踊りにさそいます。
歓待をうけるわけです。
狩猟もすれば、舞踏会も楽しみ、暮らしぶりは自由の身でいるときと変わらない。いや、それを来賓扱いにして、エドワード三世のほうも監禁生活を強いるではなかった。ここぞと華の騎士道にものをいわせて歓待しながら、これぞ中世の感覚なのである。(no.570)
つまり、国王・貴族にとって、戦争とは、ひとつの競技・ゲームみたいなものでした。
もちろん命をおとすことはあります。
とはいえ、戦争をしかけることは、べつにおどろくことではない。
交渉における、ひとつのカードみたいなもの。
王侯貴族にとって、戦争とは一種の娯楽だった。あるいは大きな遊びというべきか。今日にいうスポーツ感覚といえばよいのか。ジャン二世は軍の立て直しに取り組んだというが、それも次の試合は是非勝ちたいと、それくらいの思いからだ。(no.589)
このあたり、いまの「戦争」にたいするとらえたかたが、まるでちがいます。
なぜ中世においては、戦争ばかりおきていたのか。
そのあたりの疑問は、争いの意味にちがいがありそうです。
ヴァロワ朝における改革
カペー朝 / ヴァロワ朝のちがいは、国家組織&運営のありかたです。
カペー朝のときには、すでにフランスのトップに君臨していました。
けれどそのぶん、国防費・軍事費は増大 ─ 。
財政がひっ迫します。
それは、ヴァロワ朝になっても同じでした。
カペー朝のフランス王国は限界に来ていた。元が王冠をかぶった一豪族にすぎないものが、敵を退け、支配を拡げとやるうちに、一豪族の分を越えた戦争をする羽目になり、またその戦費も賄わなければならなくなったからだ。不都合はヴァロワ朝に替わるほど、いっそう顕著に表れてくる。(no.937)
そこで、ヴァロワ朝の国王たちは、税制と軍事制の改革に乗りだします。
・ジャン二世
・シャルル五世
などが、ひきつぎ、改良をくりかえすなかで、国王にたいする課税と、常備軍の設立をととのえます。
結果、シャルル6世のときに、ほぼ完成することになります。
フランス王は試行錯誤を繰り返し、そこからフィリップ六世、ジャン二世、なかんずくシャルル五世は、王政の新たなスタイルを取り出した。それを端的に示すのが、賢王が整備した国王課税と常備軍なのだ。(no.939)
広大の土地を管理するために、「中央集権国家」が、誕生します。
これがのちの「フランス絶対王政」へとつながっていきます。
後世その名で呼ばれる「フランス絶対王政」、あるいはパリの重視、パリの突出から語られる「中央集権国家」が、その歩みを始めようとしていた。フランス王がフランス全土を、王都パリから一元的に支配する。かかる新システムこそ、封主と封臣の結びつきを頼りに、国を国として緩やかにまとめるしかない封建制という旧システムに、徐々に取ってかわっていくものである。(no.945)
とはいえ、中国などにくらべると、だいぶ遅い印象をうけますね。
おそらくヨーロッパは小国が乱立した状態で、すべてをおさめる国家が、あらわれなかったのが要因です。
ヴァロワ朝にいたって、ようやく中央集権制をしくほど、広大な国家が、うまれたといえます。
もちろんそのまえに、ローマ帝国が存在しましたが。
ジャンヌ・ダルクのとらえかた
ヴァロワ朝時代のスターといえば、ジャンヌ・ダルクです。
英仏百年戦争の英雄ですね。
ときの国王「シャルル7世」を支援し、オルレアン地を救いました。
さいごは、イングランド軍につかまり、火刑にかけれらて亡くなります。
捕らえたのはブールゴーニュ公に仕える貴族、ジャン・ドゥ・リュクサンブールだったが、同盟関係ゆえにジャンヌの身柄は、イングランド王軍に引き渡された。ノルマンディ公領の首邑ルーアンで、「神の遣い」を称した女の宗教裁判が開始され、ジャンヌ・ダルクは異端犯罪人と認定された。その火刑が執行されたのは、一四三一年五月三十日のことである。(no.1670)
教科書などでは、聖女がフランスを救った、などと書かれます。
とはいえ、当時の人たちからみれば、ジャンヌ・ダルクは、そこまで注目にあたいする人物ではありませんでした。
じじつ、支援・救済してもらった「シャルル7世」自身、イングランドにつれさられたかのじょを、とりかえそうとした動きをみせていません。
おそらく後世のひとが、ジャンル・ダルクの存在(キャラ)に目をつけて、過度に英雄視したきらいがみられます。
オルレアンを救い、また自らを戴冠させてくれた恩人のために、シャルル七世が動いた形跡は認められない。ジャンヌ・ダルクが伝説になるのは後世の話であり、同時代的には気の利いたハプニングぐらいの意味しかなかったのかもしれない。(no.1698)
日本史でいえば「坂本龍馬」しかり、歴史にはありちがちなことですね。
ヴァロワ朝のまとめ
ヴァロワ朝について、全体をとおしてみると、戦争につぐ戦争、ということがわかります。
もちろん、戦争は交渉における〝カード〟にすぎません。
わりと気軽におこなわれていました。
それでも、トップの国王にとっては、あまりにストレスが大きかった。
ヴァロワ朝の時代を振り返れば、まさに戦争に次ぐ戦争の歴史である。大雑把な括りでいっても、十四世紀から十五世紀前半にいたる百年戦争を皮切りに、十五世紀後半がブールゴーニュ戦争とブルターニュ戦争、十六世紀前半がイタリア戦争、十六世紀後半が宗教戦争と、それこそ息継ぐ間もないくらいに連続している。かかる戦争を率い、あるいは営み、つまりは戦わなければならないとするならば、確かに王たちが感じていたストレスは、並大抵のものではなかったろう。(no.3959)
そのため意外なことに、国王の平均寿命は、前カペー朝の王たちよりも、短かった。
経済面でも豊かで、医療環境が整備されても、歴代の国王は、短命におわりました。
それだけで、外交・戦争のかけひきは、王個人に、つよい負担をかけていた、とわかります。
いっぽう、統治制度の面からみたばあい、ヴァロワ朝時代に、大きな進歩をとげました。
カペー朝のころまでは、封建制がメインでした。
そのために、地方の地主・貴族へ権力が集中しやすく、反乱もひんぱんにおこります。
国防・鎮圧のために、軍事費が増大 ─ 。
財政もひっ迫します。
たいしてヴァロワ朝では、「国王」の名のもと、徴税のしくみを整え、常備軍を設置します。
くわえて、首都パリに、司法機関をもうけ、法基盤を強化します。
これにより、中央集権体制ができあがり、以前よりも、地方地主による反乱も、減っていきます。
ヴァロワ朝のフランス王は従来の封建制とは全く違う原理において、国家制度の整備を進めた。なかんずく王だけが取りうる税金を課し、王だけが持ちうる常備軍を創設した。かねてからの司法行政機構も磨かれ、終局的には全てがフランス王に行きつくシステム、つまりは中央集権的なシステムも完成させた。(no.3999)
つまり、
・財政
・徴税
の分野で、フランス国王への権力集中がはじまったわけです。
これがヴァロワ朝時代の特徴です。
司法は下からバイイもしくはセネシャル、高等法院、そして王と上る。財政は課税が王、財務総督、そしてエリュと下り、徴税が徴税官、徴税官長、そして王と上る。行政はバイイもしくはセネシャル、州総督、そして王と上る。ところにより地方三部会が介在したり、独自の制度が設けられたりと、綺麗に一様というわけにはいかなかったが、それでも最後はフランス王につながったのだ。諸侯に寄り道するでなく、また外国の君主に流れ出るでもなく、きちんと王のところに 収斂 していく諸制度が、ヴァロワ朝の時代に確立されたのだ。(no.4015)
いっぽう、組織が強化されたぶん、国王個人が、〝好き勝手できる〟領域は、せばまっていきます。
そのため、法律・制度が、優先されるようになります。
けれど、ヴァロワ朝のフランス王国は会社形態なのだ。誰がトップに座ろうと、組織は組織として動く。王家は中央集権の制度を練り上げ、フランスの全てを一元的に支配できていたはずなのである。(no.4017)
ある意味で、しくみが健全に運用されていれば、「王はだれでもよい」といった雰囲気が、出てくるわけです。
優れたシステムが曲者だった。王につながる前、その途中でチョンと線を切られてしまうと、あっという間に優秀な反乱勢力ができあがるからである。王の手を離れてしまったシステムも、システムとしては相変わらず優秀なまま、それを横領する人間に大きな力を与えてしまうのである。(no.4024)
しくみが確立したぶん、 デメリットも生じます。
つぎのブルボン朝では、制度をふまえつつ、悪用するかたちで、〝好き勝手する〟者たちが、あられていくのです。
歴史をみると、これがベストだというルール・制度が、ないなぁとわかりますね。
環境・状況にあわせて、改良していくしかない ─ 歴史の教訓です。
本書は、ヴァロワ朝の視点から、フランス史のながれを、コンパクトにまとめています。
物語調で、すらすらよめます。
ざっくりと、フランスの歴史を知るには、役立つ1冊です。
よければ、チェックしてください。
ではまた〜。