どうも、りきぞう(@rikizoamaya)です。
大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。
社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。
働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。
働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。
・発想がすごいなぁ
と、思う人は、キホン、教養を身につけています。
なかでも、重要なのは「世界史」です。
ここ数年、ビジネスマンの必須知識として「世界史」が注目をあつめています。
ネット時代をむかえ、グローバル化が加速しているからです。
世界史といえば、ギリシャ・ローマなど、ヨーロッパがメインです。
とはいえ、ほかの地域も目をくばる必要があります。
なかでも中東エリアは、文明発祥地ということで大切です。
とくに、初期「古代オリエント時代」は、把握しておいたほうが良いです。
しかし、遠い昔で、なじみのない地域 ─ 。
理解するのは、たいへんです。
そんなとき、つぎの本を見つけました。
著者は、蔀勇造(しとみ ゆうぞう)さんは、アラビア古代史の専門家。
中東にかんする歴史書はたくさんありますが、「古代」をあつかう本は、わりと少ないのが現状です。
本書は、アラビア地域にスポットをあてて、中東全体の流れをみていきます。
すべての年代をおさめていますが、著者の専門である、[古代文明〜中世・イスラム勢力]の時期がメインです。
初期の中東史を知りたい人には、おすすめです。
目次
蔀勇造『物語 アラビアの歴史』の概要
まずは、目次から。こんなかんじです。
第2章 新旧勢力の交替と文明の変質
第3章 オリエント世界の三極構造化
第4章 アラビアの古代末期
第5章 イスラームの誕生と発展
第6章 沈滞と混迷の数百年
第7章 ヨーロッパ人の来航とオスマン朝の支配
第8章 独立と繁栄
1章・2章では、アラビアの特徴と、BC.1000年代の隊商都市文明について。
3章・4章で、「アクスム王国」「ヒムヤル王国」を中心に、アラビア諸王国の動向ついて述べていきます。
5章・6章で、イスラム勢力の発展をみながら、[小アジア → 北アフリカ → インド]に広まった背景・要因を探っていきます。
7章で、オスマン帝国の展開をみたあと、8章で、現代のアラビア地域についてふれていくかんじです。
メインは、1章〜6章、アラビア文明の発祥からイスラム勢力の普及・拡大のところです。
ラストの2章は、わりとさらっとしています。
「オスマン帝国」について知りたい方は、ほかの本にあたったほうがいいです。
蔀勇造『物語 アラビアの歴史』の詳細
以下、気になったトコをみていきます。
アクスム王国による統治
200年代のアラビアは、「アクスム王国」の影響力がつよく、実権をにぎっていました。
もともとは、アフリカ地域の国でしたが、海洋交易が栄えたアクスム王国は、対岸のアラビア半島もおさめていきます。
当時、イラン地域は「ササン朝ペルシャ」、ヨーロッパ地域は「ローマ帝国」が統治をおこなっていました。
ササン朝出身の「マーニー」という人物は、みずからの著書で、4つの帝国が世界をおさめているとし、
・ローマ帝国
・中華帝国
・アクスム王国
をあげました。
(※ ただし、欠損のため「中華帝国」は推測。)
当時の人物による記述からわかるとおり、アクスム王国は、それだけ「影響力」があり、〝名がとおって〟いたわけです。
彼〔マーニー〕はその当時の世界には四つの帝国があると言い、「バビロンとペルシアの帝国」(すなわちササン朝)、「ローマ帝国」に続いて三番目に「アクスム人たちの帝国」を挙げている。(no.1052)
ササン朝、ローマ、中国と並んでエチオピアの王国の名が四大帝国の一つとして挙げられているのは、実に驚くべきことであるが、サーサーン朝の領内で活動していたマーニーの目にアクスムの姿がそれほど巨大に映ったということは、当時この王国の勢力がその本来の領域を越えて、特に北方や東方に大きく広がっていたことを窺わせる。(no.1055)
3世紀から7世紀にかけてのオリエント世界では、〔……〕一般の通念として、東にササン朝、西にローマ(四世紀以降はビザンツ)、そして南にはアクスムと、三つの強国が鼎立していると認識されていたのではなかろうか。(no.1065)
つまり、古代中東エリアでは、ササン朝とならんで、アクスム王国の影響力はつよく、アラビア地域の統治していたといえます。
ただし、アクスム王国は、じかに統治していたわけではありません。
「ヒムヤル王国」など、ほかの国に管理を任せて、間接的に支配するのが、通常だったそうです。
なのでアラビア半島は、西にローマ帝国、東にササン朝、南にアクスム王国の三国に挟まれる場所に位置していました。
コレが、たび重なる〝緊張状態〟を生むことになります。
アラビアはこの三強国のまさに 狭間(と呼ぶには広すぎるかもしれないが)に位置していた。この地政学的条件が、その後数世紀間のこの地域の歴史に大きく作用することになる。(no.1067)
その後のイスラム勢力をふくめて、アラビア諸国は、つねに西のローマ帝国(=ビザンツ帝国)、東のペルシャ帝国の動きをみながら、ときに争い、ときに手をむすびながら、体制を保つことになります。
世界史の教科書では、ササン朝ペルシャが有名ですが、アクスム王国は、わりとスルーされています。
このあたりの支配状況も、本書みないと、なかなかわからないトコですね。
アクスム王国が統治できた要因
なぜ、アクスム王国は、南アラビア地域をおさめたのでしょうか。
カンタンにいえば、[地中海 → 紅海 → アラビア沿岸 → インド洋]の海洋交易ルートをおさえるためです。
交易による利益を確保するため、アラビア地域に港をつくり、そこを海洋交易の中継地にしていたわけです。
そのために、アフリカ大陸を拠点にするアクスム王国は、アラビア半島に進出し、領土をおさめました。
やはり交易の流れは、世界史の流れをみるうえで、たいへん重要です。
〔……〕アクスムはインド洋と地中海を結ぶ交易ルートのうち、紅海を通ってエジプトに向かう海上ルートのみならずシリアやペルシア湾方面に向かう陸上ルートをも支配下に置くことを、初期の段階から 狙っていたのではないかと推察できるのである。(no.1109)
南アラビア諸王国の終焉
うえにのべたとおり、アクスム王国は、アラビア半島の諸国を間接的に支配していました。
歴史上の南アラビアの諸王に比定不可能な支配者たちは、実はそれぞれが在位したとされる時期に、ヒムヤルに対して強い影響力もしくは宗主権を行使したアクスムの支配者ではなかったのか。(no.1310)
しかし、300年代以降、管理をまかせた「ヒムヤル王国」の内政が、じょじょに乱れていきます。
フクスウの国王が乱立し、権力が中枢が、どこにあるのか、わからない状況になります。
いったんは、政治能力の高い人物(≒ アビーカリブ・アスアドなど)などあらわれて、半島をまとめあげていきます。
とはいえ、100年くらいすぎると、ふたたび分裂状態になり、なかなか統一国家は、登場しません。
さらにここへ、西のビザンツ帝国、東のササン朝が、領土をねらい、混乱に乗じて、侵略してきます。
このように、アラビア地域は、周辺各国の思わくが、入り乱れる場所になっていきます。
とくに500年代に入ると、混乱の特徴が、よりあらわれるようになります。
〔……〕この時代にはビザンツ、サーサーン朝、ヒムヤル、アクスム、それにアラブの諸王国の思惑が、軍事・政治面のみならず宗教的対立も絡んで、非常に複雑化していた。(no.1921)
ビザンツ帝国 or ササン朝など、周辺の大国が、それぞれ小さな地域をおさめる国と手をむすび、アラビア国内で競わせる。
まるで、代理戦争のようになっていきます。
ビザンツとササン朝の間には 間歇 的に休戦条約が締結され、少なくともその間戦いは停止したが、条約には両国と同盟関係にあるジャフナ朝やナスル朝〔ともに、アラビア地域をおさめる小国〕に関する取り決めがなかったということもあり、両帝国の休戦期間中もアラブ同士の戦いは、宗主国の代理戦争の様相を呈しながら続いた。(no.1951)
むかしから、いかにアラビア半島が、不安定な場所に位置しているか、わかります。
最終的には、アラビア地域でイチバン影響力のあった「ヒムヤル王国」は、ササン朝に滅ぼされます。
ここに、BC.1000年からつづく、「アラビア諸王国」は、崩壊します。
しかし、ササン朝が統治したあとも、なかなか混乱はおさまりません。
そんな秩序が乱れた状態から、600年代に、アラビア都市「メッカ」で、イスラム教が生まれ、勢力を拡大していきます。
イスラム勢力による統治
5章〜6章にかけて、イスラム教の誕生と普及・拡大について述べていきます。
イスラム誕生の背景
世界史の教科書などでは、
↓
モラル・道徳が乱れる
↓
貧困救済&秩序回復のため、ムハンマドがイスラム教を設立
というストーリーがフツーです。
しかし、これには疑問があります。
というのも、当時のメッカは、そこまで商業が発展しなかったからです。
〔……〕ムハンマドが活動したころのメッカは、成年男子の数が2千数百人、〔……〕全体では子供や郊外の居住者も含めて1万人程度の人口を有する都市に成長していたらしい。当時のアラビア半島ではかなり大きな町であったことは間違いない。とはいえ、商業のレベルが右に記した規模であった以上、経済の繁栄により社会的不公正や個人の倫理観の欠如が目にあまる爛熟(らんじゅく)したメッカ、というのはどうも想像しにくい。(no.2606)
つまり、経済格差が要因となって、イスラム教が生まれた、というはなしにはムリがあるわけです。
では、イスラム教が誕生した背景には、なにがあるのか。
それは、商業発展にともなう経済格差というより、
です。
うえにのべたとおり、アラビア半島は、西のビザンツ帝国、東のペルシャ帝国に挟まれた場所にあります。
不安定な地域にありながら、さらにここに、ユダヤ教 vs キリスト教の宗教対立が起こります。
政治・宗教、両方の面で、混乱していたアラビア地域では、秩序回復のため「預言者」「メシア」を待望する雰囲気になっていたのではないか ─ 。
本書では、そのように指摘します。
当時のアラビアには、預言者やメシアを待望する空気が充満していたのではないだろうか。ではそのような社会的雰囲気を醸成した主因は何であったのかと考えて思い当たるのが、アラビアが数世紀来その下に置かれてきた外圧なのである。(no.3053)
ユダヤ教徒とキリスト教徒の争いに、政治的な異民族支配が絡む戦争が続き、最終的にペルシア人の支配を受け容れざるをえなかった南アラビアの人々は、特にそのような苦境からの解放を望む気持ちが強かったであろう。 (no.3063)
イスラム教祖のムハンマドは、人びとの願望・要求に、いち早く気づき、平和のための教えを説いた。
これが、イスラム教が誕生した背景だと、著者は主張します。
ちなみに、全体をとおして、この箇所が、イチバンの読みどころだと感じます。
フツーの教科書とは、はなしがちがうため、異論もあるはず。とはいえ、個人的には、著者の意見には説得力があると感じます。
イスラム勢力は、なぜ戦いつづけたのか?
人びとの平和のために誕生した「イスラム教」ですが、それなのに、かれら信者は、なぜ戦いつづけるんでしょうか。
それには、イスラム勢力の組織がカンケーしています。
アラビア半島を安定させるため、ビザンツ帝国&ペルシャ帝国を追いはらい、戦争をつづけるイスラム勢力 ─ 。
秩序回復のための争いですが、それ以上に、イスラム組織を構築・存続するためには、他国との戦争は、不可欠でした。
支配領域が拡大することで、組織安定がムズかしくなるイスラム勢力は、共通の敵をさだめ、メンバーの結束を図っていった。
これが、戦いをつづけた理由です。
世界平和とは、かけ離れた行動ですが、このような背景があったわけです。
いったん解散してしまうと、彼ら〔イスラム軍人〕を統制するのは非常にむずかしく、ある意味危険なことでもあった。彼らを軍として組織したままで政権に従わせるには、戦いを継続して勝ち続けるのが一番の良策だったのである。(no.2875)
コレなんかも、いまも変わらず、よくあるはなしですよね。
ひとは同じ過ちをくりかえすといいますが、このような構図を知るのも、歴史の〝醍醐味〟〝意義〟だと思います。
おわりに
本書は、日本にとってなじみのうすい、アラビア地域をとりあげ、中東の歴史をたどっていきます。
古代中東史の一般書が少ないなか、この本は、たいへん貴重です。
[文明発祥〜イスラム成立]まで、くわしく述べているので、とても参考になります。
イスラムが誕生した背景についても、教科書とはことなる意見が出され、勉強にもなります。
じゃっかん学術よりなかんじはしますが、わりと読みやすいと思います。
とくに、初期の中東史を知りたい方には、おすすめです。
よければ、チェックしてみてください。
ではまた〜。