【書評】F.A.ハイエク『隷従への道』感想&レビューです。

どうも、りきぞう(@rikizoamaya)です。

大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。

社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。

働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。

人口減少社会をむかえる日本にとって、政府による保障は、いつも問題になりますね。

マクロな視点にたって、市場と政府のカンケーをとらえる必要があります。

先日、時間があったので、あらためてつぎの経済書を読んでみました。

F.A.ハイエク『隷従への道』


著者は、オーストリアの経済学者で、歴史上の人物といっていいくらい有名な人です。

本書は、1944年に出版され、経済学では古典とされています。

原題は、『The Road to Serfdom』です。

タイトルどおり、メインテーマは、当時、世界的に〝猛威をふるっていた〟全体主義にたいする批判です。

いっぽうで、経済(市場)にたいする政治(政府)にあり方について述べています。

そのため、財政政策や社会保障など、いまの政府の指針を検討するうえで参考になります。

市場と政府のカンケー、経済政策や社会保障政策を考えたい人には、おすすめの1冊です。

ちなみに、いくつか翻訳が出版されていますが、わたしは「西山[訳]」で読みました。

以下、引用のページ番号も、この本によります。

F.A.ハイエク『隷従への道』の概要

目次はこんなかんじ。

序章
第1章 放棄された道
第2章 偉大なユートピア
第3章 個人主義と集産主義
第4章 計画の「必然性」
第5章 計画と民主主義
第6章 計画と法の支配
第7章 経済の管理と全体主義
第8章 誰が、誰を?
第9章 保障と自由
第10章 最悪の人間が指導者になるのはなぜか
第11章 真実の終わり
第12章 ナチズムを生んだ社会主義
第13章 いまここにいる全体主義者
第14章 物質的な条件と観念的な目標
第15章 国際秩序の要望
結論

序章〜2章で、当時、影響のあった全体主義を批判します。

3章で、思想的なテーマにふれ、個人と社会のカンケーについて述べます。

4章〜7章で、政府による計画経済を批判。

8章〜9章で、最適な政府のあり方について。どのように経済政策をおこない、社会保障を実施すればいいのかを述べています。

10章〜13章で、ふたたび全体主義を批判。

14章〜15章で、理想的な経済状態を指摘し、これからの目標を述べていきます。

メインテーマは、「全体主義批判」で、なぜ政府による計画経済はよくないのか、をくりかえし述べています。

具体的な政策を示すよりも、マクロな視点から、市場経済にたいする政府介入のあり方を論じている印象です。

F.A.ハイエク『隷従への道』で気になったトコ

以下、引用をのせつつ、気になった箇所についてコメントしていきます。

自由主義者の考え方

自由主義者(リベラリスト)の考えはさまざまですが、なかでも重要なのは「市場競争を支持する」点です。

というのも、市場での競争をうながすほど、ひとりひとりの自由度が上がるからです。

つまり、個人の自由を担保するための手段として、市場競争を利用するわけです。

自由主義者の主張は、どんな分野であれ、有効な競争が作り出されることが可能性があるなら、それはどんなやり方にもまして、諸個人の活動をうまく発展させていくのだという、確信に基づいている。(041)

なので、単純に競争を肯定しているというよりも、自由を確保するために支持しているんですね。

それにともない、市場競争を維持するために、

  • 政府による法の整備
  • 時代にマッチしない法の改善

をあげます。

「市場への政府介入」には、つねに関心をはらっておく

国家のチカラが強い時代とあって、マーケットにたいする政府介入には、「つねに関心をもつように」と注意をうながします。

「経済活動に介入する権力を軽視すべきではない」と警告します。

「多くの人々は、経済生活に行使される権力は、二次的に重要性しかない事柄に向けられていて、経済目的を追求する自由を脅かすようになることは少ないだろうと信じ、安心している 〔……〕それはまったく根拠のないものだ」(117)

経済活動を優先する理由

お金を得ようと努力するのは、労働の結果を楽しむ際に、お金こそが最も広い選択の幅を与えてくれる。

経済活動によって、お金をゲットできますが、それ自体が目的ではありません。

経済活動が大事なのは「自由を担保する」ため。

物欲を満たすよりも、政府や組織からの介入をおさえるための手段として有効だからです。

もちろん経済活動には「格差」「貧困」がつきものだが、それらを改善しようと、政府に頼ろうとすると、ますます不自由になる。

というのも、政治・政府は、自由をもたらすより、法律によって、個人の自由のしばり、ルールづくりにはげむため。

そのために、カンタンに国家に頼るのは、ひかえたほうがいい。

貨幣の所得には限界があって、相対的に貧困を感じ、それを制約と捉えるために、現代の人々は貨幣をその象徴として憎むようになってきている。しかし、それは、力を具現化させるための手段を、目的と取り違えているのだ。

市場競争のメリット

反対に、市場経済は、ひとりひとりに自由をもたらす。

原則、どんな人でも、市場競争に参加できるため、その意味では、政治領域よりも公平性が確保されている。

取り立てて見目もよくないのに、売り子嬢になりたいと思っている女性でも、頑健でなければ勤まらないような職業に進みたいと思っている病弱な青年でも、また、もっと広い意味で能力や適性に明らかに欠ける人の場合でも、競争社会では必ずしもその職から排除されてしまうわけではない。もしそういう人が、その仕事をきわめて価値があると思っているのなら、低賃金という金銭的犠牲を覚悟でその職に就いてみることは十分できるし、やがて隠れた才能が発揮され活躍するようになることもあるだろう。(122)

たとえば、「職業選択の自由」も、その1つ。

(労働)市場での競争が、うながされているほど、職業移動がカンタンにできる。

「職業選択の自由」が、最善の世界においてすら限定を伴っていることは、疑えない事実である。どれを選ぶかを迷うほど多くの選択肢を持っているような人は、ほぼ存在しない。だが重要なことは、いくばくかの選択肢があるということ、また誰かによって与えられたにせよ、自分が過去に選んだにせよ、ひとつの仕事に永続的に縛られることはないということ、そして、耐えられなくなったり、気持ちが他に向かうようになったときには、能力があり、いささかの犠牲を払う覚悟さえあれば、新たな職業への道がほとんど常に用意されていること、である(120)

最適な政府保障とは?

もちろんすべて市場に任せれば良いわけではない。

ある程度の保障は必要。

具体的には、一人の力では保証の準備できないリスクには、政府はサポートをする。

病気や事故の場合と同様、災害を避けようとする欲求や災害の結果を克服しようとする努力が、国家の援助が準備されていたにしても弱められない場合、つまり、完全に保険によってしか対処しようのないリスクを処理しようとする場合、社会全体を覆うような保険組織を作るために国家が援助すべきであるということは、きわめて正当な主張である(156)

つまり、経済活動に参加できる自由を確保するかぎりにおいて、政府による介入は認める、ということです。

リバタリアン(自由放任主義)とされるハイエクも、市場への政府の介入をある程度は容認しています。

政府の介入


個人に降りかかるリスクを取り除く


市場を機能させる

この流れを保つかぎりでは、市場への政府介入も認めるわけです。

「なんでもかんでも、市場の自由にまかせろ」と言ってるわけでない点が、ポイントですね。

ダメな政治介入

とはいえ、公共政策については、かなり慎重になるべきです。

たいていのケースは、市場競争をさまたげてしまい、結果、個人の自由を奪うことにつながります。

経済学者の中には、政府の大規模な公共事業がきわめて巧みなタイミングで実施されることによって、初めて本当の解決ができるのだと信じている人々もいる。だが、このような解決策は、自由競争の領域にはるかに深刻な制限をもたらすかもしれない。この方向へ向けての実験がなされると、すべての経済活動が、政府統制と財政支出の増減に、より大きく依存していくことになる可能性があり、それを回避したいのであれば、その一つ一つの政策ごとにきわめて慎重に考察をしていかなければならない(155)

こんなかんじで、つねに政府介入にはギモンをもち、コトあるごとに、慎重な態度でのぞむべきと注意をうながします。

おわりに

みたとおり、政府介入のあり方が、メインテーマになっています。

背景には、全体主義が〝猛威をふるっていた〟ことがあり、時代が生み出した書物といえます。

とはいえ、具体的な政策提案もなく、抽象的なはなしみえますが、マクロな視点で「市場経済にたいする政府のあり方」を考えたいときには、役に立つ1冊です。

とくにいまは、政府よりも経済のチカラが強くなってきたので、その視点から、本書を読んでもおもしろいと思います。

よければチェックしてみてください。

ではまた〜。