どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なできごとは、なに?
・重要な人物は、だれ?
きょうは、この問いに答えていきます。
先に結論をいえば、つぎのとおり。
りきぞう
・大事なキーワードは、「アンカラの戦い」「ウイーン包囲」「カピチュレーション政策」「ミレット制」の4つ
・重要な人物は、「メフメト2世」「スレイマン1世」「セリム2世」の3人
期間&場所は、1300年代〜1600年代の中東地域です。
オスマン帝国の歴史については、[形成 → 発展 → 衰退]の流れをおさえれば、すっきり理解できます。
ポイントは、つぎのとおりです。
- ① オスマン帝国の形成
- ② オスマン帝国の発展
- ③ オスマン帝国の衰退
….
この記事では、つぎの本を参考にしました。
以下、目次にそって、みていきます。
目次
オスマン帝国の歴史① ─ 帝国の形成

オスマン帝国は、1300年代〜1900年代にかけてつづいた長期帝国です。
小アジアを拠点に、[アラブ半島 → バルカン半島 → 北アフリカ]に進出 ─ 。
長いあいだ、ヨーロッパ諸国に脅威をあたえました。
国家の成立
1299年、トルコ系の部族が、小アジアに国家を建てました。
これがはじまりです。
1300年代に入ると、ビザンツ帝国がおさめていた「バルカン半島」に進出します。
それにともない、じょじょに国としてのカタチができあがってきます。
vs ティムール帝国
ヨーロッパ方面に進出するあいだに、東方から「ティムール帝国」の侵攻してきます。
迎えうつかたちで、「アンカラの戦い」で激突します。
ですが、百戦錬磨のティムールに、敗れてしまいます。
それにより、一時は、崩壊の危機に直面します。
しかし、ティムール軍は、小アジアから中国(=明王朝)への侵略のため、攻撃の向きを変えます。
そのために、とどめを刺されずに済み、かろうじて存続することに。
vs ビザンツ帝国
その後、創始者「ティムール」が亡くなると、ティムール帝国は、一気に崩壊をむかえます。
敵国が衰退するいっぽう、オスマン帝国は再興を果たします。
立役者は、「メフメト2世」 ─ 。

かれは、オスマン帝国において「中興の祖」と、よばれます。
外政では、軍隊を組織化し、積極的に海外遠征に乗りだします。
そして、「コンスタンティノープル」の陥落に成功 ─ 。(1453年)
ビザンツ帝国を倒し、東ローマ帝国を滅亡させます。
東方・キリスト教世界の崩壊は、ヨーロッパの人びとに衝撃をあたえました。
メフメト2世は、首都を「コンスタンティノープル」にうつし、都市名を「イスタンブール」に変えます。
統治のしくみ
政治運営は、トルコ人主導でおこなわれました。
イスラムの最高指導者「カリフ」から、称号をうけた「スルタン」が実権をにぎっていました。
いっぽう帝国内には、
・エジプト人
・ギリシア人
・スラヴ人
・ユダヤ人
など、さまざまな人種・民族が暮らしていました。
信仰する宗教も、バラバラです。
けれど、オスマン帝国の君主たちは、みずからはイスラム教を信仰しつつも、領土内の人びとに「改宗」を迫りませんでした。
宗教面では、寛容政策を採用したわけです。
これが、オスマン帝国の繁栄へと、つながっていきます。
多様な人種・民族をかかえることで、経済を発展させていきます。
オスマン帝国の歴史② ─ 帝国の発展

[小アジア → バルカン半島]をおさめたオスマン帝国 ─ 。
メフメト2世が亡くなると、むすこの「セリフ1世」があとを継ぎます。
勢いは衰えず、「イラン方面」へ、領土を拡大 ─ 。
さらに、
・アラビア方面
にも進出を果たします。
イスラム聖地「メッカ」「メディナ」をおさえ、事実上、イスラム共同体のトップとして君臨します。
スレイマン1世 ─ 「第一次・ウイーン包囲」
つづけて、「スレイマン1世」の治世になると、「東ヨーロッパ」にたいする遠征を始めます。

フランス王「フランソワ1世」と同盟をむすびつつ、共通の敵である「神聖ローマ帝国」と激突 ─ 。
結果、「ウィーン」を包囲するほどまでに、迫りました。
このできごとを「第一次・ウイーン包囲」と、よびます。(1529年)
神聖ローマ帝国の敗北は、ヨーロッパの人びとに衝撃をあたえました。
いっぽう、フランスとはそのまま、同盟関係を維持します。
フランスを窓口に、ヨーロッパ地域との交易を、活発におこないます。

セリム2世 ─ 「カピチュレーション政策」
つづいて、「セリム2世」のもとでは、国内の経済政策が強化されます。

かれの時代、ヨーロッパ諸国の商人(=フランス商人)を、積極的に受けいれます。
この施策を、「カピチュレーション政策」と、よびます。
ヨーロッパ商人にたいして、オスマン領内での、
・貿易
・通商
を、許可します。
それにより、国内市場を発展させます。
…
いっぽう、外政においては、ひきつづき東地中海の覇権をにぎり、海洋交易を強化します。
16世期・中頃までに、
・西アジア
・北アフリカ
にまたがる「大帝国」を築くことになります。
この時点で、オスマン帝国/ヨーロッパ諸国とのあいだに、力の差は、ほぼありませんでした。
繁栄の要因 ─ 官僚制&ミレット制
1400年代〜1500年代にかけて、発展・拡大したオスマン帝国 ─ 。
繁栄の要因は、
- 整備された官僚制
- 寛容な宗教政策(=ミレット制)
の2つとされています。
それぞれ、カンタンにみていきます。
整備された官僚制
オスマン帝国は、地方/中央の〝すみわけ〟が、うまくされていました。
地方では、騎士にたいして、封土(ティマール)をあたえ、税を徴収 ─ 。
納税のかわりに、それぞれの自治をみとめていました。
いっぽう、中央では、実力・能力主義を採用 ─ 。
宗教・民族・身分をとわず、幼いときから、教育の機会をあたえ、優秀な者から、軍事・政治運営にあたらせます。
キリスト教徒の臣民から、(徴税として)少年を徴用し、訓練 ─ 。
そのうえで、スルタンの直属軍に組み入れます。
この直属部隊は、「イェニチェリ軍」とよばれました。
かれらは、あまりに〝残忍〟だったので、恐怖のマトでした。
寛容な宗教政策 ─ ミレット制
いっぽう、宗教にたいしては「寛容政策」をとります。
・アルメニア=キリスト教
・ユダヤ教
などなど、それぞれの宗教共同体を、イスラム法の庇護民とみなし、受け入れます。
ひとつひとつの共同体を「ミレット」としたことから、この制度を「ミレット制」とよびます。
税さえ納めれば、自治権を認め、ゆるく管理しました。
イスラム教徒/その他の教徒との〝優遇差〟がなくなり、宗教の共存が、図られました。
オスマン帝国の歴史③ ─ 帝国の衰退

スレイマン1世〜セリム2世のとき、オスマン帝国は最盛期をむかえます。
[ヨーロッパ〜アフリカ〜アジア]にかけて、大帝国を築きます。
しかし、1500年代・後半から、衰退期に入ります。
要因は、
・過剰なインフレ
です。
それぞれ、カンタンにみていきます。
衰退要因① ─ 征服のいきづまり
ウイーンに侵攻・包囲しますが、失敗におわります(=第2次・ウイーン包囲)。
これを機に、海外遠征は、いきづまっていきます。
じっさい、ウイーン包囲の失敗後、帝国軍は「バルカン半島」から撤退 ─ 。
ヨーロッパ諸国の連合軍におされるかたちで、都市・ブタペストを奪われます。
約20年後には「カルロヴィッツ条約」を締結され、統治下にあったハンガリーを放棄することになります。
以後、ヨーロッパ諸国にたいする侵攻・統治は、できなくなります。
衰退要因② ─ 過剰なインフレ
外政での失敗のほか、国内経済も乱れていきます。
スペイン&ポルトガルの「新大陸」進出にともない、アメリカから「銀」が大量に流入 ─ 。
それにより、帝国内は、過剰なインフレに、みまわれます。
結果、信用不安がおこり、傭兵「イェニチェリ」による暴動など、ひんぱんに地方で反乱もおこります。
くわえて、軍事費の増大により、財政も悪化。
有効な経済政策をとれず、国内経済は疲弊していきます。
オスマン帝国の衰退&崩壊
以上2点から、オスマン帝国は、国内の統制が困難になっていきます。
政治は腐敗し、スルタンの権威も低下 ─ 。
歴代の君主も、財政再建を図ろうとしますが、ムダでした。
むしろ、民衆の反発をまねき、国内は、いっそう混乱します。
地方から「有力者」がうまれ、各アラブ人が、自立・独立していきます。
最終的には、国内で革命が起こり、オスマン帝国は崩壊します(1922年)。
現在はトルコ共和国が、オスマン帝国の領土をおさめています。
まとめ
まとめると、
りきぞう
・大事なキーワードは、「アンカラの戦い」「ウイーン包囲」「カピチュレーション政策」「ミレット制」の4つ
・重要な人物は、「メフメト2世」「スレイマン1世」「セリム2世」の3人
といったかんじ。
この記事が、「オスマン帝国の歴史を知りたい人」の参考になれば、うれしいです。
ではまた〜。


