どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・ハラージュ(土地税)
・ウマル
・ウスマーン
・アリー
・征服地にはミスル(軍営都市)をたて、異教徒にたいしてもジズヤ(人頭税)とハラージュ(土地税)を払えば、かれらの信仰を認めた
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
正統カリフ時代① ─ 4人のカリフ
イスラーム教をひらいたムハンマドが生きているあいだに、ムスリム勢力はアラブ一帯をすでにおさめていました。
しかしムハンマドが亡くなると、後継者をめぐって混乱が生じます。
ムハンマドにちかしい人たちはカリフをトップにたてて、内部のゴタゴタをおさえようとしてます。
カリフとは「預言者の代理人」という意味です。
以降、選出されたカリフが、神の言葉を預かる者としてイスラーム全体を導いていくことになります。
もちろん選出されたといっても、きほんムハンマドの近親者 or 友人でした。イスラーム教徒全員の選挙で選ばれるわけではありません。
ムハンマドの死後、4人のカリフが選出されました。
それぞれの名前は、つぎのとおりです。
・ウマル
・ウスマーン
・アリー
いっぱんに、かれら4カリフがトップについていた時期を「正統カリフ時代」とよびます。
なかでも4代目のアリーが重要です。
彼はムハンマドの娘の夫でした。そのためムハンマドとの血縁がつよく、のちの世になって「アリーこそがもっともカリフにふさわしい」とされるようになっていきます。そう考える派閥を「シーア派」とよびます。
反対に、血縁にこだわらず、カリフの正当性を重んじる派閥を「スンナ派」とよびます。
このときうまれた[スンナ派 vs シーア派]の対立は、いまでもイスラーム内部に亀裂をもたらすことになります。
正統カリフ時代② ─ ジハード
ムハンマドの死後も、アラブ一帯をおさめたイスラーム勢力は征服活動にはげみます。
その背景には、いまだ信用のないカリフが、みずからの権威を高めるために戦いに乗りだすという事情がありました。
これらイスラームによる征服戦争を「ジハード」とよびます。
初代カリフのアブー=バクルの時代には、アラブ一帯の反乱をおさえることにいそがしく、ジハードはそれほどさかんにおこなわれませんでした。
しかし2代カリフのウマルのころから、本格的に聖戦が開始されます。
まず東方においては、イラン一帯をおさめていたササン朝ペルシャを圧倒的な勢いで打ち倒します。
宿敵ビザンツ帝国との争いで疲れてきってササン朝は、新興イスラームの敵ではありませんでした。
ニハーヴァントの戦いで決定的な勝利をおさめ、その後、滅亡させるにいたります(651年)。
いっぽう西方の地中海沿岸ではビザンツ帝国へと兵をすすめます。
こちらもすでにササン朝ペルシャとの争いでか国力が弱っていたために、苦戦することなく戦いにのぞむことになります。
ササン朝とはちがい滅亡とまではいかなかったものの、それまでビザンツ帝国がおさめていた、
・エジプト
の征服に成功しています。
以後ビザンツ帝国は、ふたつの地域を取りもどすことはありませんでした。
正統カリフ時代③ ─ ジズヤとハラージュ
さいごに、正統カリフ時代の統治制度をみていきましょう。
ムハンマドの死後、歴代のカリフたちは、うまく国をおさめるために、さまざまな工夫をこらします。
まず、ジハードによって獲得した領地に「ミスル」とよばれる軍営都市をたて、アラブ人たちの移住をうながします。
さらに移り住んだ軍人にたいしては「アター」とよばれる俸給をあたえ、かれら家族がミスルで生活できるようサポートします。軍人だけでなく家族全員が移住したことで、軍営都市だったミスルは経済都市として発展していきます。
また異教徒にたいしてはジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を支払えば、各自の信仰は認められました。
いっぽうで、イスラームに改宗すれば税を免除する措置をとったために、改宗者がふくれあがり、じゅうぶんな税を回収できない、という問題が生じます。
この事態が、のちの統治運営に大きな影響をあたえることになります。
おわりに
正統カリフ時代をついてみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・ハラージュ(土地税)
・ウマル
・ウスマーン
・アリー
・征服地にはミスル(軍営都市)をたて、異教徒にたいしてもジズヤ(人頭税)とハラージュ(土地税)を払えば、かれらの信仰を認めた
この記事が、正統カリフ時代を知りたい人の参考になれば、うれしいです。
では、また。