どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・イクター制
・スルタン
・十字軍
・アナトリアのトルコ化
・ニザーミーヤ学院
・歴史書『集史』
・ニザーム=アルムルク
・カザン=ハン
・ラシード=アッディーン
・ブワイフ朝で始まったイクター制は、ほかのイスラーム諸国へと普及していった
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
イランのイスラーム王朝&国家① ─ ブワイフ朝

全イスラム勢力をひきいていたアッバース朝が衰退したあと、イラン方面でも地方勢力が台頭してきました。
さいしょに勢力をのばしたのがブワイフ朝です。
カリフの形骸化と大アミール
かれらはアッバース朝とは異なり、スンナ派ではなくシーア派の立場をとります。軍事力をつけたあとは、アッバース朝の都バグダードを占領します(946年)。
ただしバグダードを配下におさめながらも、アッバース朝は滅ぼさず、カリフの権威を認めました。
その代わりに「大アミール」とよばれる軍司令官の地位をゆずりうけ、軍事権とイスラーム法にもとづく統治権を獲得します。
ここからわかるとおり、ブワイフ朝以降は、アッバース朝カリフの称号は、完全に名目化し、形式的なものとなります。
アター制からイクター制へ
また、報酬のしくみも変更されます。
それまでは有力なムスリムに俸給を支払うアター制が採用されていました。けれど、ブワイフ朝ではこの制度を廃止しイクター制を採用します。
これは、
です。
かたくるしい言いまわしだと「分余地(ぶんよち)制度」とよばれたりします。
要するに、中央から給料を送らずに、軍人には土地を分け与えて、そこで生活のやりくりをしてもらう、というしくみです。
中枢の王朝からすれば、管理負担が減るぶん、国の統治はラクになります。いっぽう民衆からすれば、各軍人からキツい徴税にあうため、生活は苦しくなっていきます。
イランのイスラーム王朝&国家② ─ セルジューク朝

アッバース朝に代わり、ブワイフ朝が実効支配していながらも、100年ほど経つと、じょじょに権勢が衰えていきます。
そのなかで勢力をのばしてきたのがセルジューク朝でした。
トゥグリル=ベクによって建国され、中央アジアからバグダードへ進出し、ついには入城をはたします(1055年)。
ブワイフ朝を滅ぼしたあと、かれらが採用していたシーア派をしりぞけ、スンナ派の立場をとります。
約100年ぶりに、スンナ派のイスラム王朝がもどってきたかたちです。
称号スルタンの獲得
いっぽうで、ブワイフ朝と同じく、アッバース朝のカリフを称号は廃することはありませんでした。
代わりに、カリフからスルタンを称号を獲得し、イスラム世界を実効支配していきます(1058年)。
スルタンとは、
のことです。
その後、スルタンの称号は、歴代の王朝に引き継がれていきます。
初代のドゥグリル=ベクは、1055年にバグダードに入城し、ブワイフ朝にかわって、保護下においたアッバース朝カリフから、スルタン(支配者)の称号に授けられた。スルタンの称号は、これ以後、イスラム世界の君主の称号として広く用いられるようになる。(p.136-137)
─ 『詳説 世界史研究』
十字軍の遠因とアナトリアのトルコ化
外征においては、おもに小アジア地域に兵をすすめます。
マンジケルト戦いでは、ビザンツ帝国をやぶり勝利をおさめます。
この争いに敗れたビザンツ帝国は、東地中海の沿岸地域に覇権がおよばないことを恐れ、西ヨーロッパ諸国にたいして遠征軍を要求します。
この軍隊こそが、あの有名な「十字軍」です。
マンジケルト戦いは小規模なものでしたが、十字軍遠征のきっかけとなった意味では、たいへん重要な戦争でした。
またビザンツ帝国に勝利したセルジュークは、その後も小アジアの内陸部へ進出していきます。
これによりアナトリアのトルコ化がすすみ、ここからのちに、トルコ系王朝のオスマン朝が生まれてきます。
イクター制の完成
さきにみたとおり、ブワイフ朝ではアター制に代わり、イクター制がとられました。
セルジューク朝でもイクター制がそのまま継承されますが、じつはしくみとしては不十分で、じゅうぶんに税を聴取できていませんでした。制度の欠陥をなおし、あらためて整備したのが、宰相ニザーム=アルムルクでした。
彼は、ときのスルタンであるマリク=シャーにつかえ、セルジューク朝に繁栄をもたらします。ニザーム=アルムルクが宰相についていたときが、セルジューク朝がもっとも隆盛した時期でした。
ニザーム=アルムルクは、たいへん優れた宰相で、彼が改修をほどこしたイクター制は、その後のイスラム王朝に、そのままのかたちで引き継がれていきます。
ブワイフ朝に始まるイクター制は、セルジューク朝の時代に完成し、イスラム世界に広まっていった、といえるでしょう。
いっぽうで、ニザーム=アルムルクは、スンナ派を保護するために、全国各地にニザーミーヤ学院を建てていき、イスラム学の向上にもつとめました。

イランのイスラーム王朝&国家③ ─ ホラズム=シャー朝

イスラム世界にたいして、さまざまな貢献をはたしたセルジューク朝ですが、治世100年も過ぎると、ほろこびがみえはじめてきます。
代わりに台頭してきたのが、中央アジアでおこったホラズム=シャー朝でした。
セルジューク朝と同じくトルコ系の王朝で、イラン&アフガニスタンに支配の手をのばしていきました。
統治は安定したものの、北方からやってきたチンギス=ハンの征服をうけ、あえなく滅亡するにいたります。
イランのイスラーム王朝&国家④ ─ イル=ハン国

チンギス=ハンの遠征により、ホラズム=シャーを滅ぼし、代わりにイランの地を支配したのが、イル=ハン国です。
建国の時点では、すでにホラズム=シャー朝を滅亡させたチンギス=ハンは亡くなり、むすこのフラグが王朝をたてました。
その後もフラグは、西方への軍をすすめ、バグダードにねらいをさだめます。
結果、圧倒的な兵力をほこるモンゴル軍のまえに、イスラム勢力の兵士たちは、なすすべがなく、ついにはアッバース朝が滅亡することになります。
13世紀になると、モンゴルの勢力が中央アジア、イラン方面に進出してきた。モンゴルの侵攻は〔略〕ホラズム=シャー朝にたいする遠征にはじまり〔略〕フラグがバグダードをおとしいれ、カリフを殺害した。〔略〕イラン・イラクを領有したフラグは、そこにイル=ハン国をひらいた。(p.137)
─ 『詳説 世界史研究』
モンゴル帝国のイスラーム化
バグダードに侵入した時点で、イル=ハン国は、国教にイスラム教を採用していませんでした。
そのため、アッバース朝の伝統や、カリフの権威を気にすることなく、剣をふるい、歴史の舞台から追いおとすことができました。
とはいえ、ときが経つと、イル=ハン国においてイスラム教がじょじょに浸透していきます。
ついには、第7代ガザン=ハンのときには、彼自身が改宗し、イスラムを国教として採用します。
そのため、イル=ハン国も、イスラム王朝のひとつとして数えられることになります。
ラシード=アッディーン『集史』
いっぽう、イル=ハン国では、文化や学術が大いに発達します。
なかでも、宰相ラシード=アッディーンによる『集史』は、モンゴル史とイスラム史を融合させたものとして、ユーラシア大陸史の描写に、大きく貢献しています。
いまだじゅうぶんな研究がなされていないため、『集史』を主軸にして新たなユーラシア大陸史が新たに書き記されるかもしれません。
ティムール朝による侵略
イル=ハン国もまた、歴代のイラン地方王朝と同じく、約100年ほど権勢をふるいます。
しかし、じょじょに統治のタガがゆるんでいき、中央アジアでおこったティムール朝に滅ぼされることになります。
以降は、ティムール朝が、イラン一帯をふくめ広範囲にわたり、勢力を広げることになります。
おわりに
イラン地方のイスラーム王朝についてみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
② セルジューク朝の歴史
③ ホラズム=シャー朝の歴史
・イクター制
・スルタン
・十字軍
・アナトリアのトルコ化
・ニザーミーヤ学院
・歴史書『集史』
・ニザーム=アルムルク
・カザン=ハン
・ラシード=アッディーン
この記事が、イラン地方のイスラーム王朝の歴史を知りたい人の参考になれば、うれしいです。
では、また。




