どうも、リキゾーです。
これまで、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。
働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。
このあいだ、H.アレント『人間の条件』を読みました。
タイトルは重々しいですが、意味合いとしては「ひとの行動を制約するもの」といったかんじです。
自然や世界にたいする人間のふるまいを「労働」「仕事」「活動」に分けて説明していきます。
「活動」については、政治的なニュアンスがつよく「働く」を考えるうえでは参考になりません。
いっぽう「労働」と「仕事」については、いまの「働く」を考えるうえではチェックしておいて損はありません。
若い世代はもちろん、これから10年以上「働こう」と考えているひとにとっては必読本です。
世の中の変化をふまえ、仕事のあり方を見なおしたい人にはおすすめです。
目次
『人間の条件』の概要
目次はこんなかんじ。
第1章 人間の条件
第2章 公的領域と私的領域
第3章 労働
第4章 仕事
第5章 活動
第6章 〈活動的生活〉と近代
1章で、扱うテーマと用語の説明。
2章で、人間が活動する空間=領域を考察する。
3章〜5章では、ひとの「働く」を「労働」「仕事」「活動」に分けて、それぞれ詳細をのべていきます。
ラスト6章で、近代の価値観にふれながら、いまの「働き」「活動」のあり方を考察します。
『人間の条件』で気になったトコ
引用をのせつつ、気づいた点をのべていきます。
労働とは?
労働 labor とは、人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力である。人間の肉体が自然に成長し、新陳代謝を行いない、そして最後には朽ちてしまうこの過程は、労働によって生命過程の中で生みだされ消費される生活の必要物に拘束されている。そこで、労働の人間的条件は生命それ自体である。(019)
アーレントは、「働く」を「労働 labor 」と「仕事 work」に分けます。
そのうえで「労働」をうえのように定義します。
つまり、自己保存だけを目的とした「働く」を「労働」と名づけます。
現代(近代)の価値観からすれば「あたりまえ」かもです。
しかし……。
古代ギリシャでは「労働」は軽蔑されていた
古代において労働と仕事が軽蔑されたのは奴隷だけがそれにたずさわっていたためであるという意見は、近代歴史家の偏見である。古代人は逆に考え、生命を維持するために必要物に奉仕するすべての職業が奴隷的性格をもつから、奴隷を所有しなければならないと考えていたのである。(137)
ポイントは「奴隷だから軽蔑されていたわけではない」トコです。
因果関係が逆です。
「自己保存しかできないような「働き」(=労働)しかできない」ために蔑まれ「奴隷」と見なされました。
労働にたいする軽蔑は、もともと、必然(必要)から自由になるための猛烈な努力から生まれたものであり、痕跡も、記念碑も、記憶に値する偉大な作品も、なにも残さないような骨折り仕事にはとても堪えられないという労働にたいする嫌悪感から生まれたものにある。(135)
〔……〕〈労働する動物〉のこの無世界性は、私たちが「善行」の活動力に固有のものとして見てきた世界の公示からの世界からの積極的逃亡とは異なる。〈労働する動物〉は、自分の肉体の私事の中に閉じ込められ、だれとも共有できないし、だれにも完全に伝達できない欲求を実現しようともがいている。そうである以上、彼は、世界から逃亡しているのではなく、世界から追放されているのである。(177)
さらにギリシャでは、都市(ポリス)が豊かになるにつれて、人びとが「ヒマ」になると、手をつかう「働き」は、ほとんどか軽蔑の対象となりました。
この労働にたいする軽蔑は、市民がポリスの生活にますます多くの時間をとられるようになり、政治的なものを除いてすべての活動力を自制して、余暇(スコレー)を持たざるをえなくなるにつれて広がかった。そしてついに、この軽蔑は、骨折り仕事を必要とする一切のものを対象とするようになった。(135)
いっぽう、近代〜現代にかけては「労働」の立場は引きあげられ、それに従事する者は「まじめ」「エラい」と見なされるようになりました。
とはいえ、アーレントはこの事態を疑いをもってながめています。
「労働」の価値が高まっても、けっきょくは「生産と消費のプロセス」をくりかえすだけ。
そこに〝人間的な豊かさ〟を味わえないからです。
古代ギリシャの市民のように、私的領域(プライベート空間)から離れ、生活の必要性に終われない者どうしが自由に討論したり、アートを見せあう活動こそ価値がある──彼女はこう考えているようです。
その意味では、いまの「豊かさ」は、どこかニセモノっぽく、人生を充実させるには程遠いと考えているようです。
仕事とは?
仕事 work とは、人間存在の非自然性に対応する活動力である。〔……〕仕事は、すべての自然循環に際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。〔……〕この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。(019-020)
仕事とは、物理的な自然現象に反して、永続するようなモノ(=アート作品など)を残す行為です。
その担い手は「工作人 homo faber」です。
仕事に従事する人=工作人とは?
彼が自分自身と自分の行為の主人である〔……〕彼が自分自身と自分の行為の主人であるからでもある。これと同じことは、自分自身の必要に従属している「労働する動物」についてはいえず、また、自分の仲間に終始一貫依存している活動の人にもいえない(233)
実際、〈工作人〉は支配者であり、主人である。それは、彼がすべての自然の主人であり、またすべての自然の主人として自分を打ち立てたからである。しかし、そればかりではなく、彼が自分自身と自分の行為の主人であるからでもある。(233)
自分自身の必要に従属している〈労働する動物〉についてはいえず、また、自分の仲間に終始一貫して依存している活動の人についてもいえない。ただひとり未来の生産物についてイメージをもつ〈工作人〉だけが自由に生産し、自分の手の仕事を自由に破壊するのである。(233-234)
なにより自分の命を好きなように扱え、自分が作ったモノにたいして自由に扱えます。
労働する人=〈労働する動物〉とは、立場が異なります。
〈労働する動物〉の場合、その社会生活は、世界を欠き、獣の群れの如きものであり、したがって公的な世界の領域を建設する能力も、そこに住む能力ももたない。それに反して、〈工作人〉は、正確にいえば政治領域ではないにしても、それ独自の公的領域をもつ能力を完全にもっている。その公的に領域とは、交換市場であり、そこでは彼は自分の手になる生産物を陳列し、自分にふさわしい評価を受けることができる。(255)
つまり、労働する人が私的領域に留まったままですが、仕事する人は公的領域に向きあい、自らの製作物を自由に交換でき、人びとと対等に交流できます。
ココがイチバンの違いです。
『人間の条件』のまとめ
もうお分かりでしょうが、いまは近代のピークに位置しています。
とくに仕事については価値が大きく揺らいでいます。
これまでは自己保存のため(食うため)の「働き」を良しとしてました。
けれどこの考えは通用しなくなっています。
食べるだけを目的としない「働き方」──。
ソレがどんなものなのか。
「労働」「仕事」に分けて、ひとの「働く」を考察したアーレントの本は、見つめなおすキッカケになります。
よければチェックしてみてください。
ではまたー。

