ベルクソン『笑い』感想&レビューです。

どうも、コント作家のりきぞうです。

きょうは、ベルクソンの『笑い』をレビューしていきます。

翻訳はたくさん出ています。

そのなかから、参考にしたのはこちら。

訳がわかりやすく、フロイトの論文も付いているおまけつき。

以下、引用番号は、この本によります。

ベルクソン『笑い』の概要

大まかな内容は、つぎのとおり。

  • 笑いの定義
  • 笑いの要素
  • 笑いのメカニズム
  • キャラクターにおける笑い

はじめに「笑い」を定義します。

そのうえで、笑いを

・動き
・状況
・言葉
・性格

4つの要素にわけ、それぞれの特徴をあげていきます。

つぎに、笑いのメカニズムを分類します。

・反復
・逆転
・交錯

の3つです。

ひとがなにかをみて笑うとき、いずれかのしくみがはたらいています。

さいごに、性格(キャラクター)における笑いです。

笑いのしくみを理解したい人にはおすすめの1冊です。

ベルクソン『笑い』の詳細

ポイントはつぎのとおり。

  1. ① 笑いの定義
  2. ② 笑いの要素
  3. ③ 笑いの3つのメカニズム
  4. ④ 言葉における笑い
  5. ⑤ キャラクターにおける笑い

以下、ひとつひとつみていきます。

① 笑いの定義と分類

笑いとは、ぎこちなさです。

たとえば、歩いていた人が転んだとき。

そのようすがおかしいのは、なめらかな動き(=徒歩)のなかに、ぎこちなさ(=転倒)をみるからです。

笑いを誘うのは、注意深い柔軟さや生き生きとした屈伸性がほしいところに、一種の機械的なぎこちなさが見られたからである(p.19)

自然に動いていたものが、異なる動きをみせるとき、人は笑います。

また、ここでいうぎこちなさは動作にかぎりません。

感情だったり、出来事だったり、いろいろです。

たとえば、浮気の疑いをかけられた夫が、奥さんの追求でシドロモドロになるとき。

これは感情のぎこちなさということになります。

ぎこちなさが生まれる条件は、以下の3パターンです。

1.自然のものより、人工のものを優先するとき

人工のものとは、法律や組織といった、目に見えない制度のこと。

たとえば、つぎのような場面 ─ 。

・おカタい役人さんが「ルールを破るなら、ルールを守って死んだほうがマシ」と言いはなつ
・理論に反する事実を突きつけられた学者が「経験のほうがまちがっています」と言い訳をする

じっさいに目にしたら笑ってしまうはず。

人工的なルールを、ムリにあてはめるとき、そのようすが、笑いをひきおこします。

自然のなかに嵌めこまれた機械仕掛けと社会のなかに自動化された法規という、面白い効果をもった二つのタイプに辿りつくことになる。結論のために残るところは、この二つを結合すると何が出てくるかを知ることである。その結果は、言うまでもなく、人間の定めた法規が自然法則そのものにとって代わるということである。(p.40)

2.ココロへの注目を、カラダにむけるとき

たとえば、お葬式の席で、足がしびれて、動けない親族をみたとき。

コントではおなじみのシーンですね。

これが笑えるのは、ほんらい親族のキモチにむけるべき関心を、カラダのほうへむけてしまうため。

ココロに注目しなくてはいけないときに、カラダに注意をむけてしまうとき、人は笑ってしまいます。

一方には聡明に変化するエネルギーに満ちた精神的人格、他方には愚かしくも単調に機械的な執拗さでスイッチオンとオフを繰り返す身体。その身体の欲求がケチくさく一律的ものになればなるほど、滑稽感はいっそう強まるにちがいない。(p.49)

3.カラダがモノのように扱われるとき

カラダが、モノのようなあつかいを受けているとき、人は笑います。

バラエティ番組でおなじみの「人間大砲」はその典型ですね。

これは〝ぎこちなくない〟はずのカラダが、「モノ=大砲」として扱われ、そこに機械的な動きをみるために、わたしたちは笑ってしまう。

たとえば、小説『ドン・キホーテ』 ─ 。

従士「サンチョ・パンサ」が、ゴムまりのように弾むシーンがあります。

人が物であるような印象を与えるすべての場合に、わたしたちは笑う。毛布のなかに投げ込まれたサンチョ・パンサがゴムまりのように宙に舞うとき、大砲の弾になったミュンヒハウゼン男爵が空を飛ぶとき、わたしたちは笑う(p.55)

これは、逆も同じです。

人間 → モノではなく、モノ → 人間のときも、笑いがおきる。

人形を人間にみたてる「腹話術」は、まさにそうです。

② 笑いの要素

つづけて、笑いの要素について。

笑いといっても、その内容はさまざまです。

痛がるリアクションで笑ったり、気の利いたフレーズで笑ったり。

数ある種類のなかで、ベルクソンは笑いを4つに分けます。

・動き
・状況
・言葉
・性格

です。

まず、動き ─ 。

この笑いは単純です。

叩かれる人や転ぶ人をみたとき、わたしたちは笑います。

そこまで考える必要はありません。

それにくらべて、状況、言葉、性格における笑いは、フクザツです。

・どういう状況で笑いが起きるのか
・どんな言葉をきいたとき笑うのか
・どんな性格の人をみて笑うのか

ひとことでは、いえません。

けれど、わたしたちが笑うときのパターン(=笑いのメカニズム)は存在します。

状況・言葉・性格 ─ どの要素であっても、笑いのメカニズムがはたらいています。

③ 笑いのメカニズム

ある出来事や、なにかを作品をみて笑うとき、

・反復
・逆転
・交錯

いずれかしくみがはたらいています。

うえ3つのメカニズムが機能するとき、ひとはコントや喜劇をみて、「おかしい」とかんじます。

「ホントかよ」って思いますね。

とりあえず、ひとつずつその特徴をみていきましょう。

ある程度、納得するはずです。

反復

反復とは、

環境が変わっても、それまでと同じアクション、セリフ、出来事をくりかえすようす

をさします。

たとえば、席上、かしこまった口調で貴族が話すシーン ─ 。

そのあと、キッチンのうらで、召使たちがかしこまった口調で話すようすみれば、わたしたちは笑ってしまう。

貴族でもないのに、召使いが〝お高くとまった話し方〟をしているからです。

人物が貴族 → 召使へ、環境が社交界 → 調理場へ変わっているのに、語り口が、同じだからです。

ベルクソンは、こういいます。(すこしフクザツですが。。)

反復 ─ ここで問題にするのは〔……〕状況すなわち諸事情の結合が何度も同じ形でそのままあらわれて、刻々と変化する生の流れと対照をなすということである。 〔……〕たとえば、ある日、しばらく会わなかった友人に、街でひょっこり出会ったとしよう。そのことは少しもおかしいことではない。しかし、もし同じ日にふたたび、いやそれどころか三度も四度も出会ったとしたら、友人とわたしは一緒になってその「偶然の一致」を笑うことだろう。 〔……〕進行してゆくその出来事のただなかに(……)同一場面が繰り返しあらわれると想定してみよう。これもまた偶然の一致というものではあるが、しかし普通の程度を越えたものであると言えるだろう。

要するに、環境が変わっても、アクションやセリフがそのままだったら、笑っちゃうよねってことです。

たとえば、結婚式が終わっているのに、ずっとウェディングドレスを着ている花嫁さんだったり、30年勤め上げ定年をむかえたオジさんが、ネクタイをしめて町をあるく姿だったり。

状況や環境が変わっているのに、それまでと同じ行動をしているから、おもしろい。

ちなみに喜劇やコントでは定番ですが、漫才などでも天丼という用語でよく使われます。

逆転

逆転とは、

ひとつの出来事がキッカケで状況がひっくり返り、地位や役割が反転するようす

をさします。

たとえば、何軒もの家に盗み入ったドロボーが、自分の家が盗難に合い、犯人から被害者の立場に変わる ─ など。

このメカニズムはわりとよく目にするため、理解しやすい。

ベルクソンは、こういいます。(こちらもフクザツですが。。)

ある一定の状況のなかに何人かの人物が置かれていたとする。その状況を裏返しにして、人物たちの役割をあべこべにすれば、滑稽な場面が得られることになる。 〔……〕そうした対称的な二場面は、観客の前で演じられなくても構わない。二つの場面が間違いなく思い浮かべられさえすれば、一つの場面だけでもじゅうぶんなのである。判事に説教しようとする被告、親に勉強しようとする子ども、要するに「逆さま世界」という項目に分類できるものをわたしたちは笑うのである(p.82-83)

どういった立場の人をひっくり返すのか、逆転させる状況をどうつくり出すのかが大事。

作品のよしあしもそこで決まります。

交錯

3つのしくみのなかでは、イチバン説明しにくい。

交錯は、

1つの言葉や1人の人物が、2つの意味をもつために、まわりから誤解されるようす

をさします。

ほんとうは1つの意味しかないのに、もうひとつの意味で受け取られる状況を目にするとき、わたしたちは笑います。

ドラマや喜劇では定番です。

たとえば、みすぼらしいおじいさんがじつは社長で、それを知らずに平社員がタメ口をきいたりする。(『釣りバカ日誌』)

自分宛のラブレターだと思い込み、相手のとの結婚生活を空想する。(シェイクスピア『間違いの喜劇』)

さいきんでは、アンジャッシュさんが得意とする「すれ違いコント」なんかも、交錯による笑いといえます。

ベルクソンは、こう言います。

まったく独立した二系列の出来事に属し、まったく異なる二つの意味に同時に解釈される状況はつねに滑稽である(p.84)

またコントや喜劇などでは、交錯による笑いは、パターン化されています。

つぎのようなかんじです。

まず、2つの意味をもつキャラクターが登場します。まわりが誤解しているのを利用して、自分がトクをするように、ひとりひとりに違ったやり取りします。

しかしだんだん事実が明らかになり、それまでのウソが見破られていく。最後に正体がバレてしまう。

推理小説の流れに似ていますが、それとはちがい、コントでは最後のオチはたいして重要じゃありません。

むしろ、それが事実が明らかになるまえに、秘密を隠すキャラクターがアタフタしたり、正体がバレないよう変装したり。

そのプロセスのほうが大事で、見る人もそこでイチバン笑います。

ベルクソンもこの点を指摘しています。(しかし、言いまわしがムズカシイ。。)

(……)それぞれの登場人物に関係するそれぞれの系列は、他の系列とは独立に進展していく。ところがある瞬間に、そうした諸系列が互いにぶつかり合うことになる。それらのうち一系列に属する所作とせりふが他の系列にも適合するという条件が満たされるときである。ここから登場人物のあいだで勘違いが起こり、ここから二様の意味が生じることになる。 しかし、そうした二様の意味そのものは滑稽ではない。二様の意味は、それが二つの独立した系列の一致をあらわすからこそ滑稽なのである。

たとえば親族のフリをして病室に紛れ込む葬儀屋さん。

「臨終でのお悔やみ」「カネ儲け」という2つの文脈を背負う人物が、葬儀代をかすめ取るため、肉親を装い、まわりと一緒に悲しむフリをする。

立場や目的がバレないよう、いくつも手段を使って、病人が亡くなるまで親族と仲良くする。そのやり取りを見て笑う。

喜劇作家は、観客の注意と独立の一致というこの二重の事実を引きつけるべく、つねに工夫を凝らしていなければならない。通常それは、いま一致している二系列もいつ分離するかわからないと絶えず見せかけることによって成し遂げられる。あらゆる瞬間にすべてが壊れそうになり、すべてが元に戻りそうになるのである。 この働きこそが、二つの相矛盾する断定のあいだで観客のこころが行き来すること以上に、観客を大いに笑わせるのである。そしてそれがわたしたちを笑わせるのは、それによって喜劇的な効果の源泉である二つの独立した系列の交錯が、見ている人の目には明らかになるからである。(p.86)

ちなみに、交錯による笑いを利用して、コントや喜劇をつくる場合、以下の手順をとると、うまく書けます。

④ 言葉における笑い

状況での笑いを例にして、3つのメカニズムをみてきました。

このメカニズムは、ほかの場面でもおきています。

とうぜん言葉においても、3つのしくみは機能しています。

動きやできごとを反映しているのが言葉だからです。

それぞれの特徴をみていきましょう。

本書『笑い』では、[逆転 → 交錯 → 反復]の順ではじめています。

著者によれば、創作する人がこれらのしくみで、喜劇などをつくる場合、この順で難易度が上がっていくためです。

しかしこの記事ではわかりやすく、 [反復 → 逆転 → 交錯]の順でみていきます。

言葉における反復

反復とは、環境が変わっても、それまでと同じアクション、セリフ、出来事をくりかえすようすを指すといいました。

この特徴は言葉における笑いでもいっしょです。

言葉における反復とは、ひとことで言えば、同じ意味の内容を、異なる口調で話すようすをさします。

たとえば、ある電車の車内で、先生の悪口をしゃべっている女子高校生がいたとします。

「うるさいぁ」と思い、べつの車両に移る。

もしそこで同じ女子高校生が同じ先生の悪口を耳にすれば、きっと笑ってしまうでしょう。

このように、言葉における反復の笑いとは、同じ意味の内容を、異なる口調で話すだけで起こる、ということがわかります。

ただし反復される2つの口調が正反対であればあるほど、より笑いが起きやすくなります。

たとえば、さきほどの貴族/召使いの例では、ある内容について貴族が議論する内容を、召使いが下ネタを混ぜながら下品に話せばおもしろさは増します。

ベルクソンはこう指摘します。

対比の両極端、つまり最大と最小、最善と最悪とがあり、そのあいだで転位が前者から後者へ、またはその逆へとおこなわれる。両極端の間隔が狭くなるほど、両項のあいだの対比はあからさまではなくなり、滑稽な転位の効果は繊細なものになっていく。(p.107-108)

ちなみに、言葉における反復は2つに分類できます。

深くて重い内容を、浅くて軽い口調でしゃべれば「パロディ」になります。

また価値のない内容の話を大げさに語れば「誇張」になります。

このあたりまたおいおい検討したいですね。

逆転

はじめに言ったとおり、言葉による逆転は、そこまでむずかしいものではありません。

というより、ふだんの会話でしょっちゅう聞きます。

一般的には「ウィットにとんだセリフ」とか「機転のきいた会話」なんて言われます。

ベルクソンも、言葉の逆転の例を出しながら、こう指摘します。

ラビッシュの喜劇で、ある人物が自分のバルコニーを汚す上の階の借家人に向かって、次のように叫ぶ場面がある。「なぜわたしのテラスの上にパイプの吸いがらを捨てるのですか」。すると借家人がこう答える。「なぜわたしのパイプの下にテラスを出しておくのかね」。しかし、この手の機知についてはくどくど言う必要はないだろう。例は枚挙にいとまがない(p.103)

言葉の逆転は、ありふれています。コントや喜劇のつくり手にとっては、そこまで難易度は高くありません。

それでもあえて、やり方をパターン化しようとすれば、意味を変えずに正反対のフレーズで言いかえる、ということになります。

じつはうえの引用でのやり取りも、この手順でつくられています。より単純化しみましょう。

 おまえは、なんてバカなんだ。
 あなたは、なんてカシコいんだ。

Bは、バカ/カシコい、と正反対のフレーズをつかい、意味を変えずに言い返しています。

これで笑いが起こります。

交錯

交錯とは、1つの言葉や1人の人物が、2つの意味をもつために、まわりから誤解されるようすを指すといいました。

このなかの言葉がコレにあたります。

よりカンタンにいえば、交錯の言葉とは、2つの意味を含んだ1つの単語や文章ということになります。

わかりやすいところだと「ダジャレ」や「皮肉」です。

たとえば、赤点をとった生徒に先生が「立派だよ」と言ったとすれば、「立派」には「すばらしい」と「おろか」、2つの意味が込められています。

⑤ キャラクターにおける笑い

場面や言葉などで共通する、笑いのしくみをみてきました。

性格でも、反復、逆転、分類のメカニズムからキャラクターによる笑いを整理できるはずです。

けれど、本書ではくわしい説明をしていません。

なので、ひとまずキャラクターにおける笑いの特徴をみていきます。

笑いの定義から、性格における笑いを考える

笑いは「ぎこちなさ」から生まれます。

自然に動いていたものが、ヘンな動きをみせたり、スムーズに進んでいたコトが、異なる状況をみせると、わたしたちは笑います。

これは「性格による笑い」も同じです。

ポジティブな人がネガティブになったり、おだやかと思っていた人がブチ切れたり。

Aという性格で通っていたものが、Bという性格にかわるとき「ぎこちなさ」が生まれ、それをみて、わたしたちは笑います。

登場人物をおかしいと感じる理由

ただし、おもしろいタイプ=キャラを、キリがありません。

ひとつひとつおもしろい性格を分類しても退屈なだけです。

本文では、ある性格が笑いを引き起こす条件をあげます。

つまり、ある性格の人を「おかしい」と感じる前提条件を指摘します。

その条件とはなにか。

それは、その性格に同情しない、ということです。

ある人物のキャラを笑うためには、その相手に肩入れしない、共感しない、親しみを感じないことが必要になります。

「自分なら絶対にそうしない」「やることなすことが理解できない」と思えるキャラだからこそ笑えます。

ベルクソンはこう言います。

どんなに軽微なものでもよいから、欠点を一つ描いてみてほしい。それがわたしの共感や懸念、あるいは憐れみのこころを動かすように示されたなら、もう終わりである。わたしはもうそれを笑うことはできない。 それとは反対に、根が深い問題ばかりではなく、一般的に言っておぞましい悪徳を選んでみてほしい。それが適切な技巧によってわたしの心を動かさないように提示されたなら、それは滑稽なものになりうるだろう。その悪徳が滑稽になるとわたしは言うのではない。 わたしが言うのは、そうすればその悪徳は滑稽になり得るということである。わたしの心を動かしてはいけない。これがおそらく十分ではないにせよ、実際に要求される唯一の必要条件である。(p.116-117)

どんな災難も、引いた視点でみればすべて喜劇 ─ 。

よく言われる格言ですが、まさにコレです。

あるキャラをおかしいと思うときには、その相手との距離が必要になります。

ヘンに同情してはいけないのです。

もし共感するようになれば、見てる人は「自分ごと」と考えてしまい、深刻になってしまいます。笑えなくなってしまうのです。

ベルクソンはこの点を、モリエールの喜劇を例に指摘します。

『守銭奴』という作品があります。ケチな父親が大活躍するコメディです。

父のアルパゴンがカネに執着ようすをみせていきます。

そうして、まわりの登場人物にも、作品を観てる人にも、共感も同情できない性格をつけ足していきます。

たとえば、高い利子をつけ、カネを巻き上げる相手が、アルパゴンのじつの息子のクレアントだと発覚するシーン ─ 。

もしこれが笑いを目的としない悲劇だったら、金貸し/父親、2つのポジションに立つアルパゴンの葛藤にスポットをあてます。

しかし喜劇では、心のジレンマを描くことは一切ありません。

自分の詐欺まがいの行動はタナにあげ、自分のような高利貸しにダマされる「経済観念のなさ」を非難します。

アルパゴン おまえなのか、たちの悪い借金で破産したいというのは?

クレアント お父さんですか、こんなべらぼうな高利で金もうけをしようというのは? 〔……〕

アルパゴン こんなだらしのない真似をしでかして、おまえ、恥ずかしいと思わないのか? 湯水のように金を撒き散らし、両親がせっかく汗水たらして築き上げた財産を、遠慮会釈なくすり減らして!

─ 『守銭奴』(岩波文庫)p.59-60

まわりがひいてしまうほどのドケチっぷり。

その周囲との性格のズレをみて、わたしたちは笑います。

観客にヘタな感動を与えない。これが性格における笑いの条件といえます。

ちなみにじっさいにコントや喜劇をつくる場合、キャラよって笑いを引き起こしたいときには、つぎのような手順をとるとスムーズにいきます。

観ている人が共感できないような人物を配置する

まわりの人たちとそぐわない状況をつくり出す

観る人に何度もこのズレを意識させる

まとめ

笑いとは、自然な動きがヘンな動きをみせる、円滑に流れていたのものが変化するなど「ぎこちなさ」のことを意味します。

また笑いを起こすメカニズムも存在し、反復、逆転、交錯の3つのしくみに分類してきました。

その視点から、状況、言葉、性格における笑いをそれぞれ分析してきました。

個人的な感想としては、はっきりいって読みやすくはないと思います。

笑いの定義ひとつとっても「ぎこちなさ」やら「放心」やら「自動化」やら、いろんな表現で言い換えるために、論旨もハッキリしていません。

笑いの要素を「動き」「状況」「言葉」「性格」に分けて解明するのいい。

けれど、そのメカニズムをすべてにあてはめて分析しているわけではありません。

部門ごとに話を変えるために、笑いの意味や役割が結局のところ何なのか、頭に入ってこないんです。

とはいえ、状況、言葉における笑いでのところで示した3つのメカニズムは、コントや喜劇のしくみを理解するうえで役立つツールだと感じます。

このサイトでもこの枠組みをつかって、たくさんの作品をレビューしています。

もしよければのぞいてみてください。

それではまた。

よきコントライフを〜。