アフリカの植民地支配 ─ 影響・理由・ベルリン会議・ファショダ事件・南アフリカ戦争【世界史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・アフリカの植民地支配について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・ベルリン会議
・3C政策
・ウラービー運動
・マフディー運動
・縦断政策/横断政策
・ファショダ事件
・南アフリカ戦争
・第一次モロッコ事件
・第二次モロッコ事件
・コンゴ自由国
重要人物
・セシル=ローズ
ポイント
・コンゴ問題によりベルリン会議が開かれ、それ以降、欧州列強によるアフリカ分割が急速にすすんでいった
・アフリカにたいして、イギリスは縦断政策をとり、フランスは横断政策を採用した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

アフリカの植民地支配① ─ 背景

ベルリン会議

アフリカ植民地のきっかけは、

・リヴィングストン
・スタンリー

による探検活動でした。

ふたりは純粋な知的好奇心からおこないましたが、欧米列強は利益獲得の機会をうかがっていました。そのなかでコンゴ問題がおこります。

これは、

スタンリーの探検にもとづき、ベルギーがコンゴ独立を画策し、この動きにたいしてイギリスが反発した事件

です

そのさいに対立解消のため、ドイツの宰相ビスマルクがベルリンで会議を開きます(ベルリン会議の開催)。

そこではコンゴ問題だけではなく、アフリカを植民地にするさいの基本方針が定められました。

その内容は、

アフリカは「無主の地」であり、さいしょに実効支配した国が、そのエリアを領有できる

といったものです。欧州列強にとって都合の良いはなしですが、これによりアフリカ分割競争は激化します。

その結果、20世紀のはじめまでには、エチオピア帝国とリベリア共和国をのぞく、すべての土地がヨーロッパ諸国の植民地となっていきました。

アフリカの植民地支配② ─ 展開

ファショダ事件でのフランス軍とイギリス軍

以下、

  • イギリス
  • フランス
  • ドイツ
  • ベルギー

にスポットをあてながら、アフリカ植民地化のプロセスをみていきます。

イギリス

当時のイギリス外交は3C政策を基軸としていました。

これは、

[カイロ ⇄ ケープタウン ⇄ カルカッタ]の軍事&交易ルートをおさえ、インド植民地の利権をがっちりまもる政策

のことです。

またアフリカ全体にたいしてはアフリカ縦断政策をとりました。文字どおり3C政策の拠点カイロを起点に、南部にむけて植民地領土を広げていくものです。

以上の方針から、まずはエジプトでおきた民衆反乱ウラービー運動を鎮圧し、事情上の保護国にします。

またスーダンでもマフディー運動をおさえ、エジプトの平定をはかります。

ただし、救世主(マフディー)と称したムハンマド=アフマドによって勃発したマフディー運動は、鎮圧にあたるイギリス軍をたいへん苦しめます。かつて清国でおきた太平天国の乱をおさえたゴードン将軍を戦死させるほど、大規模な抵抗運動でした。

約10年かけて反乱をおさめたイギリスは、ひきつづき南方へ軍をすすめます。

そこでおきたのがファショダ事件でした。

その当時フランスもまたアフリカの植民地支配にはげみ、イギリスに対抗するかたちでアフリカ横断政策をとっていました。文字どおりこちらも、アフリカ西部のアルジェリアを起点に、東に向けて植民地を広げるものです。

当然ながらイギリス軍の〝縦断〟とフランス軍の〝横断〟はバッテイングし、その結節点がファショでした。

とはいえ、イギリス軍もフランス軍も食料や物資が不足し、とても全面衝突できるような状態ではありませんでした。

そこで英国はスーダンを、フランスはモロッコを、それぞれおさめることを承認し、一定の妥協をはかります。

いっぽう、すでに統治していたケープタウン(ケープ植民地)を起点に、イギリスは南からも軍をすすめます。

・オレンジ自由国
・トランヴァール共和国

への侵略をおこないます。

両国では金とダイヤモンドがみつかったこともあり、それらをもぎとるために一気に戦争をしかけました。

そのさい勃発したのが南アフリカ戦争(ボーア戦争)です。

ボーアは以前からオランダ出身の住民がおさめている国で、当初は植民のメリットはないと思われていました。けれど〝お宝〟に目のくらんだイギリスは、なりふりかまわず軍をすすめます。

当然、自分たちの暮らす場所を奪われたくないボーアの人たちは、武力でもって応戦します。しかし必死の抵抗もむなしく、血みどろの争いのすえ、ボーアの人たちは領地を明け渡すことになります。

その後イギリスは、占領した場所にアフリカ連邦成立させます。けれどその統治方法は差別意識にみちあふれ、有色人種に対する人種隔離政策(アパルトヘイト)を実施します。

なかでも黒人への差別はすさまじく、かれらの扱いがまともになるのは最近のことです。いまでも黒人/白人のあいだには根ぶかい対立意識が残っています。

フランス

さきにみたとおり、フランスもまたアフリカの植民地支配に積極的でした。

アルジェリアを起点に、サハラからマダガスカル方面へ軍をすすめます。

まずはチュニジアを保護国にしたうえで、こちらもうえにあげた、ファショダ事件をおこします。

イギリスと妥協したのち、ヨーロッパ本国でも英仏協商を結びます。

これはドイツに対抗するための措置で、イギリスのエジプト、フランスのモロッコ支配をお互いに承認するためのものでした。

じじつ、その後モロッコはフランスの保護国となります。

ドイツ

ビスマルクの主導でアフリカ植民地の基本方針が定められましたが、ドイツのアフリカ植民地化は、イギリスやフランスにくらべ、出遅れていました。

そこでドイツはイギリスやフランスが進出していない地域をねらいます。

そのなかでも東アフリカのカメルーンは、イギリスやフランスが政権の手を伸ばしていなかったため植民地化に成功します。

しかしその他のエリアはすでに、両国の手に渡っていました。

そのためドイツは、イギリスやフランスにたいして再分割要求をおこないます。

まずはフランスのモロッコ支配について不服を申し立て、争いをおこします(第一次モロッコ事件)。

しかしあまりの強引なやり方に欧州諸国の反発をまねきます。アルヘシラス会議では、ほとんどの国がフランス擁護にまわり、その結果、ドイツのモロッコ進出は失敗に終わります。

その5年後にも、モロッコをめぐりフランスと争いますが、こちらもまた失敗します(第二次モロッコ事件)。

こうしてドイツは東アフリカ地域の一部をおさめるだけにとどまり、アフリカ植民地政策は不十分なまま終わります。

イタリア

アフリカ大陸にちかいイタリアも、植民地支配に積極的にとりくみます。

ドイツと同じくらいタイミングで軍を進め、エリトリアとソマリランドの植民地化に成功します。

またエチオピアにも侵入しますが、激しい抵抗にあい、こちらは失敗に終わります。

つづけてオスマン帝国がおさめるリビアにねらいをつけ、イタリア=トルコ戦争に勝利したのち、トリポリとキレナイカ地域を獲得します。

ベルギー

小国のベルギーも、アフリカの植民地支配には積極的でした。

さいしょにふれた探検家スタンリーを援助して、訪れた土地の領有を彼に宣言させます。

そもそもベルギーは、イギリスやフランスに先駆けてアフリカ進出をおこなっていたため、他国に干渉されず、植民地化に成功します。

スタンリーが領有したコンゴは、のちにベルギー国王レオポルド2世の私有地となり、コンゴ自由国が成立することになります。

おわりに

アフリカの植民地支配をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・ベルリン会議
・3C政策
・ウラービー運動
・マフディー運動
・縦断政策/横断政策
・ファショダ事件
・南アフリカ戦争
・第一次モロッコ事件
・第二次モロッコ事件
・コンゴ自由国
重要人物
・セシル=ローズ
ポイント
・コンゴ問題によりベルリン会議が開かれ、それ以降、欧州列強によるアフリカ分割が急速にすすんでいった
・アフリカにたいして、イギリスは縦断政策をとり、フランスは横断政策を採用した

この記事が、アフリカの植民地支配を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。