どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・十二イマーム派(シーア派)
・シャー(王号)
・イスファハーン(都市)
・アッバース1世
・都市イスファハーンは「イスファハーンは世界の半分」といわれるほど繁栄をきずいた
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
サファヴィー朝の歴史① ─ 十二イマーム派

それまでイラン一帯は、ティムール朝がおさめていました。
しかし王朝をおこしたティムールが亡くなると、国はすぐさま崩壊していきます。
その後、大きな王朝はあらわれることなく、小規模の国々が小競り合いをつづけていきます。
ティムール朝の崩壊から約100年後に、ようやく規模の大きい王朝がおこります。
それがサファヴィー朝です。
十二イマーム派への支持
王朝はさいしょ、タブリーズに都をおきました。
サファヴィー朝といえば、イスファハーンが有名ですが、それはのちの時代にきずかれました。
イスラームの教義は、スンナ派ではなくシーア派の立場をとりました。またシーア派のなかでも、穏健な十二イマーム派を支持しました。
けれど穏健シーア派とはいえ、スンナ派にたいして、過剰なほど敵対心をむきだしにします。スンナ派信者とわかれば、どんな相手であろうと、手をくわえ、殺害におよんだそうです。
サファヴィー朝の登場で、以後イラン地域には、シーア派が広く普及していきます。いまでもイランではシーア派がふつうです。
またイスマーイール1世は、王朝をきずいたときから、王号を意味するシャーを名のりました。
王号シャーは、それまでのイラン地域で長くつかわれていました。彼はこの称号をつかうことで、イラン人の民族意識を高めようとしました。
オスマン朝との対決
外交においては、シーア派を支持する勢力とは手をむすび、協調関係をきずいていきます。
いっぽう、スンナ派を支持するグループには、積極的に戦っていきます。なかでも、隣国のオスマン朝とは、たびたび争いました。
オスマン朝はスンナ派の立場をとっていたこともあり、宿命的なライバルとといえました。教義の違いだけではなく、領地争いを理由に、たびたび衝突することになります。
しかし、数回にわたり戦争をおこしていますが、さほど戦果をえられず、総じて苦戦をしいられています。
サファヴィー朝の歴史② ─ 都市イスファハーン

サファヴィー朝はアッバース1世のときに最盛期をむかえます。
開明君主だった彼は、新式の砲兵隊を導入して、軍制改革をおこないます。
それにより、長く苦しめられてきたオスマン帝国から、
・アゼルバイジャン
の領土を奪回します。
また、ホルムズ島で利益をあげていたポルトガル人を追いはらい、かれらに代わって、交易権を獲得します。
さらには、都をイスファハーンに移し、新しい首都として機能させます。
ご存知のとおり「イスファハーンは世界の半分」といわれるほど経済は発展し、都市で暮らす人びとは繁栄をおうかしました。
このときにイマームのモスクをつくられら、いまでも観光名所となっています。

サファヴィー朝の歴史③ ─ アフガン人の侵略

長く繁栄をほこってきたサファヴィー朝ですが、さいごはあっさりと崩壊をむかえます。
北方で荒らしまわっていたアフガン人グループの侵攻をゆるし、滅亡するにいたりました。
あっけなく滅んだ背景には、あまりの繁栄ぶりに、軍の規律がゆるみ、軍事力が極端に低下していたから、といわれています。
しかし、アフガン人による征服後も、イラン地域にはシーア派がそのまま浸透し、現在でもシーア派が一般的です。
おわりに
サファヴィー朝の歴史をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・十二イマーム派(シーア派)
・シャー(王号)
・イスファハーン(都市)
・アッバース1世
・都市イスファハーンは「イスファハーンは世界の半分」といわれるほど繁栄をきずいた
この記事が、サファヴィー朝の歴史を知りたい人の参考になれば、うれしいです。
では、また。



