アッバース朝の歴史 ─ 都バグダード・カリフ・マワーリー・ウマイヤ朝・セルジューク朝・滅亡

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・アッバース朝の歴史を知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・マワーリー
・タラス河畔の戦い
・都市バグダード
・アラブ帝国/イスラーム帝国
・イスラム法
・知恵の館
重要人物
・ハールーン=アラッシード
・アブー=アルアッバース
ポイント
・アッバース朝ではイスラーム信徒(ムスリム)の平等を達成し、これによりイスラームは「アラブ帝国」から「イスラーム帝国」へと変わっていった

この記事では、つぎの本を参考にしました。

アッバース朝の歴史① ─ 形成

アブー=アルアッバース

それまでイスラーム勢力は、ウマイヤ朝が導いていました。

しかしウマイヤ朝では、アラブ人への優遇措置がとられ、同じイスラーム教徒であっても、税金や人事登用の面で、不利な立場におかれていました。

そのため「マワーリー」とよばれる非アラブ出身のイスラーム改宗者が、ウマイヤ朝にたいして不満をつのらせていきます。

『コーラン』では、すべての信者は平等であると説かれている。そのため征服地の新改宗者は、ウマイヤ朝のかれらにたいする対策を『コーラン』の教えに反するものとみなした。(p.133)

─ 『詳説 世界史研究』

いっぽうでウマイヤ朝は、歴代カリフの正統性を認めるスンナ派の立場をとっていました。そのため、4代アリーとその子孫しかカリフとして認めないシーア派の人たちからも、たびたび攻撃をうけていました。

このような状況のなか、マワーリーとシーア派のうっぷんを利用して、アブー=アルアッバースが、ホラサーン地方を拠点に革命をおこします。

クーデターは成功し、以後アッバース朝がイスラーム全体を導いていくことになります。

なお、クーデターにさいして、アッバースはシーア派の不満を利用したものの、政権を獲得したあとは、ウマイヤ朝と同じスンナ派の立場をとり、シーア派を徹底的に弾圧します。

アッバース朝の歴史② ─ 発展

バグダードの地図

政権を奪ったあと、アッバース朝はさっそく統治運営にとりかかります。

以後、

  • 都市バグダード
  • 知恵の館
  • イスラーム帝国
  • イスラーム法
  • タラス河畔の戦い

の項目に沿って、国家発展の経緯をみていきましょう。

都市バグダード

2代マンスールのときにはバグダードに新しい都市をきずきます。

都市バグダードは、ティグリス川の西岸に建てられました。三重の城壁をもつ円形都市で、ちょうど東西南北の交易がまじわる結節点にきずかれました。

そのために人びとの交流がさかんになり、世界にまれにみる100万人都市へと変貌をとげます。同時期に繁栄した唐の長安とならぶ、一大経済都市でした。

そして、5代ハールーン=アラッシードのときには、バグダードを中心にアッバース朝は最盛期をむかえます。

文化や芸術も華ひらき、彼は『千夜一夜物語』に登場する主人公のモデルとされています。

知恵の館

その後もバグダードは繁栄をつづけ「知恵の館」とよばれる学院も建設されます。

そこでは、ギリシャ発祥のプラトンやアリストテレスなどの哲学や科学技術が研究されました。

また、ギリシャ語の文献がアラビア語へ大量に翻訳されるのも、ちょうどこの頃でした。

イスラーム帝国

アッバース朝が形成された背景からもわかるとおり、税制優遇措置をはじめ、アラブ第一主義が、イスラーム勢力にとって問題になっていました。

そこでアッバース朝では、アラブ人にもハラージュ(地租)を課し、どんな民族にたいしても同じ額の税金をとることにします。

出身に関係なく、同じイスラーム教徒であれば、ジズヤ(人頭税)は免除され、民族における差別が解消されました。

イスラームの教えでは「神のもとでは皆平等」が原則とされています。その教義をしっかりとまもったかたちです。

以上の経緯から、学術上では、

・正統カリフ時代&ウマイヤ朝 → アラブ帝国
・アッバース朝 → イスラーム帝国

とされ、イスラーム世界の呼び名が区別されています。

イスラーム法

租税と同じく、組織の人事についても、民族間の差別も解消されていきました。

ウマイヤ朝では、政治中枢の権力はアラブ人がにぎっていました。

アッバース朝では、当時の先進文化をもつイラン人のマワーリーも、官僚に登用され、大きな活躍をみせています。

またアッバース朝の形成前後にイスラーム法の編纂がすすんでいきます。それにより政治運営にかんしても、イスラーム法にのっとるかたちで、ルールにもとづく統治がおこなわれていきます。

タラス河畔の戦い

アッバース朝が形成がされた時期と同じくして、イラン東北部で、イスラーム勢力と、中国の唐王朝の戦いが、ふとしたきっかけでおこります。

タラス河の両岸でおこなわれた戦いから「タラス河畔の戦い」とよばれています。

当時の二大権勢による争いもさることなかがら、この争いは世界史上、たいへん意味のある戦いでした。というのも、イスラーム勢が捕虜としてとらえた唐の兵士のなかに、製紙技術をもつ職人がいたからです。

その後、かれら職人は中東地域に製紙法をつたえ、紙の文化がひろまっていくことになります。

一説には、この紙の文化が普及したからこそ、イスラーム法の編纂など、イスラームの学術水準が一気に向上した、とされます。

その意味では「タラス河畔の戦い」は、文化や知識の面で、たいへん大きな役まわりを演じたわけです。

出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

アッバース朝の歴史③ ─ 衰退

アッバース朝カリフの墓地(エジプト)

150年ほどつづいたあと、アッバース朝の権勢にも、じょじょにかげりがみえはじめます。

しだいに地方勢力が台頭し、イスラーム帝国は分裂の時代に入っていきます。

東方では

・サーマーン朝(中央アジア)
・ブワイフ朝(イラン地方)
・カズナ朝(インド地方)

が、つぎつぎに王朝を樹立していきます。

西方でも、

・ファーティマ朝(エジプト)
・後ウマイヤ朝(イベリア半島)

などの王朝がきずかれていきます。

アッバース朝は滅亡せず、ひきつづき存続しながらも、往年のような権力はふるうことなく、たんに権威と形式だけの王朝となっていきます。

実権は、東方&西方に波及したイスラーム王朝への移っていきます。

おわりに

アッバース朝の歴史についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・マワーリー
・タラス河畔の戦い
・都市バグダード
・アラブ帝国/イスラーム帝国
・イスラム法
・知恵の館
重要人物
・ハールーン=アラッシード
・アブー=アルアッバース
ポイント
・アッバース朝ではイスラーム信徒(ムスリム)の平等を達成し、これによりイスラームは「アラブ帝国」から「イスラーム帝国」へと変わっていった

この記事が、アッバース朝を知りたい人の参考になれば、うれしいです。

では、また。