ササン朝ペルシア ─ 首都・王・文化・エフタル・パルティア・クシャーナ朝【世界史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・ササン朝ペルシアの歴史を知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・エフタル
・突厥
・ニハーヴァントの戦い
・ゾロアスター教
・『アヴェスター』
・マニ教
重要人物
・アンダシール1世
・シャープール1世
・ホスロー1世
ポイント
・ゾロアスター教が国教となったササン朝では、イランの伝統文化が完成した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

ササン朝ペルシャの歴史① ─ 形成

シャープール1世のコイン

それまでイラン一帯は、パルティア帝国がおさめていました。

しかし、500年間つづいた帝国であったこともあり、じょじょに統治のタガがゆるんできます。中枢での内部争いもはげしくなり、地方での反乱も、たびたびおこるようになります。

そのなかでアンダシール1世がパルティアの都市に侵攻し、ついには滅ぼすことになります。

彼はイラン系の農耕民でした。パルティアを滅ぼしたのち、みずからの国を樹立させます。この国家がササン朝ペルシャです。

当初ササン朝ペルシャは規模の小さい勢力にすぎませんでした。しかしシャープール1世が登場することで、その領土を一気に拡大します。

彼は積極的に外征をおこない、まわりの国をつぎつぎ征服し、併合していきます。ついには「イラン人および非イラン人の諸王の王」を名のるようになります。

東方においては、隆盛をほこっていたクシャーナ朝を配下におさめます。それにより、東西にのびていた交易路をおさえ、経済面での利益を確保します。

いっぽう西方では、たびたびローマ帝国と武力衝突をおこします。ほとんどの戦いを有利にはこび、エデッサの戦いではローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にしています。権勢をほこるローマ帝国にとって、皇帝が捕虜にされるのは、たいへんな屈辱でした。

出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

こうしてササン朝ペルシャは、イランを中心に東方/西方へ領土を広げ、繁栄をきずきます。

ササン朝ペルシャの歴史② ─ 発展

ホスロー1世のコイン

ササン朝ペルシャはホスロー1世のころに最盛期をむかえます。

内政においては国内で混乱をまねいていたマズダグ教徒を弾圧して、社会不安を取りのぞきます。

またバランスを欠いた税制や軍事制度を改革し、統治のしくみを安定させました。

外交については、東方エリアでたびたび侵入をくりかえしたエフタルを、突厥と協力したうえで挟み撃ちにし、滅亡させます。

突厥はトルコ系の遊牧民で、このときの同盟をきっかけにイラン地域との交流がすすんでいきます。

いっぽう西方エリアでは、それまでと同じくローマ帝国(ビザンツ帝国)との抗争をくりかえします。

しかしホスロー1世の時代には、戦況を有利にすすめ、名君として名高いユスティニアヌス帝をたひたび苦しめています。

このとき、ササン朝とローマ帝国の力は拮抗していました。その後「お互いにとって利益がない」と判断した両国は和平条約をむすびます。

対外的には、ビザンツ皇帝・ユスティニアヌスとの戦いを有利に展開して、50年間の和平を締結し、また、トルコ系遊牧民の突厥と同盟して、エフタルをほろぼした。(p.30)

─ 『詳説 世界史研究』

ササン朝ペルシャの歴史③ ─ 衰退

クテシフォンの遺跡

帝国の宿命で、成立から300年以上も経つと、統治運営がじょじょにうまくいかなくなっていきます。とくに軍閥を背景にした親族間の争いがはげしくなり、まともな政治をおこなうことができません。

くわえてそこにビザンツ帝国との争いがふたたび勃発します。ときの君主ホスロー2世は、むちゃな遠征をくりかえし、財政をさらに悪化させます。

国内の秩序が混乱しているなか、アラブで興ったイスラーム勢力がペルシャへの攻撃を開始します。ビザンツとの戦いで疲弊していたペルシャ軍に、ムスリム軍と争う余裕はありませんでした。

その結果ニハーヴァンドの戦いで敗れ、ササン朝ペルシャは、滅亡をむかえることになります(651年)。

ササン朝ペルシャの歴史④ ─ 宗教&文化

ホスロー1世を描いた銀盤

さいごに、ササン朝ペルシャの宗教と文化をかんたんにふれていきましょう。

アケメネス朝ペルシャの後継をほこるササン朝は、宗教も同じくゾロアスター教を採用します。たんに信仰するだけでなく、ゾロアスターの教典『アヴェスター』も完成させます。

いっぽうでマニ教もさかんに信仰されました。この宗教は3世紀ごろに、教祖マニがいくつかの宗教を融合して、つくられたものです。

しかしゾロアスター教を国教とするササン朝に弾圧され、以後、中央アジア&北アフリカ&南フランスへと普及していきます。

とくに南フランスでは、マニ教はキリスト教に影響をあたえ、アルビジョワ派を生みだしました。この宗派もまた中世ヨーロッパでは異端とされ、ローマ・カトリック教会から、はげしい弾圧をうけます。

ササン朝の文化については、ササン朝美術が大きく華ひらきました。なかでも、

・ガラス器
・銀器
・絨毯(じゅうたん)

はどれも一級品で、東西交易路にのり、世界各地に輸出されました。

日本の法隆寺にある「獅子狩文錦(ししかりもんきん)」、正倉院にある「漆胡瓶(しっこへい)」は、ササン朝美術の影響がたいへん濃いものとされています。

おわりに

ササン朝ペルシアの歴史についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・エフタル
・突厥
・ニハーヴァントの戦い
・ゾロアスター教
・『アヴェスター』
・マニ教
重要人物
・アンダシール1世
・シャープール1世
・ホスロー1世
ポイント
・ゾロアスター教が国教となったササン朝では、イランの伝統文化が完成した

この記事が、ササン朝ペルシアを理解したい人のヒントになれば、うれしいです。

では、また。