アルサケス朝パルティア ─ 安息・地図・ササン朝・ペルシャ・ローマ【世界史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・アルサケス朝パルティアの歴史を知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・クテシフォン
・安息
重要人物
・ミトラダデス王
ポイント
・イラン系遊牧民のアルサケス朝パルティアは、前半期はヘレニズム文化の影響をうけ、後半期はイランの伝統文化が復活した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

アルサケス朝パルティアの歴史① ─ 形成

アルサケス1世のコイン

アルサケス朝がきずかれるまえ、オリエント一帯はセレウコス朝がおさめていました。

セレウコスとはアレクサンドル大王につかえていた武将で、大王が征服したオリエント地域をおさめていました。セレウコス朝は、彼の親族たちがひきついだ王朝です。

つぎに王朝をひらくアルサケスも、もともとはセレウコス朝にしたがうイラン系の遊牧民でした。セレウコス朝の勢力が衰える時期をねらって王朝から独立します。

ここにアルサケス朝パルティアが成立します。

アルサケス朝パルティアの歴史② ─ 発展

ミトラダテス1世のコイン

創始者アルサケスは遊牧民ということもあり、帝国は拠点となる都市をもっていませんでした。

しかし、イラン各地を転々としたあと、チグリス&ユーフラテス川のあたりに都市クテシフォンをつくります。

都市クテシフォンと交易路

クテシフォンは、ちょうど東西交易路の中継地でした。

東は中国の漢、西はローマ帝国に至るまで、交易ルートがのびていました。そのため漢王朝ではパルティアを「安息」とよんでいました。

パルティアは貿易の要所をおさえることで、経済面で大いに繁栄します。

統治のしくみ

交易による発展と同じくして、パルティアはその領土も広げていきます。

なかでもミトラダデス王のもとでの拡大はめざましく、西はカスピ海からメソポタミア、東はアフガニスタンから西インドまで征服の手をのばしていきます。

パルティアの版図は、これよりまえに繁栄をほこったアケメネス朝と、その領土がほぼ同じとなりました。

統治のしくみもアケメネス朝にならったもので、官僚組織をととのえ、全国に駅伝制をもうけました。独自性はないものの、効率の良い統治運営を心がけた、といえます。

この遊牧帝国は、アケメネス帝国の版図と、ほぼ一致する。〔略〕その組織も〔略〕アケメネス朝の制度にならったが、本質的には騎馬遊牧民の国家であった。(p.141)

─ 『詳説 世界史研究』

パルティアの文化

文化については、王朝の前半期は、ギリシャ起源のヘレニズム文化が影響をあたえました。

王朝の後期は、ヘレニズム文化にかわって、イラン独自の文化が華ひらきます。アケメネス朝以来の伝統文化が、復活するかたちです。

外交関係

外征については、以前のアケメネス朝ほどさかんではなく、やはり交易に重点をおいていました。

しかしミトラダデス2世のときに、東部のアルメニアの領有をめぐって、ローマ帝国と争います。数回の小競り合いがおきたのち、ローマ史で有名はスッラと交渉し、ユーフラテス川を両国の境界と決めました。

その後もローマとはシリアやメソポタミアなどで争いをくりかえし、カエサルのライバルだったクラッススひきいる大軍を打ちまかしたりしています。

出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

国境はたびたび揺れ動きながらも、ユーフラテス川のラインは、きほん守られていました。

アルサケス朝パルティアの歴史③ ─ 衰退

パルティアの金装飾品

約500年ほど存続しながらも、さすがに後半期になると、ほころびがみえはじめてきます。

たびかさなるローマとの抗争から財政が疲弊し、民衆への税負担がじょじょに重くのしかかってきます。

そのために十分な兵士や軍備をそろえられず、国の防衛力が一気におちこみます。

ふたたびアルメニアの領有をめぐってローマと争ったときは、哲人皇帝で有名はマルクス=アウレリウス=アントニウスの軍勢に攻めこまれ、一時は都市クテシフォンまで侵略されます。

さいごは、同じくイランで興ったササン朝ペルシャの侵攻に合い、そのまま滅亡することになります(B.C.226年)。

アケメネス朝パルティアの歴史④ ─ 影響

ミトラダテス1世のレリーフ

これまでのオリエント史では、アルサケス朝パルティアの存在は、わりと軽くみられてきました。

しかしさいきんでは、ユーラシア大陸における東西交易をうながした国家として、見直しがおこなわれています。

遊牧国家のもとで[ギリシャ&ペルシャ&中国]の文化が融合し、各国の共存がはかられました。小さな紛争はありながらも商業は発展し、人びとの暮らしは穏やかに過ぎていきました。

パルティア帝国の成立は、アジアの東西南北の文化交流の促進に大きく貢献した。この遊牧民の帝国のもとでは、ギリシャ的・ペルシャ的要素が融合し、草原とオアシスの生活が共存共栄した。そして中国とインド、東トルキスタンと地中海とのあいだの交通が容易になり、東洋と西洋との交流がさかんになった。(p.142)

─ 『詳説 世界史研究』

今度、平和な時代をもたらしたとして、アケメネス朝パルティアの存在は重要視されるかもしれません。

おわりに

アルサケス朝パルティアの歴史についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・クテシフォン
・安息
重要人物
・ミトラダデス王
ポイント
・イラン系遊牧民のアルサケス朝パルティアは、前半期はヘレニズム文化の影響をうけ、後半期はイランの伝統文化が復活した

この記事が、アルサケス朝パルティアを理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。