どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・トゥール・ポワティエ間の戦い
・カール・マルテル
・ウマイヤ朝は、ウマイヤ家による世襲と「アラブ人第一主義」をかかげ、アラブ帝国をきずいていった
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
ウマイヤ朝の歴史① ─ スンナ派 vs シーア派
4代カリフのアリーが暗殺され、それをきっかけに、イスラーム勢のなかで後継者争いがおこります。
そのさい、ジハード(聖戦)によって、総監の立場でシリアをおさめていたムアーウィアが、カリフを名のります。都をダマスクスにおき、ウマイヤ朝をひらきます。
最初の4人のカリフは、共同体の合意によって選ばれたことから、スンナ派によって「正統カリフ」とよばれるが、最後のアリーが暗殺されると、彼と敵対していたシリア総督のムアーウィアがダマスクスに「ウマイヤ朝」をひらき、カリフ位の世襲を開始した。(p.132)
─ 『詳説 世界史研究』
しかしムアーウィアがウマイヤ朝をひらいても、イスラーム教団内の混乱はおさまりませんでした。
むしろ、ウマイヤ家をカリフを認めるグループと、4代カリフのアリーの子孫だけをカリフとして認めるグループが激しく対立します。
以降、前者の派閥を「スンナ派」、後者の派閥を「シーア派」をよぶようになります。
・シーア派 → アリーとその子孫のみをカリフとして認める
イスラーム世界は内乱状態におちいるものの、けっきょくはウマイヤ朝ひきいる軍隊が混乱をおさめます。以降、ウマイヤ家のカリフが、イスラーム全体を導いていくことになります。
ウマイヤ朝の歴史② ─ トゥール・ポワティエ間の戦い
ウマイヤ朝になってからも、イスラーム勢力の拡大はつづきます。
東方においては、ソグド地方とインダス川流域までを領土内におさめます。
いっぽう西方においては、北アフリカを東にたどり、イベリア半島にまで兵をすすめます。ここをおさめていた西ゴート王国を滅ぼし、ヨーロッパ中央部にまで進出します。
そのさいおきたのがフランク王国とのトゥール・ポワティエ間の戦いでした。
しかし、それまで砂漠や平地で戦ってきたイスラームの軍勢は、生い茂る森林での戦いに苦戦をしいられます。
結果、フランク王国をひきいるカール・マルテルに敗れ、イベリア半島にまで軍隊を引きあげることになります。
ウマイヤ朝の歴史③ ─ アラブ帝国
イスラーム教団は、ウマイヤ家になって以降、カリフの地位は世襲となっていきます。
ウマイヤ家に利益が独占される面があるいっぽう、領土全域をまきこむような後継者争いがおきず、イスラーム勢力の統治は安定していきます。
また、イスラーム信徒にたいしてはアラブ第一主義がとられ、アラブ人のムスリムだけが、さまざまな面で優遇されます。
具体的には、アラブ人というだけで税が免れ、非アラブ人にはジズヤ(人頭税)やハラージュ(地租)の両方が課されます。
さらに、そのまえの正統カリフ時代のときには、イスラームに改宗すれば、免税措置がとられましたが、ウマイヤ朝時代では、イスラーム教に移っても、そのまま税を支払う必要がありました。
そこからウマイヤ朝時代のイスラーム勢国家を「アラブ帝国」とよんだります。
公用語もアラビア語で、イスラーム教徒であってもアラブ出身でなれければ、さまざま不利益をこうむることになりました。
またウマイヤ朝はスンナ派の立場をとっていたので、シーア派のムスリムには激しい弾圧をくわえます。
以降も、イスラーム勢力内では[スンナ派 vs シーア派]の対立は、たびたびおこります。
おわりに
ウマイヤ朝の歴史についてみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・トゥール・ポワティエ間の戦い
・カール・マルテル
・ウマイヤ朝は、ウマイヤ家による世襲と「アラブ人第一主義」をかかげ、アラブ帝国をきずいていった
この記事が、ウマイヤ朝を知りたい人の参考になれば、うれしいです。
では、また。