契丹の歴史 ─ 遼・渤海・金・建国者・契丹文字・燕雲十六州・二重統治体制・部族制/州県制【世界史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・契丹(遼)の歴史について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・燕雲十六州
・二重統治体制
・部族制/州県制
・契丹文字
・澶淵の盟
重要人物
・耶律阿保機
・阿骨打
・耶律大石
ポイント
・燕雲十六州を獲得した契丹は、二重統治体制をとり、遊牧民には部族制を、農耕民には州県制をしいた

この記事では、つぎの本を参考にしました。

以下、[形成 → 発展 → 衰退 → 影響]の流れに沿って、契丹の歴史をみていきます。

契丹の歴史① ─ 形成

契丹の王

契丹はもともとモンゴル高原東部で遊牧・狩猟生活をおくっていました。

それまで中央ユーラシアはウイグルがおさめていましたが、かれらはキルギスの侵入をうけ、分裂しながら西方へ移動します。

キルギス衰退後、空白地帯をうめるように、契丹はモンゴル高原に勢力をのばし、エリア一帯をおさめていきます。

契丹の建国者は耶律阿保機です。

それまで分立していた8部族をひとつにまとめ、皇帝として即位したのち、建国します(中国名では「遼」とよばれます)。

都は臨潢府におかれました。

その後、まわりの国々へ進出し、6代の聖宗のころまで、領土を広げていきます。征服した国は、つぎのとおりです。

・西方 → 党項&吐谷渾
・東方 → 渤海

さらに西夏とは同盟をむすび、高麗には服従をもとめました。これにより契丹は、北アジアの支配者として君臨することになります。

契丹の歴史② ─ 発展

契丹の人びと

契丹が勢力をのばしていたころ、中国地域でも宋が国内統一を果たしていました。そののち宋は、まえに契丹が獲得していた燕雲十六州の奪還をめざします。

燕雲十六州をめぐる対立は激しくなり、ついに契丹は聖宗(6代皇帝)のときに、華北にむけて侵攻をはじめます。

宋も軍を派遣しますが、軍事力でまさる契丹にたいし、宋軍は劣勢に立たされ、黄河北岸までに追いつめられます。

窮地におちいった宋は、契丹にむけて和議を申し入れます。譲歩を受けいれた契丹は、交渉のすえ、

・国境線の維持
・銀&絹の献納

の約束をとりつけます。

このときの取り決めを「澶淵の盟」よびます。

いっぽう、領土を広げる契丹でしたが、その内実は多民族国家で、狩猟/農耕/遊牧など、グループごとに生活形式は異なっていました。

そのため契丹王朝は、

・遊牧民 → 部族制
・定住農耕民 → 州県制

といったかたちで、民族ごとに統治のしくみを使いわけていました。

中央の統治についても官僚制をしきますが、ここでも民族ごとに部族制/州県制を使いわけ、全体を契丹族がおさめるかたちをとりました。

契丹の歴史③ ─ 衰退

金王朝時代の絵画

宋からの献納金もあり、契丹の財政はうるおっていましたが、そのいっぽう、中央の人びとは贅沢に慣れてしまい、組織の頽廃がだんだんとすすんでいきます。

そんななかで、勢力をつけはじめたのが、中国東北部の女真族でした。

かれらはもともと契丹の属国でしたが、強固な軍事組織をつくりあげ、反抗をくりかえすようになります。

以前から契丹の圧政に苦しんでいましたが、ついに耐えきれなくなった女真族は、族長の阿骨打(あくだ)のもとを建国し、反乱を開始します。

さらに[契丹 vs 金]の対立をみた宋は、〝目の上のタンコブ〟である契丹を倒すべく、金と手をむすんだうえで挟み撃ちをしかけます。

その結果、金は、契丹の主要都市である、

・上京臨潢府
・燕京

をおとし、王朝を滅ぼします(1125年)。

契丹の歴史④ ─ 影響

カラ=キタイの人物

その後、協力関係にあったはずの[金&宋]とのあいだで、報奨金をめぐり対立がおこり、武力衝突にまで発展します。

戦いは、武力でまさる金が宋に圧勝し、契丹に代わって華北一帯をおさめることになります。

それにより宋親族の生き残りが、南に逃げのびて、あらたに王朝を建国します(いっぱんに、この王朝を「南宋」とよび、それまでの王朝を「北宋」とします)。

華北地域をおさめた金でしたが、満州族であるかれらは、漢人が暮らすエリアをうまく統治することができません。

そこで金王朝の支配者は、現地住人の漢文化をとりいれ、統治制度も宋と同じく専制政治を導入します。

当初は円滑にすすんでいましたが、漢文化が広まると、本来もっていた女真族の文化がうしなわれてしまいます。

さらに政治指導者が贅沢をかさねたことで財政難におちいる金王朝は、南宋との軍備確保を目的に紙幣を乱発します。その結果、極度のインフレがおこり、金の経済は混乱をきわめます。

このように経済が乱れるなかで、タイミングがわるく、北方で興ったモンゴル帝国が2度にわたり攻めてきます。

圧倒的な軍事力をまえに、なす術のない金王朝は、首都の陥落をゆるし、滅亡するにいたります(1234年)。

いっぽう、いったん滅びた契丹ですが、王族のひとりである耶律大石が一部の軍団をひきいて西方に逃れ、トルキスタンの地で新たに王朝を建国します。

この国を「カラ=キタイ(西遼)」とよびます(カラは「黒」、キタイは「契丹」を意味します)。

建国後、トルキスタン近くをおさめるイスラームの支配者が、耶律大石に援軍を求めにやってきます。彼は国益向上の観点から救援に応じ、救援をおくります。

それにより、みごと役割を果たした耶律大石は、周辺国からもカラ=キタイの建国を認められることになります。

その後、現地で普及してい仏教文化をとりいれ、人びとのあいだで文化や芸術が発達します。

政治の面でも、セルジューク朝軍をやぶり、経済については、

・サマルカンド
・ブハラ
・テルメズ
・バクトリア

などの交易都市をおさえ、大いにさかえることになります。

国内統治にかんしては、中華風のしくみを採用します。

具体的には、

・戸数割りにもとづく徴税
・金銀を基準とする通貨制度

によって、租税の流れをととのえます。

また、地方の王族・首長に土地管理はまかせずに、グル=ハーンを絶対君主とした中央集権制を強化しました。

なおこの統治体制は、のちのモンゴル帝国へと継承されることになります。

しばらくあいだ権勢をふるったカラ=キタイですが、こののち西方で勢力をのばしたホラズム朝に圧迫されていきます。

ホラズム朝の王であるムハンマドに敗れ、東方に移動を強いられます。(1209年)

さらにチンギス=ハンにも敗れ、逃れてきたナイマン部族のクチュルクによって、王位を奪われます。これによりカラ=キタイはもちろんのこと、契丹王朝も滅ぶことになります(1211年)。

その後、ナイマン部はチンギス=ハンに滅ぼされ、カラ=キタイの遺領&遺民はモンゴル帝国に吸収されます。

おわりに

契丹の歴史をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・燕雲十六州
・二重統治体制
・部族制/州県制
・契丹文字
・澶淵の盟
重要人物
・耶律阿保機
・阿骨打
・耶律大石
ポイント
・燕雲十六州を獲得した契丹は、二重統治体制をとり、遊牧民には部族制を、農耕民には州県制をしいた

この記事が、契丹を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。