【書評】森谷公俊『興亡の世界史 ─ アレクサンドロスの征服と神話』感想&レビューです。

大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。

社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。

働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。

働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。

「できるなぁ」
「発想がすごいなぁ」

と、思う人は、キホン、教養を身につけています。

なかでも、さいきんブームになっているのは「世界史」です。

ここ数年、ビジネスマンの必須知識として「世界史」が注目をあつめています。

ネット時代をむかえ、グローバル化が加速しているからです。

「できる人」と付き合うには、これまでの世界全体の流れを知っておく必要があります。

とくに、ヨーロッパ史の流れは、マストだといえるでしょう。

いまのグローバル化は、ヨーロッパからスタートしたからです。

そんなとき、つぎの本が目につきました。

ヨーロッパ文化の根っこには、古代ギリシャ&ローマの知が流れています。

この2つの歴史を知っておくと、ヨーロッパの本質を理解できます。

著者は、大学教授で、古代ギリシア・マケドニア史の専門家です。

ヨーロッパにおける、アレクサンドロス大王による統治、「ヘレニズム文化」の影響について、くわしくのべています。

ギリシャ&マケドニアの文化が、ローマ地域&時代に、どのような影響をおよぼし、引き継がれていったのかを知るには、おすすめの1冊です。

『アレクサンドロスの征服と神話』の概要

まずは目次から。

こんなかんじです。

第一章 大王像の変遷
第二章 マケドニア王国と東地中海世界
第三章 アレクサンドロスの登場
第四章 大王とギリシア人
第五章 オリエント世界の伝統の中で
第六章 遠征軍の人と組織
第七章 大帝国の行方
第八章 アレクサンドロスの人間像
第九章 後継将軍たちの挑戦
終章 アレクサンドロス帝国の遺産
おわりに

キホン、時系列にそって、マケドニア&アレクサンドロス大王の統治について、みていきます。

1章で、これまでの「アレクサンドロス大王」の研究成果について。

2章で、アレクサンドロスが生まれた「マケドニア」と、アテネやスパルタなど「ギリシャの都市国家」とのカンケーについてのべています。

4章〜7章で、アレクサンドロスの遠征と帝国の成り立ちについて、みていきます。

9章からは、アレクサンドロスが亡くなったあとの状況について。

ラスト10章で、アレクサンドロス&「ヘレニズム文化」が、ヨーロッパに与えた影響について、のべていきます。

『アレクサンドロスの征服と神話』で気になったトコ

以下、気になったトコを、引用をあげつつ、ピックアップしてみます。

マケドニアとギリシャのカンケーは?

古代ギリシャにかんする本を読んだりすると、アテネなど都市国家(ポリス)と、マケドニア王国は、セットで書いてあります。

しかし、2つの地域は、つねに「緊張」をはらんでいます。(それはいまでも、同じだそうです。)

むかしから、民族も文化も異なるため、距離的には近くても、おたがいに同感(シンパシー)をもてないカンケーなわけです。

その証拠に、ギリシャ地域の都市国家では、マケドニアは「辺境」であり、そこに住む人たちは「野蛮人(=バルバロイ)」とみなしてました。

当時のギリシア人にとって、マケドニアは北方の遅れた辺境地域にすぎない。大半のポリスで王政が廃止されていた古典期(前五~前四世紀)のギリシアでは、王を戴くこと自体が遅れた国家と見なされた。ギリシア人が葡萄酒を水で割って飲んだのに対し、マケドニア人が 生 のままで飲んだのも、彼らがバルバロイ(野蛮人)であることの証拠とされた。(0717)

いっぽうで、マケドニアのほうでは、哲学・演劇など、ギリシャ文化に「あこがれ」をもっていました。

一般的に「ギリシャ化」といわれますが、マケドニアでは、ギリシャの文化や知識を、積極的に取りいれていました。

たとえば、同時代に生きたアリストテレスは、アレクサンドロスの家庭教師をしていました。

アレクサンドロスの父・フィリッポス2世が、ギリシャからわざわざ招いたわけです。

緊張カンケーがありつつも、ギリシャ文化を敬う ─ マケドニアは、そんな国でした。

なぜ、ギリシャはマケドニアの統治下に入ったのか?

では、優位だったギリシャ地域が、なぜマケドニアの統治下に入ったのでしょうか。

そのワケは、けっしてマケドニアが強国だったからではありません。

それよりもギリシャの地域の状況が要因です。

文化レベルの高いギリシャでしたが、政治や経済は、ボロボロでした。

都市国家のあいだで争いをくりかえす。さらに、土地柄、農作物など生産量は高くありません。

全体としてみれば、繁栄しているとはいえず、衰退傾向にあったわけです。

それをチャンスとみて、侵攻&侵略していったのが、マケドニアでした。

ペルシア王の統制下で戦争を繰り返し、国力を消耗するギリシア諸国。国外を放浪し王侯に雇われて生計をたてるギリシア人傭兵たち。これが前四世紀ギリシアの現実、ペルシア帝国の西の辺境と呼ぶしかない惨めな姿である。このギリシアを屈服させたのがマケドニア王国であった。(0633)

統治下の流れは、すでに、父・フィリッポス2世のころから始まっていました。

息子のアレクサンドロスは、「とどめをさした」といったかんじです。

アレクサンドロスの遠征&統治

父親の方針を受けつぐかたちで、アレクサンドロスは、ギリシャ以外の地域へも侵攻していきます。

遠征は、「B.C.334年」にスタートしました。

この本では、遠征を「3つの段階」に分けています。

① 遠征開始〜アケメネス朝ペルシャの滅亡(B.C.334年〜B.C.330年)
② 中央アジア侵攻〜インダス川での遠征中止(B.C.330年〜B.C.326年)
③ バビロンへ帰還〜大王死去(B.C.326年〜B.C.323年)

おどろくのは、その期間と規模です

11年のあいだ、ずっと遠征をくりかえていたわけです。

そして、ギリシャ〜エジプト、そして、インドの端っこまで統治しました。

いまからみても、そのスケールは、計り知れませんね。

融合&融和政策ではなかった

期間も規模もハンパないですが、統治のやり方は、どうだったんでしょうか。

一般的には、「東西文化の融合に貢献した」なんていわれますが、そこまで「立派なものではない」と、この本では指摘します。

都市アレクサンドリアの建設は、しばしば大王の東西融合政策の一環として語られるが、実態を見ればそれはまったくの的外れである。そこに入植したのはギリシア人傭兵、退役したマケドニア人、地元住民の三種類で、住民にはその土地の戦争捕虜も含まれていた。(1652)

侵略した土地の住人を虐殺したり、そのやり方は、、けっして穏やかなものではありませんでした。

ギリシャ傭兵のあつかい

ツラいのは、侵略されたほうだけでありません。

アレクサンドロスの遠征に協力した、「雇われ兵」のギリシャ人も、過酷な状況でした。

侵略した土地に、強制的に住まわされて、町の開拓を強いられたからです。

結果、かれら傭兵は、故郷ギリシャに帰ることはできずにいました。

ギリシア本土から五〇〇〇キロも離れた僻遠の地で、ギリシア人入植者はその後どうなったか。厳しい自然条件、流刑同然に扱われたという屈辱と疎外感、ギリシア風の生活に戻りたいとの思い、マケドニア人との 軋轢、地元住民の敵意。これらが重なり、もともと定住する気のない彼らが不満を鬱積させたことは想像に難くない。(1665)

英雄談としては、アレクサンドロスの遠征は、たいへん魅力的です。

そのいっぽう、侵略された住人、捕虜や傭兵などの協力者は、つねに過酷な状況に置かれていました。

本書では、ネガティブな側面を、さまざまなエピソードをあげて、描いています。

東西文化の融合

では、アレクサンドロスの遠征は、ヨーロッパにどのような影響をあたえたのでしょうか。

一般的には、東西文化の交流に、一役買ったといわれます。

歴史家のあいだでは、肯定 / 否定、両方の意見があるそうです。

本書では、「なんだかんだいって、ギリシャ文化&アジア文化の交流に貢献した」と主張します。

〔……〕東方遠征は、それまで緩やかに進行していたギリシア人のアジア進出を加速し、ギリシア風の生活と文化の到達範囲を一気に拡大した。量から質への転化をもたらしたと言ってよい。〔……〕大王の遠征は、ギリシア人の世界をかつてなく広げ、次代における社会と文化の新たな発展の土壌を作り上げた。もちろんそれは、彼の天才なくしては不可能だった。この意味で、やはりアレクサンドロスの治世は、西アジア・中央アジアの歴史に一つの画期をなしたのである。(4164)

ローマ帝国とのくらべると……

地図でもみるとおり、アレクサンドロスは、広範囲にわたって統治しました。

しかし「帝国」という視点からみたとき、その統治のしかたは、優れたものではありませんでした。

どちらといえば、侵略のための統治であり、地域の安定を目指しているわけではなかったからです。

〔……〕彼の政策はあくまでも端緒的なものにすぎず、制度上の完成には程遠かった。ペルシア人総督の大粛清で彼の路線は後退を余儀なくされたし、アジア人の軍隊編入は兵力の不足に対応した政策にすぎない。〔……〕アレクサンドロスの民族融合策なるものも虚構である。側近たちの集団結婚はほとんど実を結ばなかったし、マケドニア人兵士とアジア人女性との通婚は、遠征の過程で結果として生じたものだ。彼らがもうけた子供たちを大王が引き取ったのも、自分の手足となって自在に使える忠実な軍隊を欲したためであり、新しい制度を創始したわけではない。(4164)

いっぽう、その後の「ローマ帝国」では、まがりなりにも「普遍法」が整備され、侵略された地域にたいしては、法にもとづく統治がなされました。

アレクサンドロス帝国は、すぐに衰退し、ローマ帝国は、数百年にわたって続きます。

国の安定には、「法」「制度」「統治理念」が、どれほど重要かが、わかりますね。

大王の異民族政策は、その時々に利用できるものを採用するというやり方で、良く言えば柔軟、悪く言えばその場しのぎである。彼の前には、アカイメネス朝における諸民族のゆるやかな共存があった。彼の後には、ローマ帝国が積極的に市民権を拡大し、ローマ法という普遍的な法体系のもとに、全市民の統合をなし遂げた。彼の治世はその中間で、試行錯誤の段階にあったと見ることができる。あえて試行錯誤というのは、彼の政策に、空前の帝国にふさわしい何か実体のある理念が見出せないからだ。(4170)

おわりに

本書では、アレクサンドロスの遠征を、ヘタに美談にせず、客観的にのべています。

残酷な面をふくめて、統治の実態をみれます。

また、アレクサンドロス帝国&ヘレニズム文化が、ローマ帝国や、ヨーロッパ文化に、どのような影響をあたえたのかを、知ることもできます。

ヨーロッパ文化のルーツなど、世界史の教養を高めるには、おすすめの1冊です。

よければチェックしてみてください。

ではまた〜。