【書評】『世界の歴史 14 ムガル帝国から英領インドへ』感想&レビュー

どうも、りきぞう(@rikizoamaya)です。

大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。

社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。

働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。

働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。

・できるなぁ
・発想がすごいなぁ

と、思う人は、キホン、教養を身につけています。

なかでも、重要なのは「世界史」です。

ここ数年、ビジネスマンの必須知識として「世界史」が注目をあつめています。

ネット時代をむかえ、グローバル化が加速しているからです。

世界史といえば、ギリシャ・ローマなど、ヨーロッパがメインです。

とはいえ、ほかのエリアも目をくばる必要があります。

なかでもインド地域は、古代文明の1つということで大切です。

まえにこちらの本を紹介し、文明初期、「ヴェーダ時代〜マウリア朝の時代」をみてきました。

今回は、そのあとの時代、「ラージープート時代〜ムガル帝国の形成」までです。

参照・紹介するのは、こちらです。

日本では、この期間のインド史をあつかう本は、限られています。

本書は、中央公論新社の「世界の歴史」シリーズの1つ。

分量&難易度からみて、気軽に読める、数すくない1冊です。

この本は「3部構成」で、それぞれ別の著者が書いています。

第1部で、「ラージープート時代〜ムガル帝国の形成」の時期をあつかっています。

2部〜3部では、イギリス進出後のインド社会を描きます。

ムガル帝国崩壊後のインドを知りたい方は、つづきを読んでみると良いです。

ひとまずここでは、第1部だけを紹介します。

第1部の著者である佐藤さんは、南アジア社会経済史の専門家。

研究成果をふまえて、

・インドにおけるイスラム勢力の影響
・ラージープート時代の状況
・ムガル帝国の盛衰

を描いていきます。

ラージープート時代〜ムガル帝国までを知りたい方には、おすすめです。

『世界の歴史 14 ムガル帝国から英領インドへ』の概要

まずは、全体の目次から。

こんなかんじです。

第1部 ムスリム王権の成立と展開
・試練に立つ民族と宗教
・統一に賭けた夢と野心
・統一への鉄の意志と帝国分解の危機

第2部 英領インドの形成
・イギリスのインド進出
・インドの植民地化
・都市の生活
(ほか)

第3部 南インド史の舞台
・祈る ─ チョーラ時代
・鍛える ─ ヴィジャヤナガル時代
・耽溺する ─ ナーヤカ時代
(ほか)

くりかえすと、「ラージープート時代〜ムガル帝国の形成」をあつかうのは、第1部のみです。

この期間を知りたい場合、1部だけに目をとおせばオーケーです。

それでも、200ページくらいあるので、それなりに量はあります。

余裕があれば、2部・3部で、イギリス進出後のインド史をチェックしてみてください。

1部については、スッキリした構成で、さらっと読んでいけます。

時代の流れは、[ラージープート時代 → イスラム勢力の進出 → ムガル帝国の形成]となります。

文体もやわらかく、たいへん読みやすいです。

『世界の歴史 14 ムガル帝国から英領インドへ』のポイント

以下、気になったトコをみていきます。

ラージープート時代の状況

「ラージープート」とは、「王子」の意味です。

各地域の有力者が、みずから「国王」を名乗り、狭いエリアだけをおさめていました。

インド全域を統治する王朝がなく、小さな王国が、分立している状態 ─ 。

そんな政治情勢をさして、ラージープート時代とよびます。

年代としては、600年代後半〜1200年代前半にあたります。

できごとでいえば、イスラム勢力による国家が成立するまでの時期です。

代表的な王朝は、「プラティーハーラ朝」ですが、パーラー朝・ラーシュトラクータ朝と覇権争いをしつつも、インド全体を統一するまでには至りませんでした。

ショージキなところ、歴史資料も乏しく、研究レベルでも、くわしいことはわかっていません。

イスラム勢力の進出

ラージープート諸国が、各地域をおさめているなか、インド西北・イラン地域から、イスラム勢が進出してきます。

ゴール朝の侵入 → デリー=スルタン王朝の成立

600年代、アラビア半島で生まれたイスラム勢は、周辺地域に領土を広げました。

1206年、カズナ朝から独立したゴール朝が、イスラム勢力として初めて、インド地域に進出します。

さいしょは、ゴール朝のトップ「マフムード」が、じかに統治しました。

その後、かれは、奴隷出身の武将「アイバク」に支配権をゆずります。

ここに、ゴール朝から切り離されるかたちで「奴隷王朝=イルバリー朝」が誕生します。

アイバクがおさめる時期は、それなりまとまりがとれていましたが、かれの死後、王朝がコロコロかわることになります。

そのため、世界用語では、このときの王朝を「デリー=スルタン王朝」とよんだりします。

ただ、イスラムで実権のトップを意味する「スルタン」を名乗っていますが、本家のイスラム教とは、つながりが希薄でした。

じつは、デリー=スルタン王朝の君主は、みずからの権威を高めるために、〝勝手に〟「スルタン」を名乗っていたフシがあります。

スルタンとは、イスラム世界・最高の精神的権威である「カリフ(ハリーファ)」から、特定地域の支配者(王)に与えられた、世俗の支配者の称号であるが、カリフとデリーのスルタンたちのあいだには、「支配ー従属」関係はなく、かれらは自己の王位を権威づけるために、スルタンの称号を勝手に使用したにすぎない。

─ p.39

この点は、おもしろいですよね。

すでに、イスラム勢力は、世界に拡大しすぎていました。そのため各地域では、みずからの立場に〝箔をつける〟ために、スルタンを自称したわけです。

名称は違えど、いまでもありそうなはなしですよね。

ラージープート諸国とイスラム勢力の融合

その後、イスラム勢の王朝は分裂をくりかえしながら、インド各地へ散らばっていきます。

対立を起こしながらも、ラージープート諸国と融合をはかり、地方王朝の地位をかためていきます。

1400年代のはじめ、その動きは激しくなり、ムスリム地方王朝が発展してきます。

結果、宗教面でも、ヒンドゥーとイスラムも調和・融合していき、独自の文化をつくっていきます。

本書の見立てでは、このプロセスが、つづくムガル帝国によるインド全域の統一につながった、としています。

15世期初頭、〔……〕独立した地方王朝らラージープートの小王朝が現れてきた。なかでもムスリムの地方諸王朝は、各地にイスラムを浸透させるのに貢献したのみならず、ラージープートの豪族や小王朝と同盟したり、またヒンドゥーを貴族として登用するなど、のちに、ムガル皇帝アルバクによって展開されるムスリムと非ムスリム共生の政策への地ならしとして歴史的に重要な役割を演じている。

─ p.94

民族間・宗教間の対立が和らいだことで、広範囲にわたり統治がしやすくなったわけです。

ムガル帝国の形成

まず、カンタンに、ムガル帝国の概要をみていきます。

王位の流れは、こんなかんじです。

・バーブル(1526年〜1530年)

・フマーユーン(1530年〜1556年)

・アクバル(1556年〜1605年)

・ジャハーンギール(1605年〜1627年)

・シャー=ジャハーン(1628年〜1658年)

・アウラングゼーブ(1658年〜1707年)

約200年にわたり、6代の国王が、インド全域をおさめていきました。

創始者はバーブル帝ですが、3代国王「アクバル」が帝国建設のベースを築きます。

支配層を組織化し、「マンサブダール制」というしくみを導入します。

それぞれの役人に階級をつけ、維持すべき騎兵・騎馬におうじて、報酬を支払うようにしました。

さらに、「非ヒンドゥー教徒」に課せられていた人頭税(シズヤ)を廃止し、「イスラム – ヒンドゥー」の融合をはかります。

しかし、さいごの国王、「アウラングゼーブ」のときには、衰退していきます。

熱烈なイスラム教信者だったかれは、

・ヒンドゥー寺院の破壊
・人頭税の復活

など、非寛容・排他的な政策をおこない、人びとのつながりを分断させます。

結果、地方豪族の反乱し、「マラーター王国」など、有力王朝が発展 ─ 。

アウラングゼーブの死後、すぐさまムガル帝国は解体にむかいます。

ムガル帝国の発展要因

しばらく、インド地域には、統一王朝は生まれませんでした。

そこから、なぜムガル帝国が形成され、発展していったのでしょうか。

一言でいえば、融和政策をおこなったからです。

イスラム勢が進出したあと、インド地域には、ヒンドゥー教徒 / イスラム教徒が対立してました。

いっぽうで民族面でも、インド人 / トルコ人のあいだで分断が起きていました。

そこで、3代国王「アクバル帝」が、さまざまな制度を導入して、融和をはかります。

ラージープートとの同盟に踏み切ったアクバル帝の決断は、たんにヒンドゥー、非ムスリムとの共存が、ムガル帝国の統治方針として打ち出させるものではなかった。それは、ムガル皇帝がムスリム、ヒンドゥーなどの宗教・宗派のいかんに問わず、すべての人びとの長であることを示す第一歩となったものであり、インド・イスラム史に画期的な1ページをくわえることになった。

─ p.141

具体的には、

・奴隷を捕虜にすることを禁止
・ヒンドゥーによる聖地巡礼税の廃止
・人頭税(シズヤ)の廃止

など、公平に民衆をあつかうしくみを採っていくわけです。

コレにより、国内の秩序が保たれ、帝国そのものが発展していったわけです。

ムガル帝国の衰退要因

いっぽうで、なぜムガル帝国は衰退していったのでしょうか。

歴史の流れをみると、イギリス外交による圧力とみることもできます。

しかし、それ以上に、非寛容で、排他的な国内政策のほうに問題がありました。

うえに述べたとおり、さいごの国王「アウラングゼーブ」は、ヒンドゥー教徒にたいする人頭税を復活させるなど、不公平な制度を取り入れていきます。

また、本人が熱心なイスラム教徒であったため、ヒンドゥー寺院・仏像などを破壊し、排他的な宗教政策をおこなっていきます。

民衆の立場・意識を分断させ、秩序を乱していきます。

結果、地方・辺境に有力者が現れるなどして、帝国による統治が困難になり、最終的には、崩壊へとつながっていきます。

おわりに

本書は、「ラージープート時代〜ムガル帝国の形成」にかけての歴史を、カンケツにまとめています。

ラージープート時代の状況、イスラム勢力が進出したあとのようすについても、くわしく書かれています。

出来事の流れだけでなく、しくみや内容について、深く知りたい方は、たいへん参考になります。

文体もカタくなく、読みやすいです。

インド史を知りたい方は、ぜひチェックしてみてください。

ではまた〜。