どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・大躍進運動
・人民公社
・チベット反乱
・プロレタリア文化大革命
・4つの現代化
・天安門事件
・周恩来
・蒋介石
・鄧小平
・第二次大戦後、中国はソ連と同盟関係をむすんでいたが、中ソ対立により孤立化し、一時、米中が接近した
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
中華人民共和国の歴史① ─ 国民党 vs 共産党

中国から日本軍が撤退する前後から、国内では[国民党 vs 共産党]の対立がふたたび激しくなります。
国民党は蒋介石をリーダーとしていましたが、きほん彼の独裁であり、国民党は内部からじょじょに腐敗し、崩壊していきます。
また経済も混乱しはじめて、民衆からの支持も失っていきます。
反対に共産党は、規律の整った人民解放軍のもと地方農村を中心に土地改革をおこない、人びとにその利益を還元します。
その結果、農民やあまり豊かではない民衆からだんだんと支持をあつめていきます。
勢いにのった共産党は、北京で人民政治協商会議を開き、党員や民主派の人びとを結集させ、中華人民共和国が成立させます。
そのさいの国家主席は毛沢東で、首相には周恩来が就きました。
かれらは「新民主主義」とよばれる政治方針をかかげ、帝国主義や封建勢力に対抗するため、民主制を支持する人たちに協力をもとめました。
とはいえその実態は、毛沢東の一党独裁体制であり、政権を獲得したあとは、その特色が鮮明にあらわれています。
いっぽう国民党のリーダーである蒋介石は、共産党の勢いにおされ台湾に逃れます。
その地で国民政府を維持し、アメリカや国連の支持をうけながら、国家存続をたもちます(台湾中華民国)。
中華人民共和国の歴史② ─ 大躍進運動&中ソ対立

政権奪取に成功した共産党は、社会主義国のソ連と手をむすび中ソ友好同盟相互援助条約を締結します。
さらに国内では、土地改革法を施行し、地主による土地所有を全面的に廃止します。
また朝鮮戦争が勃発したときには、国境防衛の観点から人民義勇軍をおくり、アメリカを中心とした国連軍と戦闘をおこないます。
五カ年計画の実施
朝鮮戦争も終結し、国際環境が安定したあと、毛沢東は国力強化に着手します。
第一次五カ年計画を発表し、
・農業集団化
・重工業化の促進
・中華人民共和国憲法の制定
を約4年かけて一気におこないます。
つづく第二次五カ年計画では「大躍進」をかかげ、さらなる国力強化にはげみます(大躍進運動)。
そのさい、フルシチョフによるスターリン批判以降、資本主義陣営との平和共存にかじを切ったソ連に対抗するかたちで、中国独自の社会主義体制を構築していきます。
その内容はおもに、
・人民公社による農業集団化
・急激な重工業化
といったものでした。
しかしその結果はさんざんなものでした。
重工業政策では、ソ連との関係悪化からソ連技術者が本国へ引きあげてしまい、それにより科学的根拠のない施策ばかりおこない、約1500万人にのぼる餓死者を出してしまいます。
一連の失策から責任を負わされた毛沢東は国家主席の座をおりて、劉少奇に譲りわたします。
しかしこれは形式上のものであり、共産党の人事権と軍事権は毛沢東がにぎったままでした。
その後、劉少奇と鄧小平がさきの五カ年計画を見直し、調整政策を実施します。これにより中国経済は何とか立て直しをはかることができました。
中国の孤立
さきにみたとおり、第二次五カ年計画まえには中国とソ連の関係は一気に冷えこみます。
直接のきっかけはチベット反乱のあと、ダライ=ラマがインドに亡命し、中国とインドとの国境付近で紛争がおきたものの、ソ連は中国ではなくインドを支持したことでした。
またキューバ危機のあと、部分的核実験禁止条約をむすぶなど、アメリカをはじめとする資本主義陣営に寄りそうソ連の態度も、対立の引きがねとなりました。
中ソ対立の結果、社会主義陣営は分裂の危機にひんし、また世界の民族運動や労働運動に打撃をあたえることになります。
中華人民共和国の歴史③ ─ 文化大革命&米中接近

社会主義陣営が分裂におちいるなかで、中国国内でも大きな動きがあらわれます。
それは、権力奪取を目的とした毛沢東によるプロレタリア文化大革命でした。
鄧小平による経済立て直しの成功から、政権中枢から外された毛沢東は、権限を奪いかえすため権力闘争をしかけます。
そのさい彼は一般民衆を利用し、紅衛兵の呼びかけをおこないます。紅衛兵とは、学生や工場労働者を中心とした熱狂的な社会主義信奉者たちです。
かれらをけしかけることで、資本主義復活をもくろむとされる劉少奇&鄧小平らの政治グループ(実権派)を徹底的に弾圧していきます。
いっぽう外交政策では、国内の混乱からできるだけ穏便にすませます。国連では、それまでの台湾中華民国をしりぞけて、かわりに常任理事国に承認されます(国連代表権の交替)。
また敵対していたはずのアメリカを招きいれ、ニクソン大統領の訪中が実現します。さらに同じ年には日本とも国交正常化をはかっています。
そんななかで文化大革命を主導してきた毛沢東がなくなります。これにより文革は終わりをむかえ、以降の中国はふたたび鄧小平らのグループに政治権限が移っていきます。
中華人民共和国の歴史④ ─ 改革開放&天安門事件

権力を取りもどした鄧小平は、文革で停滞した経済の復興にとりかかります。
彼は「4つの現代化」をかかげ、
・工業
・国防
・科学技術
の刷新をおこないました。
また経済にかんしては「改革開放」のもと、
・人民公社の解体
をおこないます。
一部マーケットのルールをとりいれたことから、鄧小平以降の中国経済は「社会主義市場経済」とよばれたりします。
ただし政治体制については共産党による一党独裁を維持します。
これにたいして民主化をもとめる天安門事件がおきるものの、要求する学生や市民にたいして中国政府は武力で弾圧します。
いっぽう外交政策では、ひきつづきアメリカをはじめとする資本主義陣営と良好は関係をきずいていきます。
また対立していたソ連とも国交を正常化させ、ときの大統領ゴルバチョフの訪中も実現します。
おわりに
中華人民共和国の歴史をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・大躍進運動
・人民公社
・チベット反乱
・プロレタリア文化大革命
・4つの現代化
・天安門事件
・周恩来
・蒋介石
・鄧小平
・第二次大戦後、中国はソ連と同盟関係をむすんでいたが、中ソ対立により孤立化し、一時、米中が接近した
この記事が、中華人民共和国の歴史を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。




