どうも、りきぞうです。
きょうは、「反省」について、考えました。
※ 本文の引用は、最下部の文献によります。
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大前提として、 反省に「後悔」は不要だ。
時間は取り戻せない。あなたがどんなに悔やんでも、起きた事実は、変わらない。
ムダなので、やめよう。
また「自己卑下」もいらない。
相手を怒らせようが、あなたはあなた自身で、すばらしい。
生きているだけで、じゅうぶん価値がある。
みずからおとしめる必要は、いっさいない。
図々しく生きて、まったく問題はない。
以上をふまえたうえで、「反省」について考えてみよう。
反省において大切なのは、アタマのなかに2つの基準を設けること。
1つは、話した言葉のうち、
を、はっきり区別する。
揉めた相手との話しあいを思いかえし、
を明確にする。
(こみ入った内容なら、紙に書いてみるのも、おすすめ)
ちゃんと区別できたら、後者(=まちがっているトコ)を、しっかりみつめる。
そのうえで「もう2度と、同じ失敗は起こさない」と、こころに決める。
これが「反省」の第一段階。
つぎに、2つ目の基準として、
を、明確にする。
この段階では、あなたも「相手の言い分は正しい」と思っている。
たとえば、つぎの画像。

この絵をみて、自分は「赤」だと言い、相手は「オレンジ」と言っている。
たしかに「オレンジ」に見えなくもない。それは認める。
しかしどうしても、あなたはこれを「赤」だと言いたい。
これが、「譲れないこと」。
お互いが正しいことは言っていて、にもかかわらず、「まもり通したい」と思っている考えや意見をさす。
・譲れないこと
を明確にする。
つまるところ、反省とは、この作業を意味する。
敬虔の道とは、かれらが跳び超えてしまった、まさにその中間に存在している。(p.280)
─ プルタルコス『モラリア2』 14
◯
とはいえ、ここまでは、アタマの中のおはなし。
もちろん、純粋な意味での反省は、これだけで済む。
しかし、反省をしただけでは、現実は動かない。
せっかくなら「反省」を生かしたほうがいい。
反省をもとに、揉めた相手 or 問題のある出来事に、のぞんだほうがいい。
なにをしたらよいのか?
それは、お互いのため or 事態の回復のために、方便をつくこと。
あなたが正しいのは分かった。
譲れないこともある。
それを丸ごと飲み込み、自分と相手のために、〝ウソ〟をつく。
ふたりのカンケー性をよくするために、むこうがうなづくような言葉をかける。
つまり、自我を押し殺す。
そう、残念ながら現実は、あなたがアタマのなかで整理した
・譲れないこと
をそのまま見せて、押し通しても、なにも動かない。
エゴを抑え、(意図して)引くことで、はじめて進展する。
だから、他人に場所を譲るのだ ─ 他人がおまえのためにそうしたように。(no.2079)
─ モンテーニュ『エセー2』19章
しかし、その場に立ち、やってみると分かる。
驚くほど、ムズかしい。
やろうとしたって、感情がオモテに出てきてしまう。
抑えるだけでも必死。
あなたにとっての〝正論〟を、思わず口に出してしまうことだってある。
さらに、方便を語り、事態がよい方へ進むなんて、めったいにない。
進んだとしても、その歩みはゆっくりで、時間がかかる。
自我を押し殺そうとしても押し殺せず、抑えたにしても、相手が納得し、認めてくれるとは、かぎらない。
むしろ、こちらのヘタな方便を見抜き、怒りや不満を助長するかもしれない。
けれど、仕事のやりとり or 政治上のかけひきは、この〝エゴの抑制〟に、かかっている。
どれほど、おのれを殺せるかで、果実の出来/不出来が決まる。
反省をちゃんといかすには、
・自分が譲れないこと
を明確にして、相手 or 出来事にのぞむ。
そのうえで、できるかぎり「2つのエゴ」を飲みこみ、自我を押し殺す。
反省の効果を発揮するには、どれくらい自我を抑えるのか、それにより、のちのちの展開が決まってくる。
フランス国王「アンリ4世」は、国内が「旧教 vs. 新教」の宗教対立で揉めているとき、自身は、新教の「ユグノー」を信仰していたのに、旧教の「カトリック」へ改宗した。
かれはこれを「とんぼがえり」と呼んだ。
結果、フランスは、争いに乗じたスペインの介入を避けることができ、国内の統一を回復した。
国王は、「正しいこと」「譲れないこと」をしっかりみつめたうえで、2つを押し殺し、成功の果実を手に入れた。
「反省」といったときに、
・自分が譲れないこと
を、アタマの中ではっきりさせる。
そして、行動にうつすさいには、相手 or 事態の進展をうかがいながら、この2つを押し殺す。
「反省」について、以上の流れを意識すると、あなたにとっても、相手にとっても、好ましい事態が、待ち受けている。
…
では、お元気で。