【書評】牟田口義郎『物語 中東の歴史』感想&レビューです。

どうも、りきぞう(@rikizoamaya)です。

大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。

社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。

働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。

働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。

・できるなぁ
・発想がすごいなぁ

と、思う人は、キホン、教養を身につけています。

なかでも、重要なのは「世界史」です。

ここ数年、ビジネスマンの必須知識として「世界史」が注目をあつめています。

ネット時代をむかえ、グローバル化が加速しているからです。

世界史といえば、ギリシャ・ローマなど、ヨーロッパがメインです。

とはいえ、ほかの地域も目をくばる必要があります。

なかでも中東エリアは、文明発祥地ということで、長い歴史があります。

ある程度、把握しておいたほうが良いです。

しかし、あつかう範囲も広く、年代も長い ― 。

大まかに理解するにも、一苦労です。

そんなとき、つぎの本を見つけました。

著者は、中東近現代史の専門家。

出版から15年以上たっていますが、内容は古びていません。

新聞記者をしていたこともあり、惹きつける文体で、読み手をグイグイ引っぱっていきます。

読んでいて飽きることはありません。

タイトルどおり「物語調」で、中東全体の歴史をあつかっています。

とはいえ、中世期の「イスラム勢力」がメインで、「古代オリエント文明」or「オスマン帝国」の記述は、さらっとしています。

2つの時代を、詳しく知りたい方は、ほかの本をチェックするといいかもです。

牟田口義郎『物語 中東の歴史』の概要

まずは、目次から。こんなかんじです。

序章 中東の風土
第1話 乳香と没薬
第2話 女王の都パルミラ
第3話 アラブ帝国の出現
第4話 「蛮族」を迎え撃つ「聖戦」
第5話 風雲児バイバルス
第6話 イスラーム世界と西ヨーロッパ
第7話 スエズのドラマ

「物語」ということで、章番号も「◯◯話」になってますね。

1・2話で、古代オリエント文明。アラビア地域を中心にあつかいます。

3話で、イスラム勢力の勃興&発展について。

4話で、ヨーロッパの「十字軍」との争い。

5話で、イスラム勢力とモンゴル帝国の対立・融和について述べます。

6・7話で、大交易時代以降、西欧列強とのカンケーについて語っていきます。

ポイントとなる事件をとりあげ、中東史の流れをみていくかんじです。

ストーリー形式なので、かなり読みやすいです。

牟田口義郎『物語 中東の歴史』の詳細

以下、個人的に気になったトコをみていきます。

イスラムによる統治のしくみ

「イスラム勢力」というと、武力でもって侵略し、一気に領土を広げたイメージがあります。

「剣かコーランか」 ─ つまり、イスラム教を改宗しなければ、殺害するとせまり、ほかの国を統治していくイメージです。

しかし、じっさいはちがいます。

どちらかといえば、侵略地域にたいして、「貢納(こうのう)」を求めました。

税金さえ納めれば、武力も使わないし、改宗も迫らない、ということです。

じつは、コレが領土拡大のカギでした。

3つの選択肢のうちのひとつを選ぶことを求めたのであるが、この「もうひとつの条件」が後世のヨーロッパでも、したがって日本でも、故意に無視されてきた。3つの選択肢とは、「コーラン」(イスラームへの帰依)か、降伏して「貢納」するか、それとも「剣」(戦争)かであって、彼らは実は、この3つのなかの「貢納」をもっとも求めたのである。(no.977)

もっといえば、むしろ、アラブ人以外が、イスラムに改宗しないようにうながしていたようにみえます。

というのも、イスラムの教えでは「神のもとでの平等」をうたっているからです。

いったん、イスラム教徒になれば、だれでもわけへだてなくサポートしなくてはなりません。

そうなると、保護するために、費用・コストが、たくさんかかってしまいます。

それを避けるためにも、アラブ人以外は、イスラム教徒に帰依しないよう、ほどこしていたかんじです。

初期の征服者たちは相手が、つまり非アラブがイスラームに帰依するのを好まなかったふしがある。「アッラーの前にあっては皆平等である」とイスラームは説く。帰依したとなれば、彼らを平等に扱わねばならず、征服地からの実入りは少なくなって、帝国の膨大な維持費を捻出できない。(no.982)

むしろ、改宗せず、「貢納=税金」をおさめてくれたほうが、統治する側としては〝うるおい〟ます。

なので、武力行使も、改宗の追求もせずに、「貢納」だけを求めました。

とくに、それまで、武力で支配されたり、重い税に苦しんでいた民衆からすれば、イスラム勢力は、解放者・救済者にみえたはずです。

このような背景から、イスラム勢力が、急拡大したわけです。

この指摘は、納得ですよね。

〔……〕かれら〔イスラム勢力〕は、相手が降伏しやすいように、この貢納額を前支配者時代の納税率より低く押さえた。征服者が被征服者から解放者として迎えられた理由の一半はここにある。征服時代に見られる狂信性とは反対の寛容性は、じつは〔……〕現実主義に裏打ちされていた。(no.990)

反十字軍の英雄 ─ サラディン

世界史において、「十字軍遠征」は、失策として有名です。

その背後に、イスラム勢力の活躍がありました。

代表的な人物が、サラディンです。

かれは、混乱した中東地域を統一し、いったん十字軍に奪われたエルサレムを奪還しています。

知恵者のサラディン

サラディンですが、政治家として、かなり優秀です。

600年代以降、イスラム勢力が広まったあと、中東地域では、シーア派 vs スンナ派が対立していました。

サラディンは、シーア派(=ファーティマ朝)のトップであると同時に、スンナ派・ヌールッディーンの家臣というカンケーでした。

当然、上官・ヌールッディーンからは、「ファーティマ朝の国王「カリフ・アル・アーディド」を殺して、シーア派を倒せ」と命令されます。

けれど、サラディンは、武力行使には出ません。

というのも、ファーティマ朝の国王が、病気だと知っていたからです。

〔……〕宰相になって二年半後の、1171年10月、カリフ・アル・アーディドの病死の際によく現れている。「ファーティマ朝を倒してスンナの教義を確立せよ」とのヌールッディーンの度重なる命令に耳をふさぎ、彼は、この病弱で温和な少年カリフの早い自然死を見通して、じっと待っていたのである。(no.1766)

病死するのを待ち、民衆の血を流さずに、スンナ派をおさめようとしました。

じっさい、ヌールッディーンが亡くなると、つぎのトップ候補を出せないスンナ派は、サラディンの統治を認めることになります。

アル・アーディドが20歳で死んで、ファーティマ朝は消滅した。と同時に、この断絶を完全にするため、ただちに彼は厳格な措置をとる。王族の男女を隔離して、子孫の出生を禁じたのだ。こうして王朝の交代は一滴の血も流れずに実現した。当時にあっては稀有の現象というほかない。青年宰相はエジプトの真の支配者になる。(no.1770)

この戦略をみても、かれの優秀さがわかりますよね。

その後も、税金の免除など、民衆の不満が出ないように、領土をおさめていきます。

いっぽう、親族を軍部の中核にすえながら、クルド人、トルコ人、シリア人からなる連合軍の設立 ─ 。

さらに、エジプト軍を整備し、南エジプト&イエメンの統治を果たします。

こうして、中東地域をまとめあげたうえで、十字軍との戦い、エルサレムの奪還に挑むわけです。

これでは、十字軍サイドも、勝てないとわかりますね。

最終的には、サラディンの活躍もあり、イスラム勢力が、エルサレムを取りもどし、しばらく統治することになります。

ちなみに、著者は、エルサレム奪還よりも、中東地域(シリア&メソポタミア)の統一のほうが、よほどムズかしかったと指摘します。

当時の中東は、権力&民族が乱立し、「イスラム教」という〝旗じるし〟だけでは、困難だったからです。

それを示すように、エルサレムは数年で取りもどしていますが、中東統一には13年もかかっています。

年数をみても、統合のムズかしさがわかります。

早いピッチでエルサレム王国は滅んだのに、このときと彼のダマスカス入城とのあいだには、13年の月日が流れている。この13年間に、彼は何をしていたのか。ひとことでいえば、シリア、メソポタミアの再統一はそれほど難しかったということだ。サラディンは大国エジプトのスルタンになったとはいえ、ザンギー家は彼を家臣と思っているし、さらにクルド人として差別していた。部将たちも同様だ。そのような状況下でジハード〔イスラムの説教〕を唱えても通じない。(no.1789)

このような事情も、世界史の教科書をみているだけでは、わからないトコですね。

マムルーク朝 vs モンゴル勢

ヨーロッパの「十字軍遠征」のあと、こんどは、中東の北部から「モンゴル帝国」が侵入していきます。

これにより、ふたたび中東地域は、混乱します。

最新の軍事技術をもつ「モンゴル軍」は、中心都市「シリア」を陥落させます。

そのなか、中東の秩序を回復させたのが、マムルーク朝に仕えた、軍人「バイバルス」でした。

かれは、奴隷出身でありながら、優れた軍事能力、政治手腕を発揮して、中東地域をおさめていきます。

サラディンにくらべ、殘酷なトコはあります。

しかし、強敵「モンゴル帝国」を追放 or 交渉するには、ある程度、武力に訴えるしかなかったかもしれません。

バイバルスは、モンゴル帝国の軍事技術を、みずからの軍隊にも取り入れ、対抗します。

サーリフはここで徹底的にモンゴル戦術を仕込んだ。無敵といわれるモンゴル軍の侵略をはね返すには、少なくとも彼らと同じ装備、同じ技術に精通しなければならない。(no.2242)

それにより、なんとか、イスラム勢力によるチカラを保つことになります。

内政においても、すでに形式化した「カリフ」(=イスラム教のトップ)を、マムルーク朝の国王に譲ります。

そのうえで、みずからは実権を握り、「スルタン」の立場について、政治運営をおこないます。

こうして、つぎの「オスマン帝国」が登場するまで、中東地域を秩序を維持していきます。

カリフは象徴にすぎなかったが、この制度の復興と引き換えに、彼はいまや合法的なスルタンの位を獲得、「イスラームの英雄」「カリフの協力者」とカリフに呼ばれることになる。〔……〕マムルーク朝の首都カイロが名実ともに正統イスラーム世界の中心となった第一歩でもある。カイロのこの地位は、1517年、マムルーク朝がオスマン・トルコ帝国に滅ぼされ、カリフ制がイスタンブルに移されるまで、約270年間つづく。(no.2579)

おわりに

こんなかんじで、

・古代オリエント文明の発祥

・アイユーブ朝 vs ヨーロッパ「十字軍」

・マムルーク朝 vs モンゴル帝国

・オスマン帝国の成立

など、中東全体の歴史をみていきます。

物語調で読みやすく、中東史を把握するには、もってこいの1冊です。

中東の歴史を知りたい人は、チェックしてみてください。

ではまた〜。