【図解】モンテーニュの思想&名言 ─ 「クセジュ?」「死生観」

どうも、りきぞうです。

大学のころから、哲学に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・哲学書にあたってきました。

モンテーニュの哲学にも、ふれてきました。

同じように、知りたいなぁと思っている人もいるかと。

とはいえ、

モンテーニュはどんな人?
モンテーニュ思想のポイントは?
かれの残した名言は?

─ こんな悩み&疑問をいだく人も多いはず。

そこで、この記事では、モンテーニュの考えをみていきたいと思います。

先に結論をいうと、つぎのとおり。

りきぞう

モンテーニュは、近世ヨーロッパの思想家
「クセジュ?」をキーワードに、人間の性格・習慣・生死について考察した
死について「未完成のわが菜園のことなど、全然気にもしていないときに、死が迎えにきてくれればいいと思っている」といった名言を残している

以下、目次にそって、[著者 → ポイント → 名言]の順でみていきます。

ちなみに、参考にしたモンテーニュの本は、こちら。

引用ページも、本書によります。

著者

モンテーニュは、1533年〜1592年に生きた人です。

フランスの作家、思想家です。

当時は、古代ギリシャ&ローマの古典を見直す「人文主義運動」が盛んでした。

かれは、その代表者とされています。

また「モラリスト」ともよばれます。

「モラリスト」とは、いわゆる〝道徳家〟のことではありません。

・個人の性格
・世の中の慣習
・人間の生き方

など、みじかなテーマについて、わかりやすい言葉で考察していく人びとをさします。

1500年代〜1700年代に活躍し、パスカル、ラ・ロシュフコー、ラ・ブリュイエールなどが有名です。

モンテーニュは、貴族と子どもとして生まれ、父の死により、1568年にモンテーニュ城を相続しました。

かれの唯一の著書である『エセー』は、これ以降、書かれるようになります。

父親が「ボルドー市長」だったこともあり、1581年に就任しています。

『エセー』は、法官を退いたあと、1572年から執筆がスタートして、1580年に出版されました。

ポイント

モラリストということで、さまざまなテーマをあつかい、思考を重ねていきました。

モンテーニュ思想のスタンス・ポイントは、「クセジュ?」です。

カンケツにまとめると、つぎのとおり。

図解説明

「クセジュ?」とは、「わたしは何を知っているだろうか?」の意味。

独断・偏見におちいらず、感情・習慣・生死など、みじかなできごとを観察 ─ 。

「自分は正しい」と思い込むのではなく、常にものごとを疑い、独りよがりの思考を避ける

そのうえで、現実を冷静にみつめ、人びとがお互いに認め合う世界を模索する。

宗教戦争にみられるように、先入観 or 価値観の押しつけは、悲惨な結果をもたらす。

過ごしやすい世界をつくり、生きやすい人生を送るには、独断思考におちいらず、寛容性を身につける必要がある

ひとこと

いまの「エッセイ」の語源になっているとおり、体系的な哲学書といったかんじではありません。

自分が読んだ古典へのコメントや、自身のエピソードにたいする意見を記したものです。

ブログ記事にちかいです。

というわけで、語り口もやさしく、親しみやすい内容になっています。

テーマも、

・暇
・友情
・怒り

などなど、みじかなトピックをあつかっているので、共感しながら、読みすすめていけます。

賢い知人が、そばで語ってくれているかんじですね。

また、訳者「宮下志朗」さんの翻訳が、めちゃくちゃすばらしいです。

訳文とは思えないほどの〝なめらかさ〟。

ひらがな&漢字のバランスがよく、文章を学ぶうえで、参考になります。

名言

つぎに、モンテーニュの名言をあげていきます。

知性に過大な信頼をよせてはいけない

〔……〕要するに、人間の知性にしたがって、知性がついていけるところまでいって、見られるものだけのものを見るということにすぎないのであって、それを越えると、すべて怪奇であり、無秩序なのである。〔……〕「人間の理性には、いかなる足場も基礎もないのだ〔……〕」(p.157)

─ 『エセー 4』 第12章「レーモン・スボンの弁護」

「クセジュ?」のもと、モンテーニュは、独断・偏見におちいらずに、思考を重ねていきます。

その立場を、わかりやすくあらわしたのが、この文章です。

独断・偏見は、知性にたいして〝過大な期待をよせすぎること〟から生じます。

人間の能力なんか、たかが知れているんだから、冷静になって、自分を疑い、ものごとを見つめよう、と説きます。

ここから「クセジュ?」が生まれます。

徹底した懐疑主義から、「わたしは何を知っているだろうか?」というセリフが出てくるわけです。

懐疑主義という考え方は、わたしが天秤といっしょに銘とした「わたしはなにを知っているのか?」のように、疑問形で示せば、より確実にわかるのである。(p.160)

─ 『エセー 4』 第12章「レーモン・スボンの弁護」

ちなみに「クセジュ?」は、モンテーニュの決まり文句とされますが、この箇所でしか記されていません。

全3巻をとおして、1回しか述べていません。

これはけっこう意外です。

アダム・スミスの「見えざる手」と同じように、キャッチーな言葉ゆえに、やたらめったら書いているイメージがついてしまったのかもですね。

これもひとつの偏見です(笑)

習慣の威力

われわれの判断や信念のなかで、はたして習慣に不可能なことがあるのだろうか? たしかに、いかにも突飛な考え方というものがある。でも、どれほど奇妙なものの見方であっても、それは習慣が、自分にとっていいと思う地域に、いわばルールとして植えつけて、築きあげたものではないのだろうか?(no.2665)

─ 『エセー 1』 20章「想像力について」

ものごとを観察&判断するときに、いちばんネックになるのが「習慣」です。

というのも、ひとは「知性をフル活用して考えている」と思っているときでも、どうしても習慣・慣習に〝引きずられる〟からです。

そのため、ものごとをゆがめ、ひいては、価値観の落ち着けになってしまう。

悲惨な事態を避けるためにも、モンテーニュは、全巻をつうじて、何度も「習慣の影響力・大切さ」について語ります。

これは、モンテーニュにかぎらず、「モラリスト」といわれる思想家に共通していえることです。

かれらはなによりも「習慣」を重視します。

メメント・モリ ─ つねに死を思え

わたしは人が動きまわって、人生の務めをできるかぎり長くのばすことを望んでいる。そしてキャベツかなんかを植えていて、死ぬこととか、ましてや、未完成のわが菜園のことなど、全然気にもしていないときに、死が迎えにきてくれればいいと思っている。(no.1942)

─ 『エセー 1』19章「哲学することとは、死に方を学ぶこと」

『エセー』において、習慣と同じくらいあつかっているテーマが「死」です。

いつ死んでもいいように、いまを生きよ

これが、かれの人生観です。

くわえて、

あなたが思うような死に方を期待するな

とも述べます。

死むことなんか考えずに生きている人からしたら、なかなか〝きびしい〟生活態度です。

けれど、「自分が死にたいように、死んだ人間なんか、ほとんどいない」ことについては、

・過去の歴史
・自分の体験

など、たくさんの事例・エピソードをそえて、語ります。

そのために説得力があり、いやがおうでも納得してしまう。

もちろん「すぐさま死ぬことを意識して、日々を送る」なんていうのは、ムリです。

とはいえ、死を意識して生きれば、日常の大切さに気づくのも、また事実です。

モンテーニュのはなしをキッカケに、死ぬことから、人生を考えてみるのも、アリかと思います。

まとめ

まとめると、

りきぞう

モンテーニュは、近世ヨーロッパの思想家
「クセジュ?」をキーワードに、人間の性格・習慣・生死について考察した
死について「未完成のわが菜園のことなど、全然気にもしていないときに、死が迎えにきてくれればいいと思っている」といった名言を残している

ぜひ、モンテーニュの哲学を知るうえで、参考にしてみてください。

ではまた〜。