ギリシャのアテネ ─ 民主政・ペルシャ戦争・スパルタ・陶片追放・デロス同盟・ペロポネソス戦争

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・古代ギリシャのアテネについて知りたい
・大事なキーワードは?
・重要な人物は、だれ?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・ドラコン法
・僭主政治
・陶片追放
・ペルシャ戦争
・デロス同盟
・ペロポネソス戦争
・デマゴーゴス
重要人物
・ソロン
・ペイシストラトス
・クレイステネス
・デミストクレス
・ペリクレス
ポイント
・アテネでは[ドラコン法 → ソロンの改革 → ペイシストラトスの僭主政治 → クレイステネスの改革]の順で、民主政がすすんでいった
・ペロポネソス戦争のあと、土地を失った市民が没落し、市民皆兵の原則がくずれたことで傭兵が流行した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

ギリシャのアテネ① ─ 民主政の進展

ソロン

B.C.8世紀以降、ギリシャ一帯には、さまざまなポリスが形成されます。そのなかもっとも発展したのがアテネでした。

もともとアテネはイオニア人が集住してつくられたポリスです。果樹栽培と地中海交易によって繁栄しました。

アテネは民主化をすすめていった都市国家として知られています。

流れをつぎのとおりです。

  • ドラコン法の制定
  • ソロンによる改革
  • ペイシストラトスによる僭主政治
  • クレイステネスによる改革

以下、順々にみていきます。

ドラコン法の制定

それまでアテネでは貴族政をとっていました。

民主化の動きは、君主ドラコンによる法制定から始まります。

彼は、それまで貴族が従ってきた慣習法を成文化しました。これにより、貴族が独占してきた法そのものが、民衆の手に渡されます。

ただし、ひとつ注意したいのは、ドラコン法が制定されても、平民が法を制定したり、判定することはできなかった点です。

あくまで貴族がまもってきた法のなかみがオープンになったという程度です。

もちろん、貴族がそれまでどんなルールにもとづき支配をしていたのか分からなかったわけなので、成文化しただけでも、大きな一歩でした。

ソロンによる改革

つづいてソロンが登場します。

彼は、ますます激しくなる貴族と平民の対立を調停します。

当時、海洋交易がさかんになり、商業が活性化するいっぽう、貴族と平民の経済格差が広がっていました。

平民のなかには借金にくるしみ、奴隷に身をおとす人もたくさんいました。

そこでソロンは、平民の没落を防ぐため、つぎのような対策をとりました。

・負債の帳消し
・債務奴隷の禁止
・財産政治の実施

3つめの財産政治とは、血統によらず、財産におうじて参政権を認める政治のことです。

たしかにこれだけでは、富裕層だけが発言権をもち、平民の不満を解消できないような気がします。

けれど、負債の帳消しや、債務奴隷を禁止するだけでも、平民にとってたいへんありがたいものでした。

また貴族からしても、負債にくるしむ奴隷が、暴動をおこす問題に悩まされていました。そのため、かれらの負担を減らすことには、それなりに賛成の態度を示しました。

このようにソロンは、一方的に民衆の味方になってわけではなく、富裕層の貴族にも配慮し、両者の不満をバランスよく解消しました。

彼は、人びとの気持ちがバラバラになり、共同体が崩壊することを、なにより恐れていました。市民全員が兵に参加し、一致団結してポリスを守ろうとする気運を高めていったわけです。

ペイシストラトスによる僭主政治

ソロンのあとにペイシストラトスが登場します。

彼は平民の支持を得て、法のルールを無視して、政権を獲得します。そのために教科書などでは独裁者のように書かれています。

けれど僭主としておこなったことは、

・貧民への土地の再分配
・中小農民の育成と保護

など、平民に有利な政策ばかりでした。

たしかに、君主になるまで手順は独裁的でした。けれど、じっさいにおこなった政策は、きわめて民主的でした。

ペイシストラトスは、もうすこし評価されてもいい政治家のような気がします。

クレイステネスによる改革

さいごに登場するのがクレイステネスです。

彼こそが、アテネ民主政の基礎をかためました。

具体的には、

・血縁的な部族の廃止
・地縁にもとづく10部族制の制定
・陶片追放による僭主出現の抑止

の3つです。

彼は、政治団体を血縁から地縁にかえることで、貴族の影響力を減らそうとしました。

また、陶片追放というしくみをつうじて、僭主になりそうな政治家を、あらかじめ抑えようします。

陶片追放とは、

僭主になりそうな人の名前を土器の破片(=陶片)に書いて投票し、一定の票数を集めた者を10年間、アテネの外へ追放する

という制度です。

アテネならでは投票システムですが、じっさいは僭主出現の抑止にはつながらず、のちの時代には政争の道具にされてしまいます。

ギリシャのアテネ② ─ ペルシャ戦争

三段櫂船

このようにアテネは民主政をすすめていきました。

そのなかでおきたのがペルシャ戦争でした。相手はオリエントの強国アケメネス朝ペルシャ帝国です。

以下、[背景 → 展開 → 影響]の流れでみていきましょう。

背景

戦争のきっかけは、イオニア市の反乱でした。

当時この地域は、アケメネス朝ペルシャがおさめていました。しかし過酷な支配から、ミレトスのエリアを中心に民衆反乱がおこります。

そのさいイオニアの人たちは、アテネに救援をもとめます。

アテネ貴族のなかには、メンドーな争いにまきこまれるべきではない、という意見もありました。けれど、イオニアとの経済利益に目がくらんだアテネは軍艦を提供します。

反乱はそのものはすぐにおさまりましたが、この支援により、ペルシャ側にアテネ攻撃の口実をあたえることになります。

これがペルシャ戦争のきっかけです。

展開

ペルシャ戦争では、つぎの戦いが戦況に大きな影響をあたえました。

・マラトンの戦い
・サラミスの海戦
・プラタイアの戦い

マラトンの戦いでは、アテネの重装歩兵が活躍し、アケメネス朝の軍隊を撃破します。

サラミスの海戦では、名将テミストクレスによる指揮のもと、アテネ海軍が快勝します。

プラタイアの戦いでは、アテネの手を組んだスパルタの陸軍が奮闘し、アケメネス朝の軍勢を苦しめます。

影響

ペルシャ戦争での勝利により、ギリシャ人は、

「ポリスの自由が、オリエントの専制に勝利した」

と自覚するようになります。

また、戦争の主役だったアテネは、ほかのポリスとデロス同盟をむすび、盟主としてギリシャ一帯を支配していきます。

さらにアテネ国内では、サラミスの海戦で活躍した三段櫂船の漕ぎ手が、発言権をつよめていきます。

もともとかれらは、自前で武器を買えず、重装歩兵部隊に入れないような無産市民でした。

お金のない者たちが政治権限をつよめることで、アテネではよりいっそう民主化が加速します。

ギリシャのアテネ③ ─ ペリクレス時代

ペリクレス

ペルシャ戦争後、アテネの民主化は、さらにすすんでいきます。

その動きを完成させたのがペリクレスでした。彼は古代民主政を完成させた人物として、いまでも高く評価されています。

ペリクレスはまず、すべての成年男性市民が参加する民会こそが、アテネの最高意思決定機関である、とさだめます。

そのうえで、(将軍職をのぞき)役人や裁判官はクジで選ぶと決めます。

これにより、政治参加の面では、市民は貧富の差にかかわらず、みな平等ということになりました。

ただし、いまのわたしたちからみれば、かなり物足りない民主制度といえます。

そもそも民会は、奴隷制を土台にした直接民主政で、女性・在留外人・奴隷には参政権は、いっさい認められていませんでした。

さらに、ペリクレスが提案した市民権法(B.C.451年)では、アテネの市民権は、両親がアテネ人で、かつ、18歳以上の男性に限られる、と定めていました。

「ペリクレスの時代に古代民主政が完成した」といっても、かなり制限がかかってきました。

ギリシャのアテネ④ ─ ペロポネソス戦争

ペロポネソス戦争

デロス同盟により、アテネはしばらく繁栄のときをむかえます。

デロス同盟では、盟主にたいして貢納金をおさめる決まりになっており、結果、アテネには多額の資金が流れこんできます。

じっさい、あの絢爛豪華なパルテノン神殿は、この時期に建てられます。

しかし、同盟関係とはいえ、専制君主のようにふるまうアテネにたいして、ほかのポリスがだんだんと不満をつのらせていきます。

もっとも怒りに燃えていたのが、かつての宿敵スパルタでした。

デロス同盟に参加していなかったスパルタは、かれら独自でペロポネソス同盟を組み、アテネに不満をもつポリスを引きこんでいきます。

ここに、デロス同盟とペロポネソス同盟の対立がおこりペロポネソス戦争が勃発します。

デロス同盟 vs ペロポネソス同盟

戦争は、約30年にわたり、散発的につづけられました。

ですが、お互いにこれといった勝利もなく、〝ドロ試合〟のようすをみせます。

デロス同盟側ではあるアテネでは、当初ペリクレスの指揮のもと、ねばりづよく戦っていました。

しかし彼が疫病によって亡くなると、アテネの政治はみだれ、戦況も不利になっていきます。

デマゴーゴス

さらに、交戦をあおる扇動政治家(デマゴーゴス)もあらわれ、アテネは衆愚政治におちいります。

けっきょくアテネは、ペロポネソス同盟をひきいるスパルタに敗れ、なんら戦果をあげないまま、終戦をむかえます。

いっぽう勝利したスパルタも、かつて戦ったアケメネス朝ペルシャ帝国から救援をうけたにもかかわず、利益を得ることはありませんでした。

一時は、ペロポネソス戦争のきっかけとなったテーベの覇権をにぎるものの、アケメネス朝の外交政策により、ほんろうされ、いいように扱われます。

けっきょくギリシャ一帯は、戦乱により土地をうしなった市民が没落し、ポリスの秩序も乱れます。

資産をなくした市民は傭兵として働くようになり、市民全員が兵となり、みずからのポリスをまもるという原則(=市民皆兵の原則)も崩壊します。

こうして、アテネをはじめとするポリスの民主政は、失われていくこととなりました。

おわりに

ギリシャのアテネをみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・ドラコン法
・僭主政治
・陶片追放
・ペルシャ戦争
・デロス同盟
・ペロポネソス戦争
・デマゴーゴス
重要人物
・ソロン
・ペイシストラトス
・クレイステネス
・デミストクレス
・ペリクレス
ポイント
・アテネでは[ドラコン法 → ソロンの改革 → ペイシストラトスの僭主政治 → クレイステネスの改革]の順で、民主政がすすんでいった
・ペロポネソス戦争のあと、土地を失った市民が没落し、市民皆兵の原則がくずれたことで傭兵が流行した

この記事が、アテネを知りたい人の参考になれば、うれしいです。

では、また。