イランとアラブ諸国の民族運動 ─ パフレヴィー朝・ワフド党・エジプト王国・サウジアラビア王国【世界史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・イランとアラブの民族運動について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・パフレヴィー朝
・ワフド党
・エジプト王国
・サウジアラビア王国
・フセインマクマホン協定
・バルフォア宣言
重要人物
・レザー=ハーン
・イブン=サウード
ポイント
・イギリスはエジプトの独立は許すものの、スエズ運河地域における軍駐屯はそのまま継続した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

第一次大戦後、イラン地域とアラブ諸国のあいだで民族運動がもりあがってきます。

  • イラン
  • エジプト
  • サウジアラビア
  • シリア

の順で、そのようすをみていきましょう。

イランとアラブ諸国の民族運動① ─ パフレヴィー朝

レザー=ハーン

それまではイラン地域は、カジャ〜ル朝がおさめていました。第一次大戦では中立宣言をおこなうものの、その後、イギリス&ロシアの侵攻に合い、占領されてしまいます。

しばらくして民衆のあいだから両国への反発が高まり、ついにはレザー=ハーン主導のもと、クーデターが決行されます。

これによりパフレヴィー朝が成立し、彼は「シャー(国王)」を名のったうえで、ヨーロッパ式の近代化改革をおしすすめていきます。

また国名をそれまでのペルシャからイランへと改称します。

ただしパフレヴィー朝が成立したあとも、イラン地域での石油利権については、イギリスがそのまま確保しました。

いっぽう隣国のアフガニスタンでは、第三次アフガン戦争がおこり、それまでのイギリスによる保護国から独立を果たすことになります。

イランとアラブ諸国の民族運動② ─ エジプト

ワフド党によるカイロでのデモ

それまでエジプトはイギリスの保護国でした。

しかしワフド党の反イギリス独立運動によりエジプト王国として独立します。

とはいえ、エジプトの保護国化は廃止されるものの、

・防衛権
・スエズ運河地帯の駐屯権

は、そのままイギリスがにぎったままでした。

その約15年後には、エジプト=イギリス同盟条約がむすばれます。

これによりエジプトは完全に主権を回復し、イギリス軍も撤退します。

しかしそれでもまだ、さきにあげた防衛権&スエズ運河地帯の駐屯権は、イギリスが手にしたままでした。

そのためにエジプトが事実上の主権国となるためには、第二次大戦後を待たなくてはなりません。

イランとアラブ諸国の民族運動③ ─ サウジアラビア

ルーズベルト大統領と会談するイブン=サウード

第一次大戦まえから、アラビア半島の中部地域に位置するサウジアラビアは、サウード家のイブン=サウードがおさめていました。

サウジアラビアはイギリスの支援をうけながら、以前さかえたワッハーブ王国の再興をめざしていました。

その過程でライバル関係にあったハーシム家のフセインを倒し、ヒジャーズ王国を滅ぼしたうえで新たにヒジャーズ=ネジド王国を成立させます。

約6年後には「サウジアラビア王国」と名まえを変えて、イエメン以外の国を併合し、アラビア半島の統一に成功します。

そのさい、イスラームのニ聖都であるメッカとメディナを手厚く保護し、それによりワッハーブ派による祭政一致の宗教国家を樹立します。

また、旧イギリス委任統治領だったイラクにかんしても、イラク王国成立後、フセインのむすこファイサルを国王としたうえで独立を果たします。

イランとアラブ諸国の民族運動④ ─ シリア

イギリス委任統治領パレスチナを訪問するバルフォア卿

第一次大戦以前、イギリスとフランスは、サンクス・ピコ協定にもとづいて、旧オスマン領だったシリアを委任統治領とします。

しかし両国は住民の意向を無視して、シリアの領土を、

・シリア
・レバノン
・トランスヨルダン
・パレスチナ

の4つに分割します。

ここにシリアをふくめて、新たに4カ国が誕生することになります。

その後、シリアとレバノンについてはフランスから自治を獲得して、共和国として独立を果たします。

トランスヨルダンにかんしても、分割後にトランスヨルダン首長国が成立し、フセインの子アブドゥッラーを国王にすえたうえで、ヨルダン王国として独立を果たします。

問題はパレスチナでした。

パレスチナ地域はシリア分割を決めたサイクス・ピコ協定と前後して、イギリス主導のもと、

・フセイン=マクマホン協定の締結
・バルフォア宣言

がなされていました。

これら一連の〝お約束〟は、すべてイギリスによる二枚舌外交のたまもので、英国はユダヤ人とアラブ人のそれぞれに、相矛盾するような確約をとりつけていました。

もちろんそのねらいは、両民族からイギリスにとってトクになるような利益を引きだすためでした。

その結果、アラブ人が住んでいたパレスチナにユダヤ人たちがたくさん押しよせ、領土をめぐり両民族の対立がおきることになります。

これがいまもつづく「パレスチナ問題」です。ご存知のとおり、アラブ人とユダヤ人の対立は、いまだ解決の道を見いだしていません。

おわりに

イランとアラブの民族運動をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・パフレヴィー朝
・ワフド党
・エジプト王国
・サウジアラビア王国
・フセインマクマホン協定
・バルフォア宣言
重要人物
・レザー=ハーン
・イブン=サウード
ポイント
・イギリスはエジプトの独立は許すものの、スエズ運河地域における軍駐屯はそのまま継続した

この記事が、イランとアラブの民族運動を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。