どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・サマルカンド
・マムルーク
・耶律大石(りやつたいせき)
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
中央アジアのイスラーム王朝① ─ サーマーン朝

イスラーム勢力と唐王朝が争った「タラス河畔の戦い」以降、中央アジアでは、アッバース朝が権勢をつよめていました。
しかし、アッバース朝の力が衰えてくると、中央アジアではイスラームの影響をうけた王朝が、独自に台頭してきます。
はじめに台頭したのはサーマーン朝で、イラン人初のイスラーム王朝でした。
・サマルカンド
などの都市を拠点しながら、東西交易により大きく発展します。
また「マムルーク」とよばれるトルコ人奴隷を都市バグダードへ供給していました。その取り引きもまた、国の利益につながりました。
イスラム世界の外側からつれてこられた奴隷出身の軍人たちを、一般にマルムーク(=所有されるの意)とよぶ。〔略〕マルムークを購入し、教育・訓練をほどこして軍事力の中核とすることは、イスラム世界に成立した、その後の諸王朝において一般化していった。(p.135)
─ 『詳説 世界史研究』
くわえてサーマーン朝では、アラビア語をとりいれた近世ペルシャ語が発達します。それにより、ながらく途絶えていたペルシャ語文学も復活することになります。
有名な研究者にイブン=シーナーがいます。彼はサーマーン朝貴族の出身でした。
中央アジアのイスラーム王朝② ─ カラハン朝

衰退するサーマーン朝を滅ぼし、代わって台頭したのがカラハン朝です。こちらは、トルコ人初のイスラーム王朝です。
かれらはサーマーン朝の人びとと同じく東西トルキスタンをおさめました。
カラハン朝の登場によって、中央アジアで暮らすトルコ人にイスラーム教は普及していくことになります。
カラハン朝は10世紀末にはサーマーン朝を滅ぼして、ソグディアナをも支配するようになった。〔略〕それまでイラン系を中心としていたこの地の住人が、じょじょにトルコ化していく原因となり、この地は西トルキスタンとよばれるようになった。(p.136)
─ 『詳説 世界史研究』
もっといえば、カラハン朝は中央アジアをイスラーム化させた、といえるでしょう。
このように、中央アジアにトルコ人王朝ができたことで、以後、トルコ系民族の西方移住が、さかんにおこなわれるようになります。
中央アジアのイスラーム王朝③ ─ カラキタイ

200年ばかりつづき、中央アジアのイスラーム化をもたらしたカラハン朝も、東方からやってきた遊牧民に滅ぼされることになります。
かれらはモンゴル系の民族で、中央アジアに進出していきます。
カラハン朝を滅亡させたあとはカラキタイ(西遼)を成立させます。
「西遼」の国名をみてわかるとおり、カラキタイはもともと中国北東部に「遼」という国をかまえていました。
金王朝&宋王朝との領土争いに敗れたかれらは、外モンゴルを経由して、中央アジア方面に移り住み、この土で権力をふるうようになります。
君主は耶律大石(やりつ たいせき)で、遼皇帝の一族でした。
カラハン朝を滅ぼした西遼ですが、国教はイスラーム教を採用します。そのために、西遼もまたイスラーム王朝とよぶことができます。
おわりに
中央アジアのイスラーム王朝についてみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・サマルカンド
・マムルーク
・耶律大石(やりつたいせき)
この記事が、中央アジアのイスラーム王朝を知りたい人の参考になれば、うれしいです。
では、また。




